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『デビル』を観てアーメンと唱えようよ。

デビル

 今回は、戻ってきてよシャマラン!『デビル』の感想です。

 観に行った映画館はTOHOシネマズ日劇。すげー久々に来たのですが、でかいですね。こんな巨大なスクリーンでB級ホラーを見る幸せ。そんなわけで空いていたわけではなかったのですが、なにしろ劇場が大きすぎて、空いている風に感じました。会社帰りのサラリーマンが多かったです。


概要:2011年のアメリカ映画。『シックス・センス』『サイン』『エアベンダー』のM・ナイト・シャマラン監督が、これまでに考えついた数々のアイデアを、スタッフ・キャストに期待の新鋭を起用して映画化していくプロジェクト“ザ・ナイト・クロニクル”の第1弾。監督は『REC:レック/ザ・クアランティン』のジョン・エリック・ドゥードル、脚本は『30デイズナイト』『ハード・キャンディ』のブライアン・ネルソン。
 高層オフィスビルから一人の男性が墜落死したちょうどその時、互いに見ず知らずの5人の男女が乗り合わせていたエレベーターが突然の故障で停止する。閉じ込められた5人が救助を待つ中、一時的に照明が消え、何も見えなくなった瞬間に若い女が背中を切られ負傷する。4人の内の誰かが犯人なのは明らかだった。その様子をビルの警備室で監視カメラ越しに目撃していた警備員は、整備担当を修理に向かわせるとともに警察に応援を要請するのだが…。
("allcinema online"より抜粋)


(1)突然だけれど、妖怪は実在する。妖怪とは時代や気候、運や気分など不確定な現象をなんとか理知的に捉えようとするべく、それらの現象に"キャラクター性"を与えた存在だ。『DOCUMENTARY of AKB48 to be continued 10年後、少女たちは今の自分に何を思うのだろう?』の時も書いたけれど、アイドルがその時代の持つ雰囲気や欲望や期待を象徴・キャラクター化した存在であるのに近いと思う(とりわけAKB48は妖怪と類似点が多い気がするが、その論考はまた別の機会に)。
 だから妖怪は人が不可解な現象に立ち会ったとき、それを具現化・記号化し理解したい欲求から現れ、実際目に見えることすらある。


(2)ところで恐ろしいことに悪魔も実在するそうだ
 しかしながら本作の終盤や『パラノーマル・アクティビティ 第2章/TOKYO NIGHT』『エクソシズム』に登場する悪魔は、『仮面ライダー』の怪人のような化け物然とした姿がない。そこら辺にいそうな人間の姿を借りたり乗っ取ったりして現れる。本作でも何度か「悪魔は人間の姿で現れる」という解説が入る。

 悪魔とは多分人間誰しもが抱えている様々な「悪意」を象徴・キャラクター化した存在であり、その悪意が露わに発現してしまった人を悪魔と呼ぶのであろう。『悪魔を見た』『ビー・デビル』なんてまさにその事を描いていた。


(3)本作の冒頭は上空撮影したニューヨークの街並みから始まるが、天地がひっくり返っている。空が下に、地面が上にある。この世の全てが真っ逆様に落ちてきてしまいそうな絵だ。
 そのショットが象徴するように本作はものが落下してくるというアクションがやたらと多い。人が落ちてくるシーンが二回。エレベーターやガラスもガンガン落ちてくる。
 ダンテの『神曲』によると地獄は真っ逆様なんだとか。つまりこの逆さまの構図は"この世は悪魔が住み着く地獄なんだ"ということを表しているのかもしれない。

 そして物語はエレベーターに閉じ込められた5人の男女が中心に動く。彼らは少しクセがあるかもしれないが一見善良な市民である。しかしながら物語が進んでいくうちに彼らのかつての悪事が次々と分かってくる。暴行、恐喝、詐欺、盗み――そして彼らはそれぞれがそれぞれを疑いだし悪魔のような本性をむき出しにして醜く争いあう。
 しかしながら、その悪魔性は彼らに限ったことなのだろうか。登場人物たちは最初それぞれが助け合おうと善意の行動をとるが、それが裏目に出て悪意を導き出したりしてしまう。例えばある男は場を和ませようと冗談を言うがそれが周囲を苛立たせる結果となる。このように多分彼らはそもそも観客が最初に彼らを見た時に感じた通りの善良な市民なのだろう。ただしちょっと魔がさした時に悪さを働いてしまった、そんな誰しもが持っている悪意を彼らも持っているだけだ。
 エレベーターの中で何時間も閉じ込められれば誰だって正気じゃいられなくなる。その時人の悪意は暴走する。その理不尽さを理解すべく暴走する悪意にキャラクター(具体的な形)を与えてしまった時、悪魔は我々の前に現れるのではないだろうか。


