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「少年ジャンプ」と水木しげると映画とおもちゃと特撮を愛します。

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『エッセンシャル・キリング』は"理解できない"よ。

エッセンシャル

 今のところあと書かなきゃならない感想が9本溜まっています。
 今回は久しぶりのヴィンセント・ギャロ主演『エッセンシャル・キリング』の感想です。

 観に行った映画館はシアター・イメージフォーラム。前回、前々回と同様にファーストデイに行ったので満席近く混んでいました。ここは前方が見えづらいです。
 客層は若い20~30代の一人客が多め。


概要:2010年のポーランド・ノルウェー・アイルランド・ハンガリー映画。製作・監督・脚本は『早春』『アンナと過ごした4日間』のイエジー・スコリモフスキ。
 アフガニスタンで米兵を殺害したことで、米軍によって拘束された男ムハンマド(ヴィンセント・ギャロ)。収容所で激しい拷問を受けた後、軍用機で別の場所へと移送される。やがて、護送車で移動中に事故が起こり、彼はその混乱に乗じて脱出に成功する。しかし、そこは右も左も分からない雪深い森の中。それでも、追っ手から逃れるべく、やみくもに逃げ続けるムハンマドだったが…。
("allcinema online"より抜粋)


 ケンカをおさめるためには"互いの言い分を聞く"という手段は有効であり、相互理解が仲直りに繋がる可能性もなくはない。

 本作の主人公ムハンマドはただひたすら逃亡する。人を殺し、女を襲い、恥も外聞もなく無言で死に物狂いで生きる。そこが一体どこなのかも、自分がどこに向かえばいいのかも分からぬまま黙々と逃亡する。
 最初米軍のトラックから転げ落ち偶然逃亡できたあと、寒さに耐えきれずもう一度捕まろうと降伏しようとした彼がどうしてそこまでパワフルに逃亡するようになったのか


(1)アメリカのアフガン侵攻は泥沼化しいつ終わるとも分からない。アフガニスタンの年間死傷者はタリバン政権に殺害された者より米軍に殺された者の方が多くなってしまっているとか。ベトナム以上のグズグズした状態が待ち構えているとも言われている。
 本作で描かれるムハンマドの極限の精神状態にその問題の原因が隠されているかもしれない。

 アメリカのアフガン侵攻に関してはそこら辺相互理解がちょっと難しい。僕が国際政治に関してまるで疎いうえに、知っていることもいまいち上手く説明できないので、あまり丁寧には書けないし間違っている箇所があるかもしれないけど、なんだかえらく複雑だ。基本は土地の奪い合いなんだろうけれど、両者様々な思惑のもと戦っている。

 アメリカ側は、ウサマ・ビン・ラディンを匿っているアフガニスタンに自由主義を広めるという大義名分のもと、石油利権やら麻薬栽培による利益を得るために侵攻しているというのが通説である。兵士がどこまで理解できているのかは定かではないが、まあ大義名分と本心は違うくらいは知っているのか、でも前回の『モンスターズ/地球外生命体』で書いたように、イラク国民の生活水準が向上したなんてデモを信じているくらいだから…。

 アフガニスタンの実質上の支配者タリバンの場合はどうだろうか。やはり本心は利権争い、お金絡みなのだろうが、大義名分としてはコーランに描かれている理想世界の建設というものがあり、"宗教がらみ"という点がアメリカの場合とは状況を大きく異にさせている。

 タリバンの兵士たちは宗教心によって戦っているのであり、彼らは自身が"神の兵"であるという自覚がある。それは物質的・経済的な欲望ではなく精神的な問題なのだ。
 だから手こずる。ちょっとした敗北が信じる神やアイデンティティに強く関係し、単純な経済的な理由ではないからアメリカのアフガン侵攻は泥沼化してしまう。アフガニスタンのタリバン兵は自分の存在を成り立たせている神のため決して負けられないのだ。


(2)本作の主人公ムハンマドはロケットランチャーをぶっ放し殺人を犯したあと、気を失い耳鳴りがおきる。偶然生き長らえ、自分の命が一度破裂したのを感じた彼はそこで「生き返る」という宗教的体験を得る。一度死んで生まれたばかりの彼は赤ん坊のように女性の母乳にくらいつく。
 そして何気ない耳鳴りが、"神の囁き"へと変わっていく。

 本作は"音"がとても重要な働きを持つ。最初なんでもないと思われていたハエの羽音や鳥の鳴き声が、後々カミサマのお告げだったのかと思われてくる。無言の劇がその音描写をより効果的にする。

 そして神の存在を次第に確信していくにつれ様々な偶然は"神の啓示"となる。偶然通りかかった猪が自動車事故を起こし、ムハンマドは偶然生還し、偶然敵兵を殺すことに成功する。これらは全て神の思し召しなのだ。その時、彼が犯す殺人はただ私利私欲のためのものではなく、生存のため神のために不可欠で本質的な殺人――"エッセンシャル・キリング"なのであった。


(3)『BIUTIFUL ビューティフル』の時も書いたけれども、宗教というのは人がどうしても避けることの出来ない「死」という運命への恐怖に対して生み出した精神安定剤のようなものであるという。精神安定剤の過剰な摂取はその意味合いが変わってしまうのと同様に宗教も使い方次第で人間の精神を暴走させてしまう"麻薬"となってしまう。

 ラストシーン、極限状態におかれたムハンマドの姿は突如消失する。彼の存在が全て幻だったような描写だが、宗教心によって暴走した彼が見ていた現実は我々とはもはや違うものだったのかも知れない。アメリカとタリバンがそれぞれ観ている現実が違うように。

