かろうじてインターネット
「少年ジャンプ」と水木しげると映画とおもちゃと特撮を愛します。



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『エンター・ザ・ボイド』は困った生命讃歌だよ。

2010/06/03 02:03



エンターザボイド

 AKB48を好きになろうという計画でございますが、深夜番組などで彼女たちを見ていると、あまりにチョロくて、アイドル番組ってもう30年くらいやってること変わってないんだろーなーって、やや不安な気持ちに陥ります。おニャン子やら光Genjiやらモーニング娘。やらと変わらない。
 まぁ重厚なことをアイドル番組でやられても困るんだけれども。あれくらいの中身のなさが惚けてアイドルを眺めるには丁度いいだろうなとは思うんです。ですが、この軽さに夢中になれるほど、僕も若くないのかなって。昔はこういうノリもバカにしながら楽しんでいた気がするよ。
 AKB48の歌は可愛くていいと思います。ぽ〜に〜ぃ〜てぇ〜る〜♪


 そんなわけで、AKB48のヌルさにはトリップ出来ない貴方も、トリップ出来るかも知れない、今回は『エンター・ザ・ボイド』の感想ですよ。

 観に行った映画館はシネマスクエアとうきゅう。ちょっと前までは映画を観に行く時は歌舞伎町だったんですが、ここしかなくなっちゃって寂しいですね。エレベーターが昔のままで好きです。
 客層はオジサンが多め。ほとんど一人客でした。エロ目的で見に来たであろう、オジサンが終わった後、「なんだか妙な映画だなー」とつぶやいていました。 


概要:監督・脚本は『カルネ』、『カノン』、『アレックス』のギャスパー・ノエ。撮影は『エコール』や『アレックス』のブノワ・デビエ、音楽はダフト・パンクのトーマ・バンガルテルが担当。
 毒々しくネオンが光る東京都新宿区歌舞伎町に住むフランス人オスカー(ナサニエル・ブラウン)は、特に目的もなく、この街でドラッグのディーラーをしながら、自らもドラッグに溺れる日々を送っていた。彼の小さな部屋に一緒に住む最愛の妹リンダ(パス・デ・ラ・ウエルタ)はストリッパーをしながら暮らしている。オスカーは、ある日、警察の手入れに遭遇し、混乱の中で胸を撃たれ、あっけなく死んでしまう。肉体を離れ、魂となって浮遊し始めた彼は、様々な過去の記憶を再体験しながら、遺された妹が住む欲望の街新宿を彷徨うのだが…。



 宣伝チラシに新感覚の「マジック・マッシュルーム3D」とか書いてあった気がしますが別に3Dじゃないです。3Dで見たら酔って大変だろうな。
 この作品、まあ『インビクタス』みたいに、すんなりと「いい映画」と受け入れられる映画ではありません。全編ほぼ俯瞰か主観のショットであり、観念的な描写が多く、140分もあり、まぁちょっと困った映画です。変な映画ですが、真面目に「生と死と欲望」について描いた映画です。
 とりあえずそこんとこを解説します。

 ギャスパー・ノエの作品に共通するのは「欲望の肯定」である(肯定といっても真っ正面から全面肯定といったわけではないが)。我々の生命は欲望によって支えられている。それは不潔で醜くて下品であり、倫理的にもまずかったりする。我々はそこらへんを欺瞞をもってなんとか隠して生活しているが、ノエ作品はそのベールを剥がすことで、欲望とまっすぐ見つめあう機会を設けてくる。

 今回、舞台となっている東京新宿歌舞伎町は欲望が暴走して発展したようなひどく下品な町である。ノエがこの街を描くことで、その側面は誇張されており、上記に貼付けたこの作品のポスターを見ていただければわかるように、映画が進んでいくに連れて、歌舞伎町はまるで欲と犯罪にまみれた地獄のような世界に見えてくる。ダフト・パンクのスコアに合わせてリズミカルにカラフルに展開されるノエらしいオープニング映像に始まり、自分勝手に下品に光るラブホテルや風俗店のネオン、欲望のままに生きる住人たち、生命の尊重は無く、人は汚い便所でゴキブリのように死んでいき、中絶された胎児はゴミのように放ったらかしにされている。そんなこの町は我々が日々の生活に期待する「人間らしさ」とはまるで乖離している。