(4)ところで、同様にカミサマも実在するらしい。「魔がさす」って言葉があるのに、ふいに善行を施したくなる時に使用する「神がさす」って言葉がないのは不思議)
 主人公のボーデン刑事(クリス・メッシーナ)は彼の妻子をひき殺した男を目の前にいながら許した。同様にエレベーターの中で悪魔と対面した"ある人物"はそれまで自分を殺そうとしてきたある人物を許したことにより悪魔に引っ張られなかった。
 多分そういう"ふいの善行"を形にしたとき、それが"カミサマ"(まぁ妖精でも天使でもなんでもいいのだが)なのかもしれない。
 「もし悪魔が実在するとしても心配はない。悪魔がいるならカミサマだっているはずだから」という、ステキなセリフによって本作は締めくくられる。


 以上、『デビル』は、誰しもの中に存在する悪魔(とカミサマ)の実在性を描いた作品だと感じた。


 不満点は何故エレベーターなのか。なぜ悪魔は地獄に引きずり込みたいのか、悪魔が地獄に引きずり込むためのルールなどがまったく説明なされていない点。まぁ悪魔のやることだし…みたいな感じで目をつむることもできるのですが。
 あとシャマランなのにズッコケがないことと本人が出ていないことです。プロデューサー稼業気に入っちゃったらしいけれど、僕は待ってます『エアベンダー2』…待ってます。

 みひろレベル

 次回は我らのエレン・ペイジちゃんが大変なことに!『スーパー!』の感想です。

テーマ:映画館で観た映画 - ジャンル:映画

  1. 2011/08/21(日) 13:35:01|
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『エッセンシャル・キリング』は"理解できない"よ。

エッセンシャル

 今のところあと書かなきゃならない感想が9本溜まっています。
 今回は久しぶりのヴィンセント・ギャロ主演『エッセンシャル・キリング』の感想です。

 観に行った映画館はシアター・イメージフォーラム。前回、前々回と同様にファーストデイに行ったので満席近く混んでいました。ここは前方が見えづらいです。
 客層は若い20~30代の一人客が多め。


概要:2010年のポーランド・ノルウェー・アイルランド・ハンガリー映画。製作・監督・脚本は『早春』『アンナと過ごした4日間』のイエジー・スコリモフスキ。
 アフガニスタンで米兵を殺害したことで、米軍によって拘束された男ムハンマド(ヴィンセント・ギャロ)。収容所で激しい拷問を受けた後、軍用機で別の場所へと移送される。やがて、護送車で移動中に事故が起こり、彼はその混乱に乗じて脱出に成功する。しかし、そこは右も左も分からない雪深い森の中。それでも、追っ手から逃れるべく、やみくもに逃げ続けるムハンマドだったが…。
("allcinema online"より抜粋)


 ケンカをおさめるためには"互いの言い分を聞く"という手段は有効であり、相互理解が仲直りに繋がる可能性もなくはない。

 本作の主人公ムハンマドはただひたすら逃亡する。人を殺し、女を襲い、恥も外聞もなく無言で死に物狂いで生きる。そこが一体どこなのかも、自分がどこに向かえばいいのかも分からぬまま黙々と逃亡する。
 最初米軍のトラックから転げ落ち偶然逃亡できたあと、寒さに耐えきれずもう一度捕まろうと降伏しようとした彼がどうしてそこまでパワフルに逃亡するようになったのか


(1)アメリカのアフガン侵攻は泥沼化しいつ終わるとも分からない。アフガニスタンの年間死傷者はタリバン政権に殺害された者より米軍に殺された者の方が多くなってしまっているとか。ベトナム以上のグズグズした状態が待ち構えているとも言われている。
 本作で描かれるムハンマドの極限の精神状態にその問題の原因が隠されているかもしれない。

 アメリカのアフガン侵攻に関してはそこら辺相互理解がちょっと難しい。僕が国際政治に関してまるで疎いうえに、知っていることもいまいち上手く説明できないので、あまり丁寧には書けないし間違っている箇所があるかもしれないけど、なんだかえらく複雑だ。基本は土地の奪い合いなんだろうけれど、両者様々な思惑のもと戦っている。

 アメリカ側は、ウサマ・ビン・ラディンを匿っているアフガニスタンに自由主義を広めるという大義名分のもと、石油利権やら麻薬栽培による利益を得るために侵攻しているというのが通説である。兵士がどこまで理解できているのかは定かではないが、まあ大義名分と本心は違うくらいは知っているのか、でも前回の『モンスターズ/地球外生命体』で書いたように、イラク国民の生活水準が向上したなんてデモを信じているくらいだから…。

 アフガニスタンの実質上の支配者タリバンの場合はどうだろうか。やはり本心は利権争い、お金絡みなのだろうが、大義名分としてはコーランに描かれている理想世界の建設というものがあり、"宗教がらみ"という点がアメリカの場合とは状況を大きく異にさせている。

 タリバンの兵士たちは宗教心によって戦っているのであり、彼らは自身が"神の兵"であるという自覚がある。それは物質的・経済的な欲望ではなく精神的な問題なのだ。
 だから手こずる。ちょっとした敗北が信じる神やアイデンティティに強く関係し、単純な経済的な理由ではないからアメリカのアフガン侵攻は泥沼化してしまう。アフガニスタンのタリバン兵は自分の存在を成り立たせている神のため決して負けられないのだ。