 以上、『エッセンシャル・キリング』は、パワフルでエネルギッシュな無言の逃亡劇から、盲信的な宗教心が見せる我々とは異なった現実感を描写し、そういった戦争の狂気を無言のアクションの連続が肉感的に伝える作品だと感じた。


 エネルギッシュというには語弊があるほど次第に常軌を逸脱していくギャロが「本当に道を踏み違えてしまった『バッファロー'66』」みたいで良かったです。
 映画とはそもそもサイレント。動きのみで見せるのが基本だと思うので、無言の逃亡劇をひたすら見せることで、こうも様々な憶測を喚起させるのは素晴らしいなと思いました。

 杉本有美レベル。

 次回は、俺たちのM・ナイト・シャマランが帰ってきた!と思ったら製作でしたでお馴染み『デビル』の感想です。
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  1. 2011/08/20(土) 10:27:46|
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『EXIT THROUGH THE GIFT SHOP』ではしっかりとお金を儲けるよ。

exit through

 今回はとても流行っているそうです。『EXIT THROUGH THE GIFT SHOP』というドキュメンタリー映画の感想です。

 観に行った映画館は渋谷のシネマライズ。ここは2年に一度くらいこういうドカンとくるヒット作を上映しますね。火曜日1000円の日で公開間もなかったのもあって、けっこう混み合っていました。劇場内に知り合いが二人もいて驚きました。客層は若者が多め。二人連れが多かったかな。


概要:2010年のアメリカ映画。監督はこれが初映画監督作となるストリートアーティストのバンクシー。ナレーションはリス・エヴァンス。
 誰もその素顔を知らないというミステリアスな素性と、社会風刺に富んだグラフィティ・アートを世界各地でゲリラ的に展開する大胆不敵な活動で世界的に注目集める覆面アーティスト、BANKSY(バンクシー)が自ら監督し、ストリート・アート、そしてアート・ビジネスの世界にユニークな切り口で迫る異色のアート・ドキュメンタリー。LA在住のフランス人アマチュア映像作家ティエリー・グエッタは、危険を顧みず警察の取締りにも怯むことなくグラフィティを描き続けるストリート・アーティストたちの活動を追い続け、やがてバンクシーにもカメラを向け始める。ところが、ティエリーに映像のセンスがないと見抜いたバンクシーはそのカメラを奪い取り、逆にティエリーを撮り始める。そして、このごく平凡なティエリーおじさんをある奇想天外なプロジェクトに巻き込んでしまうのだが…。
"allcinema online"より抜粋)


(1)ストリートアートとかグラフィティアートというのはてんで詳しくはないけれど、いわゆる大衆芸術や教養芸術などと言われるメインカルチャーに対する"カウンターカルチャー"としての側面も持つ。MBW(ミスター・ブレインウォッシュ)ことティエリー・グエッタは本作で「芸術は洗脳」だと言っていたけれど、どちらかと言えばカウンターカルチャーは洗脳を解く――既存の価値観という洗脳を破壊する役目があると思う。
 それ以前にもっと下世話で重要な要素としてメインカルチャーは映画にせよなんにせよ基本的に商売となり得るし、作り出すのにお金がかかる(例えば小説は高額の出版費・宣伝費が必要だ)が、それに対応するカウンターカルチャーは基本的に必然的に儲かるとしても少額だし、それ故に制作費も極小で済むものも多い。

 本作はそのようなカウンターカルチャーというものがどのように盛り上がり衰退していくか、そしてそれを迎え撃つ新たなカウンターの登場を通し、アートの価値とは一体なんなのかということを、ポップなムードと皮肉な笑いを込めて描いた秀作だと思う。


(2)本作は二部構成に分けられる。
 前半は現代のストリートアートについて。ティエリーが従兄弟の"インベイダー"づてにストリートアートに興味を抱き、大御所バンクシーと出会うまでを描く。
 ここらへんの無邪気なアート制作の楽しさが、ティエリーの幼稚なビデオ撮影と相まってすごく楽しいのだが、ここにて明らかにされるのが、ストリートアートとは単にポーズやファッションなだけではないということ。もちろんそれも重要な要素ではあるのだろうが、それを超えて"社会との積極的で挑発的な関わり合い"の上に作られているものであるということ。
 本作に登場するアーティストたちは犯罪スレスレ(もしくはとっくのとうに犯罪)で、ときに命の危険があるところまで出張り表現をする。その内容は街のラクガキのようなごく個人的な自己表現に始まり、政治的なメッセージまで幅広いが、共通するのは何か大きな流れ(政治、風潮、文化、風習)に一石を投じようとする態度とそこに商売っ気は基本的に皆無であるということ(というか、彼らはそれぞれどうやって食べているんだろうか?)。

 彼らのアートに対するパンキッシュな姿勢を表すように本作の演出(というかティエリーの撮影)は『ゴダール・ソシアリスム』のごとく乱雑なデジカメ映像やテレビ番組のモンタージュと、どこか挑発的なBGMで奏でられ、なかなかファンキーで刺激的。


(3)が、そんなストリートアート界に少し変化が訪れるのが後半だ。我が国でもお馴染み村上隆らの作品と共にバンクシーらストリートアーティストたちの作品が高額で売買されはじめる。
 曲がった電話ボックスは何気ない街角にどかんとイタズラっぽく置かれていたことに意味があったはずなのに、オークション会場を経由し、どこかの大金持ちの家に高尚な芸術作品(それらもかつては挑発的なカウンターカルチャーであったのだろうが)と共に飾られる。