 だが果たして、この欲望の街は、本当に人間らしい生活観から乖離しているのか。その疑問が本作のテーマではないかと。

 冒頭の主人公の主観視点での映像はとても見づらい。だが、麻薬でトリップした時、そして死亡した時に魂は肉体から離れて、主観視点でなく俯瞰視点(というか主人公の魂の主観視点)になったことで、少しだけ映像は見やすくなる。冒頭のこの繰り返しが、観客を映画の中へトリップさせる。
 登場人物の一人アレックス(シリル・ロイ)は、『チベット死者の書』を引き合いに「死は最高のエクスタシーだ」と言う。
 麻薬でトリップしたり、死亡して魂になった時に、映像が少し見やすくなるように、それと同時に観客はようやく歌舞伎町とシンクロできる。巨大で狂気的な欲望の塊のような街とシンクロするには、一切の欺瞞を取り払った状態(トリップ、魂)になる必要がある。言い換えれば、欺瞞を取り払った欲望だけの存在になった時にはじめて我々は歌舞伎町の住人となれるのだ。
 その状態ではじめて我々は素直に人の欲望を見つめることが出来る。欲望の先にあるものは何か。以下、ネタバレになりますが、その先にあるものはとても単純なことであり、新たな生命の誕生である。
 具合が悪くなりそうな様々なベッドシーン(ベッドシーンなんて上品な言葉では表せない、「がむしゃらにヤリまくるシーン」とでも言った方がいいか)にて性交中の男女の股間が光りまくり(これ、まさにおバカ映像ですよね、劇場内で失笑がもれてました)、その結果として本作で描くものは、ゴキブリや雑草のように粗雑でありふれていて、しかししぶとい新たな生命である。すごく当たり前のことだが、欲望の先には生命があるのだ。

 『渇き』でも描かれていたけれど、欲望を否定しない仏教と違い、欲望を否定するキリスト教は、言ってしまえば欺瞞で構築された宗教であるとも言える。妹のリンダは冒頭で宗教を否定しており、また終盤この作品は輪廻転生を描くが、宗教映画ではなく、どちらかと言えばノエの生命哲学の映画である。
 宗教映画の全てがそうであるわけではないが、美しく神秘的な生命の描写はこの作品には感じられない。ただ欲望の末に生まれる雑草やゴキブリのような生命力を描くだけだ。それはケミカルで狂気的な匂いもして、我々の価値観では幸福な誕生とは言いにくいかもしれない。ただこの映画はそれを無感情に描いているように見える。

 タイトルにある"void"。「空虚」という意味だが、主人公の魂は、麻薬でトリップすることで、または死亡することで、そしてその魂が歌舞伎町に溶け込むことで、理性のない欲望だけの"void"に入り込むが、最後に転生した赤ん坊の生命は”void"なのだろうか。本作は中盤から主人公の誕生から死亡、そして新たな誕生(転生)を描くことでループ構造になっているが、人は結局ただ欲望を繰り返し、転生し、また欲望を繰り返すだけの"void"な理性なきアニマルなのだろうか。ノエは結末を淡々と描くだけで、そこに言及はしない。全編主観のカメラアングルで主人公と同調して”void”な旅をした観客は、最後に理性の存在を疑われ、寄るべのない不安な気持と同時にたくましい生命力を身の内に感じる。

 以上、ギャスパー・ノエは6年ぶりの新作にて、狂気的な欲望の集合体「新宿歌舞伎町」を舞台に、死すら超越した人間のゴキブリ並の生命力を描くことで生命に関する哲学を描いていると思われる。


 不満点は、ノエ監督お得意のエロが描かれなかったところかな。いや、基本的にエロシーンは多いんだけど『カルネ』や『カノン』で印象的だったフェチっぽいエロスが無くて…というか全体的にノエっぽいインパクトあるショットが少ない。まあ下品なネオンで毒々しく輝く歌舞伎町の映像は悪くないんだけど。オシャレだったり衝撃的であったりそういう映像を楽しむのもノエ作品の醍醐味であるため、それがあんまり無くて観念的な映像が流れる140分はちょっとキツイ。まぁこれくらいの長さがなければ十分に映像にトリップ出来ないのもわかるんですけれど…フランス映画祭で流れた完全版は160分あったそうな。うわ〜…。

 というわけで、まあもちろん見る人は選びます。しかしながら見る人が見てもエロパワーもないから説得力も低くて、すげー長いし、ただまあ「困った映画だなぁ」てな感じにとられてしまうかもしれませんが、決して悪いヤツじゃないんですよ。決してつまらない映画では無いんですよ。まあ敢えてオススメはしませんけど、「見たい」と思える人は見たら楽しめると思えます。
 真野恵里菜レベル


 次回はおれたちのジョニー・トーの新作『冷たい雨に撃て、約束の銃弾を』をハードボイルドに語っていこうと思います。


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