(2)本作の主人公ムハンマドはロケットランチャーをぶっ放し殺人を犯したあと、気を失い耳鳴りがおきる。偶然生き長らえ、自分の命が一度破裂したのを感じた彼はそこで「生き返る」という宗教的体験を得る。一度死んで生まれたばかりの彼は赤ん坊のように女性の母乳にくらいつく。
 そして何気ない耳鳴りが、"神の囁き"へと変わっていく。

 本作は"音"がとても重要な働きを持つ。最初なんでもないと思われていたハエの羽音や鳥の鳴き声が、後々カミサマのお告げだったのかと思われてくる。無言の劇がその音描写をより効果的にする。

 そして神の存在を次第に確信していくにつれ様々な偶然は"神の啓示"となる。偶然通りかかった猪が自動車事故を起こし、ムハンマドは偶然生還し、偶然敵兵を殺すことに成功する。これらは全て神の思し召しなのだ。その時、彼が犯す殺人はただ私利私欲のためのものではなく、生存のため神のために不可欠で本質的な殺人――"エッセンシャル・キリング"なのであった。


(3)『BIUTIFUL ビューティフル』の時も書いたけれども、宗教というのは人がどうしても避けることの出来ない「死」という運命への恐怖に対して生み出した精神安定剤のようなものであるという。精神安定剤の過剰な摂取はその意味合いが変わってしまうのと同様に宗教も使い方次第で人間の精神を暴走させてしまう"麻薬"となってしまう。

 ラストシーン、極限状態におかれたムハンマドの姿は突如消失する。彼の存在が全て幻だったような描写だが、宗教心によって暴走した彼が見ていた現実は我々とはもはや違うものだったのかも知れない。アメリカとタリバンがそれぞれ観ている現実が違うように。

 以上、『エッセンシャル・キリング』は、パワフルでエネルギッシュな無言の逃亡劇から、盲信的な宗教心が見せる我々とは異なった現実感を描写し、そういった戦争の狂気を無言のアクションの連続が肉感的に伝える作品だと感じた。


 エネルギッシュというには語弊があるほど次第に常軌を逸脱していくギャロが「本当に道を踏み違えてしまった『バッファロー'66』」みたいで良かったです。
 映画とはそもそもサイレント。動きのみで見せるのが基本だと思うので、無言の逃亡劇をひたすら見せることで、こうも様々な憶測を喚起させるのは素晴らしいなと思いました。

 杉本有美レベル。

 次回は、俺たちのM・ナイト・シャマランが帰ってきた!と思ったら製作でしたでお馴染み『デビル』の感想です。

テーマ:映画館で観た映画 - ジャンル:映画

  1. 2011/08/20(土) 10:27:46|
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『モンスターズ/地球外生命体』は基本チラリズムだよ。

モンスターズ

 時間がある時にさくさく更新していくよ。ブログ更新しながら『ドニー・ダーゴ』を数年ぶりに観ていますが、ながら見だとあんまり理解できませんね。これ当時すごい好きでした。『ドニー・ダーゴ2』は観てないや。「息子がサイコ野郎でごめんね」「最高だわ」のやりとりは本当に好きです。
 
 今回は、うわーい怪獣映画だよ!!『モンスターズ/地球外生命体』という映画の感想です。

 観に行った映画館はシアターN渋谷。前回に引き続きファーストデイに行ったので満席でした。客層は例によっていつものシアターN渋谷的な、『映画秘宝』的な。


概要:2010年のイギリス映画。監督・脚本・撮影はギャレス・エドワーズという人。
 2009年、NASAの探査機が地球外生命体の存在を示すサンプルの採取に成功するが、地球への帰還を目前に、メキシコ上空で大破してしまう。やがて、地球外生命体の増殖が始まり、メキシコの北半分が危険地帯として隔離される事態に。6年後、アメリカ軍とメキシコ軍によるモンスター封じ込め作戦が懸命に続けられる中、現地を取材中のカメラマン、コールダー(スクート・マクネイリー)に本社からある指令が出される。それは、メキシコに足止めされている社長の令嬢サマンサ(ホイットニー・エイブル)を無事にアメリカまで送り届けろというもの。当初は安全なフェリーを利用するはずが、思わぬトラブルに巻き込まれ、危険な陸路での縦断を余儀なくされる2人だったが…。
("allcinema online"より抜粋)


(1)『ムカデ人間』『SUPER 8/スーパーエイト』の時にも書いたけれどモンスターは人の心の現れである。
 核の恐怖なしに『ゴジラ』は生まれなかったし、少年の現実世界に対する夢や希望、失望や破壊願望なしに『ウルトラマン』に登場する諸々の宇宙怪獣は生まれなかったであろう。

 そして『モンスターズ/地球外生命体』に登場する地球外生命体は、国家が持つ欺瞞とその手の内で飼い慣らされている我々自身に対する不信感を象徴したものであると思う。


(2)本作で印象的なシーンは二人の主人公がメキシコを脱し、アメリカにたどり着いたとき、まるで今までの悪夢など全て空絵事だったかのように、アメリカ国内では平和な世界が演出されていたシーン。国境に立ちふさがる巨大な壁は地球外生命体たちをメキシコに隔離するものではなく、外界の真実を知らせないため、アメリカを隔離した壁であったのを知ったシーンだ。