 そして汚い街角の日陰に描かれていた彼らの作品がメインカルチャーになっていく。

 それを体現・象徴するのがティエリーが芸術家に扮したミスター・ブレインウォッシュだ。アートに対してそれまでのような受け手ではなく、バンクシーのように作り手として栄光に授かりたいと考えだした彼は、バンクシーの勧めもあって自分もアート活動を始める。
 何かを表現したいという欲求よりもアーティストというものになりたい欲求が強かった彼は、古着屋経営で鍛えた元来の天才的な商売センスを駆使し、有名になるべくバンクシーらが築いた既存の価値観に前習えし、バンクシーの名前を利用しまくることで成功を収め、最終的にはなんとマドンナのCDジャケットを手がけるほどにまで成長する。
 ここにおいてストリートアートはその作り手たちが挑戦すべき商売っ気たっぷりのメインカルチャーへとなったのだ。


(4)この(2)(3)の流れで描かれていることは大きく以下の二点である。

 まず「繰り返されるアートの攻防」。例えばプレスリーだってビートルズだってルネッサンスだってそもそもはメインカルチャーに対抗するカウンターカルチャーであったはずだが、今やこれ以上ないほどメインストリームのド真ん中を闊歩している。当時相当パンキッシュな作品としての評価を与えられていた『俺たちに明日はない』やダスティン・ホフマンの『卒業』もいまや一見しただけではどこらへんが反体制なのかわかりづらくなってしまっている。
 同様にバンクシーらストリートアートの作品は経済的価値が付与し、MBWのような経済活動を念頭においたアーティストが登場することで、ポップなメインカルチャーへと変貌する。

 もう一点は「アートの価値は商売・宣伝の仕方によって変動する」ということ。
 終盤MBWの個展のシーンで彼の作品がいいのか悪いのか分からなかった人は多いはずだ。僕などはアート通っぽい来場者の「彼は素晴らしい」という意見に「やっぱりこれいいんだ」と思い、逆に「ゴミクズだね」みたいな意見に「やっぱりこれ駄目なんだ」なんて左右されたりした。
 中盤に登場するMBWが編集した映像もバンクシーがバカにするまでは「なんだか難解だけどこれがアートなんだろうな」なんて思ってしまった。
 更にそこにお金が絡むコマーシャルの奮闘が加わればその価値はかなり変動する。なんだかよくわからないものでもオークションで高額で取引されていればなんかいいものの感じがする。
 そうこうしているうちにしまいにはバンクシーの作品ですら「それは本当にいい作品なのか?」と価値観をぐらつかされる。
 バンクシーは自分も巻き込まれた(というより中心にいた)この一連の騒動を、客観化し、MBWを主役に映画化することによりアートの価値と経済や宣伝の癒着という大きな流れを、ユーモアと皮肉たっぷりに描いて、「本当にお前の思っている作品は素晴らしいのか、俺の作品は皆がいいって言うほどいいものなのか?」とアート業界に一石を投じているのだ。


 この二点をまとめると、アートと経済や宣伝の密接な関係が導きだされる。アートに一般的な価値を付与しメインストリームを歩かせるには、経済活動・コマーシャル活動が重要である。
 タイトルの『EXIT THROUGH THE GIFT SHOP(お出口はグッズ売り場を通り抜けたところ)』を考えると、大きめの美術館や博物館は必ず出口にお土産コーナーがあるが、それが示すように、いくらアート側が拒否しようとアートと経済・コマーシャル活動は切っても切り離せない関係にあり(グッズが売れないと美術館は赤字らしい)、それは作品の価値すら左右するようになっているのだ。


 以上、『EXIT THROUGH THE GIFT SHOP』は、アートというものの価値がどのように成り立っているのか、そこに経済や政治がいかに関わっていて、我々を「これはいいものだ」と"洗脳"(やっぱりMBWが言うようにアートは洗脳だ)しているか、ということを描き、アートに対してもう一度考えさせられる作品であったと思う。
 噂に違わぬ面白さです。既存の芸術の価値観をぐらつかせ、様々な洞察の手がかりを投げかけるところなど、さすがといった具合。アートに対して懐疑的になる一方で、また非常に興味を抱かせる作品です。過剰宣伝に泳がされ気味な僕のようなアナタにオススメ。

 岸本セシルレベル

 次回はすげー今更です。アレッサンドロ・ゴンザレス・イニャリトゥの新作『BIUTIFUL ビューティフル』の感想。綴りのミスは(原文ママ)ですよ。

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  1. 2011/08/10(水) 13:59:14|
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『エクソシズム』は名無しの映画だよ。

エクソシズム
 ブログをこのまま放置してしまいそうになっていましたが、怒られちゃったので更新いたします。
 今回は、前回にtwitterでリクエストされた『エクソシズム』の感想です。

 観に行った映画館はシアターN渋谷。水曜日の安い日でしたが、入りはそこまで。例によってユニークなオジさんたちが集う映画館です。


概要:2010年のスペイン映画。監督はマヌエル・カルバージョという人。脚本はダビ・ムニョスという人。製作に『REC/レック』のソフィー・ヴァヴァスールが参加している。
 両親が厳しい家庭に暮らす15歳の少女エマ(ソフィー・ヴァヴァスール)はある日、いきなり卒倒して痙攣を起こす。医者に診てもらうが原因は分からずお手上げ状態。最初は悪魔が取り憑いたという娘の主張に耳を貸さない両親だったが、ついには神父でもあるエマの叔父クリス(スティーヴン・ビリントン)に助けを求めて、悪魔払いの儀式を行うことに。かつて、エクソシズムの失敗で少女を死なせてしまい、世間から非難を浴びていたクリスは、今回の儀式をビデオに録画するのだが…。
("allcinema online"より抜粋)