 アメリカというと世界一の経済大国。日本人にとって戦後より外国といえばアメリカ、幼稚園児だって知っている最もメジャーな外国だ。
 だがその国の内情を我々もアメリカ人もあまり知らない。例えばアメリカが引き起こしたイラクの惨状(失業率が25~50%で、議会は機能不全、疫病がはびこり、精神障害がまん延、スラムが無秩序に広がっているのだとか)を、政府とメディアが手を結び、イラク侵攻で国民の生活が向上したと報道し、アメリカ国民もほとんどがそれを信じている。
 むしろ国民の方が知らされていないという点では、ちょうど先日の大震災で原発事故の危険性について日本国内のメディアだけが何故か安全と言い張って真実を伝えていなかったのと同様だ。どこの国も似たようなものだろう。

 本作で描かれるメキシコでもアメリカ国民が想像もしていなかった惨状が繰り広げられていた。アメリカは自分たちが持ち帰りメキシコに落としてしまった地球外生命体を駆除するため、毒ガスをばらまき、メキシコを壊滅状態へとおいやってしまっている。
 アメリカ側は自分たちが起こしてしまったそんな大事故を感じさせないように、巨大な壁でメキシコを覆い隠し、テレビでは楽しくハッピーな消費社会を演出するばかりだ。本作の主人公たちはアメリカに帰り、その落差に戦慄する。
 冒頭でアメリカ兵が『ワルキューレの行進』を歌うシーンがあるが、もちろんこれは『地獄の黙示録』のオマージュであり、この映画で描かれる事件は自分たちが撒いた火の粉によって起こった戦争を枯れ葉剤を撒いて終結させようとしたベトナム戦争を彷彿させる。


(3)本作の見どころは、地球外生命体登場シーンだけではなく、モンスターが暴れまわる地域に生活する人々の日常シーンでもある。
 ショッキングなのはガスマスクをかぶって遊びまわる子供たちのシーン。彼らはいつの間にやら大惨事なのを忘れ日常生活を営んでいる。
 震災のせいで普天間問題は保留になってしまったし、こともあろうか時間の経過と日々の生活の中で放射能流出にすら慣れて日常を営んでいる我々には考えるところのあるシーンである。
 人は常に警告をされていないとどうもその状態に必要以上に適応してしまうようだ。それは人の逞しさでもあり悲しさでもある。
 こちらにおいても政治やマスメディアは事態を深刻化させ国の動きをストップさせないよう、そういった人の習性を利用し、情報を規制もするし、隠したりもする。
 テレビをつければ可愛らしいポップな漫画の絵で地球外生命体が遊んでおり、ガスマスク着用を促している、その欺瞞にゾッとする。


(4)話題は深刻なものから急にロマンチックなものになるが、本作で政治的なものの他に、本質というか本当の感情を覆い隠しているものがもう一つある。主人公たちコールダーとサマンサの恋だ。
 彼らはそれぞれが身分も違うし、決まった相手もいるしで、社会的には結ばれてはならない2人であり、きちんと社会性を持って、気になりつつも距離を置いている。
 それぞれその感情に薄々感づいてはいるのだが、理性によって見て見ぬフリをしている。


(5)では冒頭に記した、本作に登場するモンスター"地球外生命体"が象徴するものについて考えたい。

 地球外生命体の容姿はあまりハッキリとは現れないがタコのようでクラゲのようでイカのようでもある。
 これらの生き物の共通項は、軟体生物であり、全身粘膜体。粘膜と言えば身体から突起した粘膜を「お宝」と称して武器にして戦った『戦闘少女 血の鉄仮面伝説』を思い出すが、あの作品もこの作品もその「粘膜」が表すものは性器のメタファーである。

 性器とはそのアニマル剥き出しの生々しさ故に隠されるもの。普段社会生活を営む際にその存在を主張してはならないものである。
 しかし性器は一方で大変重要な器官であり、これなくして人類は存続できない本質的なものでもある。

 本作でアメリカがメキシコの現状を欺瞞によって覆い隠し、メキシコ国内においてすらその危険性をカモフラージュしてごまかしたりしたように、その欺瞞によって隠されてしまう生々しく本質的な"性器"のようなものを象徴したのが本作に登場する"地球外生命体"なのではないだろうか。彼らが暴れまわる様はその欺瞞の強い圧迫の反動で爆発したかのようである。

 そして、惹かれあいながらもそれぞれの世間体という理由から、その感情を見て見ぬフリをしていたコールダーとサマンサは、二体の性器のような地球外生命体の本能剥き出しの交尾の姿に感化され、覆っていた全てを脱ぎ去りキスをしたのだろう。


 以上、『モンスターズ/地球外生命体』重要な真実や本質的な感情を欺瞞によって覆い隠す強い力の恐怖と、その強い圧迫の反動で生まれ出でてしまったモンスターを描いているのではないだろうかと感じた。


(6)各所で言われているように、派手な特撮はありませんのでその点いささかガッカリですが、低予算ならではのアイデアと、ディテールへのこだわり、現代性、ロマンチックな帰結など、なかなか見応えはある作品でした。この監督がオファーを承諾したという、本当にやるのかどうか不透明な、新生ハリウッド版『ゴジラ』にも期待しておきます。
 特撮ファンなら抑えておくべきかと。オススメ。

 山崎真実レベル。

 次回はお久しぶりです、ヴィンセント・ギャロさん!『エッセンシャル・キリング』の感想です。

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  1. 2011/08/20(土) 01:55:53|
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『ふたりのヌーヴェルヴァーグ ゴダールとトリュフォー』は21世紀のヌーヴェルヴァーグだよ。

ゴダールとトリュフォー

 そんなこんなでそこそこ真面目に更新していってこの溜まりに溜まったノルマをなんとかしてやろうと思っております。
 今回は『ふたりのヌーヴェルヴァーグ ゴダールとトリュフォー』という、ヌーヴェルヴァーグの時代を扱ったドキュメンタリー映画の感想です。

 観に行った映画館は新宿のケイズシネマ。ファーストデイに行ったのですが、この映画館は1000円で見れる日がファーストデイしかないのもあり、公開3日目というのもあり満席でした。客層は一人客が多めで、中でも中年以上の方が多かったです。若い人もちらほらと。


概要:2010年のフランス映画。製作・監督はエマニュエル・ローランという人。脚本はアントワーヌ・ドゥ・ベックという人。
 “ヌーヴェルヴァーグ”の名を世界に知らしめたフランソワ・トリュフォー監督の『大人は判ってくれない』がカンヌ国際映画祭で上映されセンセーションを巻き起こしてから50周年になるのを記念して製作されたドキュメンタリー。ヌーヴェルヴァーグを代表するふたりの巨人、フランソワ・トリュフォーとジャン=リュック・ゴダールの友情と決別までの軌跡、そしてふたりの間で翻弄されることになる俳優ジャン=ピエール・レオの運命を振り返る。
("allcinema online"より抜粋)


 ゴダール作品って特に初期の作品はポップで好きですが、『勝手にしやがれ』『小さな兵隊』など公開当時斬新だとかモラルがないとか言われていた意味はよくわからない。理屈や知識ではわかるけど、それを今見て"新しい"と思えない。そこに毎回寂しさを感じる。
 それでもゴダールが、もしくはトリュフォーやアニエス・ヴァルダやルイ・マルやアラン・レネなどのヌーヴェルヴァーグの監督たちが、それでも50年後の若者たちのアイドルでいられるのか、その理由が本作では描かれていると思う。


(1)ゴダールに関しては『ゴダール・ソシアリスム』の時にも書いたと思うけれど、思春期の僕にとって最強のアイドルであったが、トリュフォーに関してはそんなに愛着は無かった。
 それは何故か。ゴダールの映画は今でも明らかに常識外れの映像で、その色彩、構図、編集、音どれをとっても刺激的だし、何よりゴダール作品の方がジーン・セバーグやアンナ・カリーナ、ブリジット・バルドーなど可愛い女の子が出ていたのが決め手となっていた。
 トリュフォーも当時としては斬新な映像だったそうだけど、今見たらそうでもないし、『突然炎のごとく』のジャンヌ・モローは思春期の僕には年上すぎた。
 それもそのはず、本作で語られているように、ゴダールは映像に重きを置いていたが、トリュフォーはどちらかというと物語性に重きをおいていた。ゴダールの方がわかりやすく刺激的なのだ。


(2)でもって本作は『勝手にしやがれ』『大人は判ってくれない』が封切りした当時の観客や批評家の感想が挿入されているが、当時としてはその演出というよりも、それもあるのだが、それを含めた思想やテーマが斬新で刺激的だったそうだ。そのどういった点が斬新だったのかという説明がされなかったのは残念だったが、例えば"チープでポップな命"という反倫理的なテーマに扱った『告白』がチープでポップな演出で描かれ、刺激的で斬新な一方で多くの人が拒否反応を起こしたという構図に似ているかもしれない。
 ただ多分その当時の衝撃は蓮實重彦先生くらいの知識と読解力と想像力があったとしても伝わらず、それは当時の人にしか分からないものなのだろう。

 で、我々後追いの世代は結局その映像の持つポップな刺激や、歴史性を楽しむという仕方で彼らの作品を鑑賞し、当時『大人は判ってくれない』『勝手にしやがれ』に熱狂していた人々と同様の楽しみは共感できないのだ。


(3)本作ではおそらく当時の刺激的な思想やテーマがなんであったかを描かないのがミソなのであろう。
 そして本作は上記のごとく新たなゴダールとトリュフォー作品の楽しみ方を提示している。