 例えばアイドルの名前で映画の善し悪しを評価したり、「今年のワースト作品は…」なんてランクづけして楽しむの、嫌いな方もいらっしゃるっぽいですが、僕は大好きです。自分の好みとかを把握することもできるし。

 で、例えば去年ワースト作品を争った『ゴースト もういちど抱きしめたい』とか『矢島美容室 THE MOVIE ~夢をつかまネバダ~』とか『シュアリー・サムデイ』『誰かが私にキスをした』など、また最近だと『これでいいのだ!! 映画★赤塚不二夫』などなど、まあ吐き気を催すほどのひでえ作品でしたが、でもあの強烈な頭の悪さや金に対する執念、ツッコミどころだけで構成されている物語、演出の計り知れないダサさ…これらは相当なインパクトで、そんじょそこらの凡作より強烈な光を放っているし、おそらく愛すら感じている。
 そこにきて無難な内容を無難な演出にて予算内でしっかりまとめましたといったような作品は、上記の連中より普通に楽しめるし、下手したら上記の作品群よりいいものを作ろうとする志もあるのかもしれない。
 しかしながら、心に残るのはどちらかと言えば、やはり『ゴースト もういちど抱きしめたい』になってしまう。

 で、ワースト作品を決める時にとても困る。果たしてどちらが駄目なのか。

 そんなわけで、『エクソシズム』はとりあえず大人しくまとめてみた"静かなるダメ映画"であった。


(1)"静かなるダメ映画"とはいかなることか。これといって強調する良い点も悪い点もないのだ。ただしょぼい範囲内で収まりよくストーリーが進む。

 物語にツッコミどころはなく、淡々と起承転結に沿って進む。
 どこかで見たような映像、どこかで見たような演出だが別に取り分け変テコというわけではない。敢えて文句を言うならば音楽がダサいところ。

 で、ぼんやりと見ていると眠気に襲われるのでテーマを探そうとしても着眼点がつかめない。映像は全年齢対象になるようにショッキングな描写はないし、血すらあまり流れない。可愛い女優も出ていないければエロいシーンも皆無。『恐怖』のようになんだかわからないけれどちょっと考えてしまう恐怖演出もなく、まあ敢えて言えば"悪魔よりも恐ろしいのは人間かもしれません"といった100万回くらい聞いたすごく平凡なメッセージ。

 本作に登場する悪魔もとてもショボく、某教祖くらい浮かんだり、サッカーボールをコロコロ転がしたり廉価版『エクソシスト』といった具合のそこまでショッキングじゃない罵詈雑言を発する程度で、『パラノーマル・アクティビティ 第2章/TOKYO NIGHT』で描かれた悪魔の得体の知れない不気味で絶対的なパワーは感じられない。(そもそも主人公が悪魔を召還する理由が、お母さんが束縛してきてムカついたからというショボすぎる理由だ!)


 "意外な展開"ってのもなくもないのだけど、それもすごく平凡な範囲内での「意外」
 "弟の死"という事件が本作で最も意外でショッキングな事件なのだけれど、その演出のショボさ、一緒に見ていた友人曰わく「教習所ビデオの交通事故シーン」。仮にもホラー映画を語るなら子供の首の一つや二つ飛ばせよと、頑張ってゴア描写を演出していた『SUPER 8/スーパーエイト』のちびっ子たちを見習ってほしいです。
 あと、もう一つ"意外な展開"が、「あいつが全ての黒幕だった!」という終盤の展開。名誉のために他者を平気で傷つけるという"彼"の描写はなかなか楽しかったし悪くはないとは思うのですが、まあ彼が黒幕なところで何か目新しい展開があるのかと言えばそんなものなどは一切なく、その後の展開としては悪魔に取り憑かれた少女とそいつがポカスカ殴り合っているだけのクライマックス。

 このように全体的に描くことの規模がショボく、全ての要素が無個性であることが本作の特徴である。


(2)映画って「顔」が必要だと思うんです。それがどんなものかを一言で象徴する表面に表れているアイコンとしての「顔」。
 それは面白いタイトルであったり、その映画を象徴するキャラクターだったり(例えば『第9地区』のエビ)、その作品から深い洞察を促すテーマ性だったり(例えば『神々と男たち』における「生活と宗教」というテーマ)、またその作品が他の何を捨てても描きたい要素だったり(例えば『悪魔を見た』の無慈悲な残酷性)、そういう「顔」が一つでもあればそれで作品が与えるインパクトはしっかりしていて、それがもしきちんと描かれていれば他の要素が駄目でも傑作になりえたりする。
 本作はまあ言ってしまえば、100円ショップで売ってるような廉価版『エクソシスト』安いプラスチック製のショボい『エクソシスト』なわけで、あの名作には勝てっこないわけだから、その分何かしらいち要素だけでも凝ったり突飛だったりする要素があれば良かったのになと。例えば悪魔の悪趣味描写とか、例えば『ネスト』のごとく"思春期少女のアンバランスさと家族との触れ合い"を掘り下げるととか(意外に本作はもっと掘り下げれば面白くなる要素がたくさんあるのに!)。
 せめてタイトルはなんとか頑張って欲しかったです。

 とは言っても、その例の"意外な黒幕"ってのが分かってからの展開はつまらなくはないんです。ワクワクもできます。言うほど酷い映画でもないのに、ものすごい消化不良をおこしているのが、なんだかなー。