 本作で描かれるのは育った環境も学歴もまるで違う二人が映画愛ゆえに出会い、5月革命以降、映画に対する考え方の違い(ゴダールは映像に対する刺激・政治性を、トリュフォーは物語・ファンタジー性を重視した)ゆえに決裂していった(それと二人の作品に愛された故に二人の兄貴分の間で悩んだジャン・ピエール・レオーという少年の)物語である。
 その"物語"を語るのに必要とされるのはゴダール映像の刺激であり理屈っぽさトリュフォー映画の甘酸っぱい物語性と少年っぽさ、そして映画青年としての彼らのキャラクター性であり、彼らの政治的思想や芸術論、社会意識云々は必要最低限しかいらないのだ。
 そしてヌーヴェルヴァーグから50年経った今だからこそ、二人の映画青年の友情にまつわる20世紀最大の映画革命の始まりと終焉の"物語"という新たな視点の楽しみ方が可能なのである。


(4)映画というのはその時代を映す鏡とよく言われる。

 『市民ケーン』の演出を見て今さら驚く人は少ないだろう。1931年の『魔人ドラキュラ』を見て恐怖のあまり卒倒する人もいない(ましてや恐怖目的で『魔人ドラキュラ』を見る人すら少数だろう)。クラシック作品で今見ても傑作というのは星の数ほどあるけれど、それは当時の観客が同じ作品を見て傑作と言った感想とは違う感想で傑作なのだろう。

 『コクリコ坂から』で登場人物が叫ぶ浅はかな懐古趣味に対しての不満を書いた時にも記したけど、古いモノの素晴らしさは古いからではなく、その価値を時代によって変化させ、価値の多様性を産むからではないだろうか。


 以上、『ふたりのヌーヴェルヴァーグ ゴダールとトリュフォー』は、『勝手にしやがれ』『大人はわかってくれない』などの公開当時のテーマや思想などの持つ社会的意義は剥ぎ取り、作品のもつキャラクター性やキャッチーな映像、愛おしいストーリー、ゴダールとトリュフォーとジャン・ピエール・レオーのキャラクター性などを抽出し、ヌーヴェル・ヴァーグの時代ではない、50年後の未来に住む我々ならではの楽しみ方を描いた作品だと思う。


(5)不満点はフィクションの現代パート(ゴダールとトリュフォーのことを調べている男女)がしばしば挿入されるけど、それがあまり意味を成していなかったこと。「現代からの視点」というテーマを彼らのドラマで暗示して欲しかったです。
 あとそんな「斬新」ではないことも不満。もはやテーマや思想的に「斬新」ではなくなったヌーヴェル・ヴァーグを違う視点で「斬新」にして欲しかったです。


 ヌーヴェルヴァーグ作品の入門としても悪くはない気がします。色んなオシャレな映像が見られるし、これ見たことない人が見たら見たくなっちゃうんじゃないでしょうか?

 広瀬アリスレベル。

 次回は監督が新しい『GODZZILA』の監督に選ばれたことでも話題です『モンスターズ/地球外生命体』の感想です。

テーマ:映画館で観た映画 - ジャンル:映画

  1. 2011/08/20(土) 00:48:06|
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『ハリー・ポッターと死の秘宝 PART2』は控えめ超大作の控えめ大団円だよ。

ハリポタ7-2

 今回はシリーズ最終作『ハリー・ポッターと死の秘宝 PART2』の感想です。『PART1』も感想はこちら

 観に行った映画館は新宿ミラノ1。すいません時間の都合で2Dで見てしまいました。ただシリーズ1作目をここで見たから、最終作もここで見たかったのです。この巨大なスクリーンは幸せです。早朝の回に行ったのでお客さんはほとんどいませんでした。オジサンオバサンばかりでした。TOHOシネマズ新宿なるものがコマ劇跡に出来るそうですが、これで歌舞伎町も少しは盛り返すかな。いまゴーストタウンみたいになっちゃってますよね。


概要:2011年のアメリカ映画。J.K.ローリングのベストセラーファンタジーを映画化した大人気シリーズ第8弾(7作目の後編)。監督はシリーズ5作目から監督を務めるデヴィッド・イェーツ。脚本はシリーズのほぼすべてを書いたスティーヴン・クローヴス。音楽はアレクサンドル・デプラ。
 ハリー・ポッター(ダニエル・ラドクリフ)たちとヴォルデモート卿(レイフ・ファインズ)の間で繰り広げられる最後の戦い。この壮大なクライマックスで魔法界における善と悪の戦いは、本格的な交戦へとエスカレートする。この戦いは今までで最も危険なものであり、もはや誰一人としてその身が安全な者はなかった。しかも、ヴォルデモート卿との最終決戦で最後の犠牲を払うことになるのはハリー。そしてすべての謎が明らかになり、物語はフィナーレを迎える。
"goo映画"より抜粋)


 まず最大の評価ポイントは、10年間ほぼ同じキャストが出演し続けて、8つの映画にそのキャラクターとしても肉体的にも「成長」してきた証が記録されていること。しかもそんなシリーズの総決算なわけだから、特にハリーたちと共に成長してきた今20歳くらいのファンはいくら拍手を送っても足りないくらいの感動が得られるんじゃないかと。そういった長期シリーズものとしてはほぼ最高の理想の形で完結を迎えることができたという点だけで評価に値すると思います。
 というわけで、予習としてシリーズ通して一気に前の7作品を見て、気合い入れまくったコンディションで全8作を一本の作品として見たら、このような起承転結の結だけ見させられているような作品も連続性を持って見ることができて、多分すごいカタルシスを得られると思うんです。
 前作のこと知らなければ100%楽しめないっていう前提がある映画ってまぁそれだけで手落ちな気がしますが、今日日そんなことも言ってられないし、これも一つの映画の形かなとは思います。