 以上、『エクソシズム』はホラー描写はショボく、ストーリーやテーマはツッコミ甲斐もないくらい普通、面白いのか面白くないのかもよくわからない、総じて月並みな要素を並べた作品でした。

 馬場園梓レベル。

 今回は短めですが、すいません、短いの多くなると思います。
 次回はロングラン上映中らしいですジョセフ・ゴードン・レヴィットとナタリー・ポートマン主演『メタルヘッド』の感想です、頑張って書きます。

テーマ:映画館で観た映画 - ジャンル:映画

  1. 2011/07/21(木) 00:40:58|
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『赤ずきん』はジュブナイル向け『アンチクライスト』だよ。

赤ずきん

 すいません。忙しくて、スーパーやる気ない病にかかっていました。
 今回は大人向けともっぱら評判の『赤ずきん』の感想です。

 観に行った映画館は新宿ピカデリー。夜の回に行ったらけっこう客の入りは良かったです。客層は若い男女がほとんど。となりは高校生3人組で騒がしかったです。


概要:2011年のアメリカ映画。監督は『トワイライト~初恋~』のキャサリン・ハードウィック、脚本は『エスター』のデヴィッド・レスリー・ジョンソン。
 若く美しい女性ヴァレリー(アマンダ・サイフリッド)が暮らす村の周辺には恐ろしい狼がおり、満月の夜には決して出歩いてはならなかった。村人は狼と協定を結び、動物の生け贄を捧げることで村の平和を維持してきた。そんなある日、ヴァレリーに裕福な家の息子ヘンリー(マックス・アイアンズ)との縁談話が持ち上がる。幼なじみで野性的な魅力にあふれたピーター(シャイロー・フェルナンデス)と将来を誓い合う彼女は、ヘンリーとの結婚を決めた両親に反発し、ピーターとの駆け落ちを決意する。ところがその矢先に、ヴァレリーの姉が何者かに殺されてしまう。狼の仕業と復讐に立ち上がる村人たち。ところが村にやって来た高名な人狼ハンターのソロモン神父(ゲイリー・オールドマン)は、狼が人の姿で村人の中に紛れていると言い放つ。互いに疑心暗鬼となり、村はパニックに陥ってしまう。
("allcinema online"より抜粋)


 予告編でも見ていけば良かったのですが、何の前情報もなく本作の「大人向け赤ずきんちゃん」みたいな売り文句から『狼の血族』みたいなグロテスクでエロチックで背徳的なロリータ映画を期待していました。蓋をあけてみたらばエロもなければグロもない、映像はデジタル丸出しで、セットもなんだか小綺麗で臭さがなく、音楽もアメリカのティーンエイジャーが好みそうな今時のロック。
 てなわけで『トワイライト』の監督ということすら知らなかった僕の勘違いで、『赤ずきんちゃん』を、ミステリー要素を加え、ジュブナイル向けラブロマンスに解釈した作品でした。そしてそこには人の意識の深層に潜む「狼」という獣と人との古来からの関わりがほのかに描かれていたと思う。今回はそんな論旨。


(1)まあ予想とは違ったにせよ、面白ければむしろ拾い物でしたが、どうもチープな作品で――例によって感情表現はすべてセリフでまかなっていたり(「なんだか××な気持ち」みたいなセリフがやたら多い)、物語の犯人となるあるキャラクターが2時間ドラマの終盤のごとくグダグダと犯行理由を語っていたり、セット丸出しの舞台も加えて、この手のオカルトファンタジーに重要なミステリアスさを殺してしまっているのだ。

 で、そのミステリアスさを台無しにするチープさって既視感あるなと思ったのですが、かのモンティ・パイソンの名作映画『モンティ・パイソンのホーリー・グレイル』に似ているんだと。

 そう思うと作品全体がモンティ・パイソンにしか思えなくなってきて、特に序盤の展開の『ホーリー・グレイル』への変換されっぷりがひどかったです。
 赤ずきんの住む雪の降りしきる山村(なのに何故かみんな薄着だ!)では、ブスなお姉ちゃんを狼に殺されたとかで、てんやわんやの大騒ぎになっている。「狼なんだから殺しに行けばいいじゃん」と観客は思うわけなんですが、どうもその狼は普通の狼とは違うらしい。先述のごとくミステリアスさがないのでその普通の狼ではないという情報がいまいち伝わりづらいのですが、まあ普通の狼じゃないっぽい怯え方。
 したらば何がパイソンズならジョン・クリーズが演じそうな偏差値低そうなオジサンたち酔った勢いで「狼殺しちゃおうぜ!」って騒ぎ出し、興奮した村人たちは武器を持って狼狩りに向かう。そこでまたもいかにもなセットぽい洞窟に潜り込んで、真っ暗闇のなか狼との対決が始まる。ここら辺も一応ホラー描写っぽく演出しようとするんだけど、なにぶんレイティングの問題で血は見せられないし、それならそれでJホラー的な恐怖演出で恐がらせれば嬉しいのだけど、これが暗いところからワッと狼らしきものが驚かしてくるだけの安っぽいお化け屋敷みたいな演出で子供騙し。
 しかしながら村人たちは何がなんだか死人も出したけど狼を仕留めて勇んで帰宅。どう見てもちっこい普通の狼の生首を持って「仕留めたぞー!祭じゃー!」と大喜びしてお祭をしようとするところに、グレアム・チャップマンが演じそうなインテリな都会者ソロモン神父(口だけでまるで役立たずなところも、突然狂気的なサディズムを発するところもチャップマンぽい)が登場。彼の「お前ら、それ単なる普通の狼じゃねえか、祭なんかやってる暇無いよ!」ってツッコミにも「うるせえ、オラん村のこたあオラたちが一番分かってるんだ」って村人たちは祭を決行、バカ騒ぎしていると狼がやってきて大惨事になってしまうのだが、なんだか間抜けすぎて吹き出してしまう。
 
 この一連の『モンティ・パイソン・アンド・ホーリー・グレイル』の魔女狩りシーンを彷彿とさせるズッコケシークエンスから本作の出来はさして知るべきってな具合でもあるんですが、まあ良かった点もあります。次項。


(2)続いて良かった点をあげると、例えば後半、「この中に人狼がいる」って神父の発言から村じゅうが疑惑の影に覆われて、欺瞞がどんどん暴かれて次第に悪意にそまりながら村が崩壊していく物語とか、けっこう好きで、欲を言えばもっとミヒャエル・ハネケ的なインテリサディスティックな視点でキリキリと登場人物や観客を追い詰めていってくれたら良かったなと。
 あと単純にミステリーっぽい犯人(人狼)探しはワクワクしながら楽しめました。

 このように、全体的なチープな作りは否めないけれど、これはこれで楽しめる映画にはなっていると思います。


(3)以上、映画の作り以上に楽しめた点が、キリスト教文化圏と「狼」という獣についての関わりが、おそらく意図的ではないにせよ、描かれていた点。

 『もののけ姫』なんかでも描かれていたけれど、稲作文化の我が国にとってシカやウサギを食べてくれる益獣である狼は、その語源「オオカミ(大神)」が表すように、カミサマである(『もののけ姫』は山犬だけれど)。
 Wikipediaで調べたところ、"『日本書紀』には狼のことを「かしこき神(貴神)にしてあらわざをこのむ」と記述されている。山の神として山岳信仰とも結びついており、近世において狼信仰の中心となった武蔵御嶽神社や秩父三峯神社の狛犬はオオカミである。"なんて具体例も。

 一方でグリム童話『赤ずきんちゃん』を始めとするヨーロッパの民話では、家畜を食べてしまう狼は悪とされているが、一概に悪でばかりはないそうだ
 例によって現代人のカンニングツールWikipediaを見ると、"アリストテレスの『動物誌』によると、ギリシア神話にてアポロンとアルテミスの双子を産んだレトは牝狼であるとしている。また、古代ローマの建国神話では、双子の建国者であるロムルスとレムスは牝狼に育てられたとされる。牝狼の乳房を吸う双子を描いたローマ時代の像がカピトリーノ博物館に所蔵されている。"なんて書いてあったりする。

 そもそもはその畏れから悪魔にも神にもされていた狼が一神教であるキリスト教の支配によってその悪魔性ばかりが強調されてしまったらしい。


 で、本作で描かれる"狼"を見てみたい。この人狼は、一般的な物語上の狼への認識通り、荒々しく、禍々しく、ずるがしこく、また色欲が強い。まさに『アンチクライスト』的な混沌たる存在である。
 が、一方でその漆黒の毛並みと、知性、破壊性、そして大きさが持つ美しさはそれこそ『ヘヴンズストーリー』で感じられたような"カミサマ"を感じやしないだろうか。(CGがやすっぽいのが難点ですが…)
 それは無意識下かもしれないが、欧米文化の底にこびりつくように、狼の中にいまだのこる神性が本作に登場する人狼からは滲み出ているのだ。

 キリスト教的権威の象徴たるソロモン神父一派と対立し、村の外に住み、森と共生し、最終的には人狼と恋人関係になる赤ずきんはまるで"魔女"だ。
 だが、魔女とはかつての民間宗教者、いわば巫女さんであり、信じる宗教の違いが彼女たちを魔の者にしたのだ。そして彼女たちが信仰していた神々は、キリスト教によって"悪魔"とされた者たち(例えば"狼")である。
 そしてこの物語は魔女となった赤ずきんがアンチクライストな場所で魔物と契りをかわすことでハッピーエンドとなる。そこに背徳性はなく、ただロマンチックである。

 グリム兄弟はキリスト教文化に支配されることで失われつつあった、自らのルーツである祖国の民間伝承を保存するため『赤ずきん』をはじめとする『グリム童話』を収集・執筆した。
 キリスト教の矛盾点や欺瞞性が政治経済文化に様々な問題を生じさせているアメリカ(アメリカはキリスト教原理主義国家ともいわれている)において、こういったジュブナイル向けの映画が無意識的にも自らのルーツとなるような異教文化の物語を描いたのはなんだかとても興味深いと思う。

 てなわけで、どうしてもチープな作品ではあったけれど、モンスター好きには考察を挟まざるを得ない作品でした。

 大塚愛レベル

 次回は『13/ザメッティ』のハリウッドでのセルフリメイク作品『ロシアン・ルーレット』の感想ニチョフ。


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  1. 2011/07/01(金) 12:53:20|
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『X-MEN:ファースト・ジェネレーション』でアメリカ近代史を学ぼうよ。

X-MEN

 今回は待ってましたのシリーズ第5段『X-MEN:ファースト・ジェネレーション』の感想です。

 観に行った映画館はTOHOシネマズ六本木ヒルズ。平日だったのもあり空いていました。大きめの2番スクリーン。ここはけっこう好き。客層はカップル多め。あとは男性の一人客も多め。
 