 で、そのような評価ポイントを踏まえての今回の感想です。前作『ハリー・ポッターと死の秘宝 PART1』が特にそうだったとは思うのですが、それぞれを一本の映画と見るとどうもタンパク、つまらなくはないんだけど、この手の大仰なハリウッド映画にしてはなんともアッサリしてるなっていう。シリーズ1作目『賢者の石』や2作目『秘密の部屋』あたりはまだハリウッドらしいワクワクが溢れていたんだけれど、それ以降どんどん良くも悪くもアッサリしてきているなと。
 ハリウッドらしく大げさに盛り上げたり過剰な感動や興奮を与えるわけではなく、淡々と物語を消化していく感じ。その冷静な語り口に、大味なアメリカンスタイルに慣れてしまった僕などは、なんとも言えない消化不良を感じていたものです。

 で、今回の感想および『ハリー・ポッター』シリーズの総括としては、「控えめ」な作品だということ。本作が「控えめ」に物語を描いてきたことに、何らかの意味を感じとれる総決算作品になっておりました。


(1)本作は「総決算」ならではの楽しさにあふれている。
 特に前作を壮大な前フリにだけ使用したため、そこで溜まったガスが一気に放出された感じ。
 例えば"あの因縁のキャラクター"との相互理解が得られたり、あのコンプレックスだらけのダメキャラクターがついに努力の甲斐あって逆転ホームラン打ってハリーたちを大勝利に導いたり、10年間引っ張りに引っ張りまくった謎がついに解決されたり、あのキャラクターとあのキャラクターがついに結ばれたり――まあ割と「今後そうなるんだろうな」とわかりきった展開ではあったのですが、それ故にすごくスカッとする。「待ってました!」と。何しろこちとら十年間積もり積もったフラストレーションがある。
 それもこれも先述の通り、本シリーズ(の特にシリーズ後半)の演出が総じて「控えめ」であるゆえに、ガスが溜まりやすい構造になっていたからなのではないかと。
 それにしてもガスが放出されきれていないむずがゆさがあるのだが、そのことに関しては後述。


(2)本作はまたシリーズで一番残酷な物語でもある。
 本作は死人の数も圧倒的に多く、絶対死にそうにないコメディ担当のあのキャラクターまであっさり死んでしまったり、ハリーの行動によって事件と直接関係のないゴブリンが無惨に焼死したりする。
 あの楽しかったホグワーツ魔法学校は要塞と化し、『ロビン・フッド』の冒頭シーンくらい壮絶な戦闘シーンのあと半壊。『賢者の石』の頃のハリーたちを彷彿とさせるまだ幼い生徒までが学徒出陣しその幼き命を散らしたりする(*)
 シリーズ1作目の頃はまだ10歳だったハリーももはや青年――いや"成年"と言った方が適切だろうか、シリーズが進み大人になれば汚いものもたくさん見るし、汚い行動をとらざるをえない状況もたくさんある。
 シリーズ最終作の本作は、シリーズの中でハリーたちがもっとも歳をとっている作品でもあり、それ故に最も下劣で残酷な現実を描かないわけにはいかないのだ。

(*)集大成らしくところどころ『賢者の石』の回想シーンが入ったりするんですが、あの頃と本作とでは『オバケのQ太郎』『劇画・オバQ』くらいの違いがありますよ。あとハリーのギャランドゥとかロイのお腹とかやたら色っぽくなっているハーマイオニーちゃんとか、ショッキング!


(3)以上のように『ハリー・ポッター』シリーズにおける本作の特徴は総決算っぷりいつになくショッキングな展開にある。そしてその描写はやたらと控え目なのである。

 控えめな例はまだまだある。
 例えば"あの愉快ないたずらっ子キャラクターの死"など最重要なはずなのに、その死のシーンを描かなかったり(これは前作でもマッド・アイ・ムーディの死の描写がないという点でありましたね)、また"あの憎いライバルキャラクター”をああいったかたちで救ったのであればピンチの時に助けにきてくれるのが定石なはずなのになんかしょんぼりしちゃっているだけだし(これは前作の最後に彼がハリーを見逃したことが布石となっているのでハリーはむしろ恩を返す形で彼の命を救ったとも言えるので、シリーズを通してみればそんなに違和感はありませんが)、あと最後までわかりあえないどころか今回は登場すらしなかったハリーの育ての親のダーズリー一家の扱い(まあ前作もワンショットだけでしたが)…このクールさ、悪く言えば痒いところに手が届かない感じ。

 「控えめ」と言えば、(2)で書いた残酷な死に対しても、ハリーたちはその場ではそのことに悲観的にならない。彼らは18歳の身に与えられた現実の問題が大きすぎるため悲観的になんてなっている暇などはないのではないだろうか。悲観するのは全てが終わってからのことなのだ。