概要:2011年のアメリカ映画。監督・脚本は『レイヤー・ケーキ』『スターダスト』『キック・アス』のマシュー・ヴォーン。製作にはシリーズ1作目と2作目を監督したブライアン・シンガーが、製作総指揮にはおなじみスタン・リーが名を連ねている。音楽はヘンリー・ジャックマン。
 ソ連との冷戦が続く1960年代のアメリカ。後にプロフェッサーXと呼ばれ、X-MENを設立する青年チャールズ・エグゼビア(ジェームズ・マカヴォイ)は、強力なテレパシー能力を持つミュータント。彼は、自分と同じように超人的な能力を持つ者が次々と出現していることに気づく。そんな中、幼い頃に母親と引き裂かれた悲しい過去を持つエリック・レーンシャー(マイケル・ファスベンダー)と出会う。彼もまた磁力を操り、金属を意のままに動かすことができるミュータントだった。ミュータントたちを結集し、その能力を人類のために使い、平和を築きたいと考えるチャールズは、エリックに協力を依頼する。次第に友情を育んでいくチャールズとエリック。そんな2人の前に、ミュータント集団“ヘルファイヤークラブ”を利用して世界征服を企む男セバスチャン・ショウ(ケヴィン・ベーコン)が立ちはだかる。しかもセバスチャンは、エリックにとっては母親の仇でもあった。やがて、チャールズとともに若きミュータントたちを率いてヘルファイヤークラブに戦いを挑むエリックだったが…。
("allcinema online"より抜粋)


 "we are the world"がものすごい好きである。
 マイケル・ジャクソン、ライオネル・リッチー、ブルース・スプリングスティーン、スティーヴィー・ワンダー、シンディ・ローパー、ボブ・ディラン、ポール・サイモン、ダイアナ・ロス、ハリー・ベラフォンテなどなどよく集めたなってほどの人種、年代、ジャンルの人々が集って素晴らしいハーモニーを築き上げる。これ以上無いほどにパワーを持った曲だと思う。
 人はどうしても他者の個性を否定してしまう。どうしてもいじめや差別が起きてしまう。しかしその個性をそれぞれ認め結集したとき、"We are the World"のようなすさまじいパワーが生じるのだろう。
 アメリカという国の魅力は"人種のるつぼ"ゆえの様々な個性があるというそういうところにあり、またアメリカの嫌な所も、それゆえに人種や階層での差別が起きやすいところにある。


(1)アメリカの極度なヒーロー好きを分析する時によく言われることだけど、アメリカには神話がないため、神話代わりに"ヒーロー譚"があるという。
 例えば出雲国の北陸平定がスサノオノミコトのヤマタノオロチ退治になぞらえられたように、西部開拓時代のインディアン討伐は映画で数々の英雄譚として作られたし、第二次世界大戦のアメリカの活躍はキャプテン・アメリカらスーパーヒーローの活躍になぞらえられた。
 そんなイデオロギーを反映しやすいヒーロー譚の特性を逆手にとって、その類いの神話を戦意高揚や全体主義のための勇ましさや正義ではなく、現実の政治経済の汚らしさや浅ましさに起点をおいて語り直したのが『ウォッチメン』だった。

 1960年代、アメリカは黒人たちの差別反対運動によってデモだらけ、1964年には公民権法が制定され法の上での差別は禁止されたものの、差別は依然として根深く残り、アメリカはちょっとした内戦状態、それでも奮闘むなしく彼らの地位は低かった。
 そしてアメリカが差別という敵に悩む1963年に、差別と戦うために登場したヒーローがX-MENであり、本作『X-MEN:ファースト・ジェネレーション』はそのような彼らの登場の歴史的背景をメタ的に組み込んで、新たな誕生物語として語り直した作品だと思う。


(2)『トゥルー・グリット』の時も似たようなことを書いたけど、人種のるつぼであるアメリカは様々な差別をしてきた。インディアンを差別し、黒人を差別し、共産主義者を差別し、日本人もユダヤ人もアラブ人も差別してきた。
 そんな歴史の中で彼らの心情を正当化するために生み出されたのがヒーローだ。彼らは差別を否定するのではない。むしろアメリカでの最高地位を牛耳るWASP(白人の支配階級)の味方をするものであった。
 1960年代を舞台とする本作でも、正義の味方(には厳密にはまだなっていない)の主人公たちが、CIAと結託し、ソ連と敵対しようとするシーンがあり、今の感覚で観るとなんかひっかかるのだが(ヒーローが特定の国に味方していいのか!?)、当時正義のヒーローにとってはソ連が敵でアメリカ国家が味方なのが当たり前であった。
 インディアンや日本人をバッタバッタなぎ倒してきたジョン・ウェインやチャールトン・ヘストンの時代に始まり、バットマンもキャプテン・アメリカもスーパーマンもワンダーウーマンも国家に味方をして、国家に楯突く者を叩いてきた。

 そんな資本主義国家が正義の国家と思われていた時代を象徴するように本作は皮肉っぽく初期『007』のパロディが多い。サイケデリックでクールなファッションに身を包む悪役ヘルファイヤークラブの連中は『007』の初期悪役組織のスペクターのようだし、首脳会議のシーンは『オースティン・パワーズ』でお馴染みでっかい金属の箱からピコピコ機械音がなる薄暗い円卓(上にはダイヤル式の赤い電話機)、カラフルなドットが機械的に動くエンドクレジットは『007は殺しの番号(ドクター・ノオ)』のモーリス・ヴィンダーが作ったオープニングのオマージュのように見える。

 以上のように、この時代、国家の方針こそ正義で、そこから漏れた弱者の権利は踏みにじられていた。そしてそれは法が認めれば"差別"すら正義であった。


(3)そんな時代、公民権運動が盛んになり公民権法が成立し法的に黒人差別が撤廃される1年前に登場したのが被差別ヒーロー"X-MEN"と、被差別ヴィランのマグニートーや彼が率いる"Brotherhood of Evil Mutants"だ。(ちなみに本作の本筋は1962年から始まる)
 彼らはミュータントとして差別を受けており、プロフェッサーX率いるX-MENは互いの相互理解を高めることで差別撤廃を狙い、一方でマグニートーらは力によって差別主義者たちをねじ伏せようとする。
 その思想を象徴するように、プロフェッサーXの持つ超能力は全ての知と理解に通じるテレパシーという内面世界では最強の能力だし、マグニートーは磁力という物理世界では最強の力を操る能力を持つ。
 本作でも様々な"差別"が描かれる。例えばマグニートーとなる前のエリックは強制収容所に連行される胸に黄色い星をつけたユダヤ人だし、ミュータントたちは様々なところで気持ち悪がられ、からかわれ、隔離されたりしている。
 チャールズやエリックたちとヘルファイヤークラブとの戦いの発端となった黒人少年ミュータント"ダーウィン"(エディ・ガテギ)の死は1960年代当時アメリカで盛り上がっていた黒人たちによる差別撤廃運動の発端となったエミット・ティル殺人事件を彷彿とさせるし、知の力で差別に抗うプロフェッサーXはキング牧師を、腕力で差別に抗うマグニートーはマルコムXやブラック・パンサーをモデルとしているという説もある。
 また本作のプロデューサーでシリーズ一作目と二作目の監督ブライアン・シンガーはゲイであり、各所にゲイ差別的なモチーフを散りばめているともいう。


(4)では本作は"差別"と如何に向き合うのか。
 従来のヒーローはを兼ね備え万能であった。しかしX-MENやマグニートーたちは違う。まず彼らはチームであるため、一人一人ではそこまで強くはなれない。大衆の差別の力にかき消されてしまう微力な存在だ。なのでそれぞれがそれぞれを補う形ではじめて存在し得る。
 だが力を結集しすぎるとたまに宇宙をひっくり返すようなパワーがうまれてしまう(原作ではそれでよく宇宙がひっくり返っている)
 本作で描かれているように、チャールズとエリックは敵同士であるが、一方で気の置けない親友同士であり彼らは共に肩を並べて戦っていた。

 本作の物語の焦点は、なぜそんな二人が離ればなれにならざるを得なかったのかに絞られていく。
 彼らが差別される所以となっている"個性"、特に最強の知(チャールズ)と最強の物理的パワー(エリック)が兼ね備わったとき、被差別者たちはおそらく差別に溢れる世界を滅ぼせる。差別はなくなるだろうが、これまでのアメリカがそうしてきたようにそれは新たな差別を生み出すだけ。世界の崩壊を望む親友マグニートーの協力の誘いを断り、涙ながらに彼と離ればなれになっていったプロフェッサーXの心情はそこにあったのではないだろうか。彼らはそうすることで"差別"からバランスいい位置を保ち、それに抗っている。そのようにヒーローとしての力を終結させた後に分離して、X-MENやマグニートーたちは始動したのだ。

 しかしながらアメリカにはまだまだ差別が根強く残る。2008年のアメリカ大統領選挙において、アフリカ系の子孫オバマに対して差別発言を行う政治家やマスコミが多く登場した。X-MENが活躍する神話はまだ完結を迎えない。


 以上、『X-MEN:ファースト・ジェネレーション』はコミック”X-MEN”が創刊された1963年前後の時代背景を踏まえて、それをX-MENの誕生物語と絡めることで、一つの神話(ヒーロー譚)を新訳したのだと思う。
 いつか人間たちとミュータントとさまざまな差別主義者と被差別者が手を取りあって"We are the World"を歌える日はくるのであろうか。
 

(5)他には、まず不満点として、『スター・ウォーズ』のダースベイダー、『ウォチメン』のロールシャッハや、『ダークナイト』のジョーカーのように、時代をその姿で表すアイコン的な存在のヒーローがいなかったこと(というかヒーローってそもそも時代を象徴したデザインを持つものではないんだろうか?)、簡単にいうと本作を写真一枚で象徴できるようなキャラクターがいなかったということ。

 他に良かった点は、そんなにシリアスでも、随所にユーモアとハッと驚きついついのめり込むアクションを忘れないという点、ミスティークを演じたジェニファー・ローレンスちゃんの健康優良児っぷり、原作通りサイクロプスやマーヴルガールやアイスマンを初期メンバーにすると他映画シリーズとの齟齬が産まれてしまうため、他シリーズに繋がる関係性を持つキャラクター選出(例えばサイクロプスの兄弟とか、ナイト・クロウラーの父親、サイリーンの父親など)をして、パート1~4に整合性をきちんと持たせているファンに優しい点などなど。

 『ウルヴァリン』と本作と2作品過去話が続き、次回作も『ウルヴァリン』の続編や本作の続編を予定しているようですが、『ファイナル・ディシジョン』の後話も観たいです。毎度不憫でしょうがないサイクロプスの復活と栄光を見せてほしいです。爆裂オススメです。

 高梨臨レベル。

 次回はもちろん観に行きました『ゴーカイジャー ゴセイジャー スーパー戦隊199ヒーロー大決戦』の感想です。おたのしみに。

テーマ:映画館で観た映画 - ジャンル:映画

  1. 2011/06/20(月) 02:52:01|
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