 ハリー視点で進む本シリーズ、シリーズ1作目『ハリー・ポッターと賢者の石』の頃は幼少時の視点で描かれていたので何もかもがおとぎ話の国のようで楽しかった。ヴォルデモートとの対決ですら夢とワクワクの冒険にあふれていた。しかし本作はもはや"成年時の視点"となっており、魔法が使えることの危険性・罪という現実的な問題にハリーたちは否応なく向き合わされている。大団円なのにあのエンディングのあっさりとした味気なさ、『スター・ウォーズ』なら――いや『賢者の石』ならファンファーレの一つや二つかまして大騒ぎするところなのに、彼らの視点はそうではない。そこに到達するまでに失った様々なもの、今後復興するにあたり失っていくであろう様々なものを見据えている。

 このように、本作はシリーズ最大のガス抜きと、今までにないほどシビアで残酷な物語が展開されるが、それは「成年の視点」で展開されるため、シリーズ初期のようなハリウッド超大作らしいワクワクした明るさは描かれないのだと考える。あくまで少年ハリー・ポッターの成長譚である本シリーズは次第に「控えめ」に描いていく必要があったのだ。


(4)最後に『ハリー・ポッター』がシリーズを通して描いてきたものを「控えめ」というキーワードを通して考えてみたい。

 本作は繰り返し「望めば与えられる」というセリフが登場する。そして物語はガツガツ奪いにいくよりも元から持っている才能だったり普通にしていたら向こうから自然にやってくる力が強いみたいな、そういう展開が起こる。

 それってでも最初から努力もしないでチヤホヤされて天才的な能力を発揮していたハリー・ポッターの「持って生まれたやつにはかなわないよ」という本作を通して語られているネガティブな要素(シリーズを通して毎度ロンやネビルはこれに嫉妬していた)の肯定ともとれなくはなくてそんな好きではなかったのだけれど(なんとハリーはそもそもヴォルデモートを倒せる爆弾を持って産まれていたことが終盤明かされる)、そこでダンブルドア校長(マイケル・ガンボン)は「言葉は最高の魔法」という。一生懸命魔法を身につけるのもいいが、たった一言で相手を喜ばせたり傷つけたりできるという「言葉」を操る人は既に最高の魔法を習得していると。それはとにかく「控えめ」で地味な魔法だが。

 そして劣等生ネビル(マシュー・ルイス)は持って産まれたその勇気で、同じく劣等生のロン(ルパート・グリント)はその明るさで世界を救う。それは先述の通り「控え目」な活躍なのだが、実に観客が勇気を与えられる活躍でもあった。

 『ハリー・ポッター』は、天才至上主義的だとか、選民主義的だとか、そういう思想に常に対抗してきていた。ハリー自体は常に天才で選ばれ者なのだが、マグルの世界ではのび太のような弱くて勉強もできない劣等生だった。そして劣等生の気持ちがイタいほどわかる彼は、魔法学校での劣等生や差別をうけているマグルたちと手を組んで、残酷な差別主義やいじめと戦ってきた。そして本作では「臨めば与えられる」「言葉こそ最高の魔法」と言うことで、選ばれし者や天才がいないわけではなく、皆が選ばれし天才なのだという。
 10年間描き続けた史上最長のファンタジー映画の着地点として「みんな素晴らしい魔法使い」だという日常性に回帰して終わる「控え目」な感じがこの作品の美点であるのかなと、そう感じた。

 以上、『ハリポタ』シリーズ最終章の本作は、成年ハリーのシビアな視点を加味することで、実に「控え目」な演出が目立ったが、その良くも悪くも「控え目」な感じが、実は『ハリポタ』シリーズが最終的に語った「皆が控え目に天才で、控え目に選ばれしものなのだ」というメッセージを描き、「控え目」な大団円をもたらしたのかもと、そう考えた。


(5)不満点としては、上記したものの他に、前作に引き続きガッシリ続いているのに「これまでのあらすじ」が無かった点。

 あとヴォルデモートがあまりにも悪の親玉に必須のカリスマ性に欠けていたこと。宇多丸さんも言っていたけれど、自分の命を預けた超大切な分霊箱である大蛇を戦場に駆り出すどころか大した戦闘力もないくせに単独行動で戦わせるとかいくらなんでもうっかりさんすぎる。


 そんなわけで超大作的カタルシスを求めると肩すかしをくらいますが、シリーズを通してみたら総決算としてはふさわしいなかなかの内容だったのではと思います。
 前作の感想で期待していたどんよりもやもやした空気を晴らしてくれるほどはなかったけれども、どこか爽やかな風がふっと吹いてくれるような「控え目」な終わり方でした。

 真野恵里菜レベル

 今回も長くなってしまいましたね。そしてようやく7月に観た映画の感想を書くのも終わり、次回からは8月分です。次回は青春ものドキュメンタリーです『ふたりのヌーヴェルヴァーグ ゴダールとトリュフォー』の感想。

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  1. 2011/08/19(金) 00:57:41|
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