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「少年ジャンプ」と水木しげると映画とおもちゃと特撮を愛します。

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『SUPER 8/スーパーエイト』で気楽に逃避だよ。

スーパー8

 時間がある時に更新していくよ。なぜなら10本くらいたまっているから。
 これも2週間以上前に観た作品です。スピルバーグ製作、J.J.エイブラムス監督の『SUPER 8/スーパーエイト』の感想です。
 単に『SUPER 8』と書くとエミール・クストリッツァのドキュメンタリー映画になりますので『SUPER 8/スーパーエイト』と表記します。

 例によってネタバレしまくってます。いまさらって感じでもありますが、ネタバレ防止に必死なこの映画のために最初に断っておきます。

 観に行った映画館はTOHOシネマズ六本木ヒルズ。この手の映画はここの7番スクリーンで観ると幸せな気持ちになります。客の入りは平日だったのでいまいち。客層は若者が多かった印象です。外国人も多め。


概要:2011年のアメリカ映画。監督・脚本は『M.I.3』『スタートレック』『LOST』のJ.J.エイブラムス、製作はスティーヴン・スピルバーグ、音楽はマイケル・ジアッキノ。
 1979年の夏。オハイオの小さな町で父ジャクソン(カイル・チャンドラー)と2人暮らしの少年ジョー(ジョエル・コートニー)。ある夜、親に内緒で家を抜け出し、チャールズ(ライリー・グリフィス)やアリス(エル・ファニング)ら5人の友達と共に駅舎で8ミリ映画の撮影中、列車の脱線事故に遭遇する。またその混乱の中で、8ミリカメラは横倒しになったまま、大破した列車の一部から飛び出してくる“何か”を偶然映し出していた。ほどなくして現場には軍が到着。そして彼らは、ある極秘情報が何者かに知られてしまったと、大規模な捜索を展開する。現場から逃げ帰り、誰にも言わないと誓い合うジョーたち。しかし、町では不可解な事件が次々と起き始め、次第に極秘情報である“何か”の実態が明らかとなっていく…。
("allcinema online"より抜粋)


(1)本作はスティーブン・スピルバーグはプロデュース作品であり、残念ながら監督ではないのだが、スピルバーグ的な意匠にあふれかえっている。

 例えば舞台となる1979年という時代は、その前後で『未知との遭遇』『E.T.』というスピルバーグ監督作があり、彼がプロデューサーとして『グーニーズ』『グレムリン』『バック・トゥ・ザ・フューチャー』を送り出した時代も彷彿させるし、個性豊かな子供たちが大活躍する展開も同様の作品を彷彿させる。
 またパーツごとにしか姿を表さないでなかなか全体像が見えにくい怪物は『ジョーズ』『ジュラシック・パーク』『激突!』だし、街にあらわれる戦車や怪獣の恐怖は『宇宙戦争』『プライベート・ライアン』『ロスト・ワールド』だし、もしかしたら平々凡々としている自分がヒーローになれるかもしれないという点は『フック』『シンドラーのリスト』だ。
 主人公たちの幼稚でグロテスクな趣味も実にスピルバーグ的と言える。


(2)ところでスピルバーグの映画の魅力とはどこにあるのだろうか。
 スピルバーグ作品の魅力を大ざっぱにまとめると、日常と日常の狭間にふとあらわれるフィクショナルな要素(それは多くの場合カビの生えたような古臭い夢物語やバカバカしい与太話)を、精巧なディテールとオタク受けするフェチズムによるリアリティで描ききるという点かと思われる。そのようなフィクショナルな要素によって破壊された中で、我が物顔で闊歩している人間の「サイズ」を問いかけてくる。(嘘臭い非日常性は丁寧に精巧に描かれている分、「もしかしたらお腹ぶよぶよの俺がピーターパンかも」なんて嘘八百なおバカな要素にもリアリティがわく)

 例えば『激突!』『ジョーズ』は退屈だったり平和だったりかに見える日常のすぐとなりにある恐怖とそれによって今までとは一変する人間心理を描くし、『ターミナル』『E.T.』は日常的な空間をフルにいかした大冒険とそこから生じる人間の「サイズ」――強さや弱さ、小ささ、美しさや浅ましさが描かれた。
 『アミスタッド』『ミュンヘン』『シンドラーのリスト』『プライベート・ライアン』などは我々の平和で平凡な日常にたまに顔を出してくる凄惨な歴史やまるで映画のように美しく勇ましい英雄譚が描かれていた。

 このようにスピルバーグ作品は丁寧にしっかり描かれた日常の中に三文小説のごときチープな非日常性を登場させ、壊れた日常の中で人間の「サイズ」を問う。「いい気になってるんじゃないぞ」「世界は思ってるほどそんな平和じゃないぞ」もしくは「お前が思っているほど世の中はつまらなくないぞ」と言われているようだ。

 そしてもちろん少年少女が宇宙人から街を救う『SUPER 8/スーパーエイト』にもそういった要素はきちんあと含まれている。
 主人公ジョーたちが8ミリ映画の撮影中、戦車に囲まれた町を見渡すシーンがある。彼らの町は変わってしまった。彼らの町はすでに彼らのものではなく、映画よりも映画のようだった。自体のあまりの巨大さに彼らは自分の存在の小ささを認識してしまう。


(3)続いて『SUPER 8/スーパーエイト』が、(1)(2)で解説したような、スピルバーグ作品の意匠をどのようなものとして捉えているかを考えたい。

 本作の主人公たちは思春期に入ろうとしている年齢であり、『奇跡』の子供たちのように脳天気な夢も見れなくなっている。
 人生は思い通りにはいかないし、父親は今まで思っていたほど完璧な大人ではない。映画で言ってることなんて全部嘘っぱちだ。
 醜くも美しくも大人っぽく変容する自身の肉体と精神、一方でいまだ子供っぽい自身と周囲、そのハチャメチャなアンバランスさはまるでモンスターのようだ。
 母親が事故死して父親との関係もぎくしゃくしているジョーや、飲んだくれの父親に悩まされているアリスはだから映画作りに没頭する。映画とはいつの時代でも現実逃避の手段だった。

 そしてそのようななかで――いつの時代でも、先述のようにおバカで幼稚で古臭い題材をこれでもかと真面目にリアリティたっぷりに撮り続けたスピルバーグ作品は、その登場人物を通し観客にその"サイズ"を問いかけ、120分だけ我々を平凡だったり辛かったりする現実に刺激を与えてくれた。
 そうやって現実を見つめる視線をちょこっと変えてくれたからこそ、我々は平凡だったりつらかったりする現実をどこかで気楽に生きてこれたのかもしれない。

 ところで"SUPER 8"とは1965年にコダックが発売したカセット式のフィルム、及びその規格のカメラのことおよび、本作のエンドクレジットで明かされるが映画祭の名前である。それはジョーやチャールズやJ.J.エイブラムスのように映画に憧れ、映画を愛し、映画を撮った少年少女のためのツールであり、"SUPER 8"によって彼らは自分の人生を実り豊かにして、気楽にして、救ってきたのだ。


(4)本作はモンスター映画であるが、そのことについても付け加えておきたい。
 ジョーたちが大好きな"モンスター"は人間の闇の心がキャラクターを持った姿である。例えば『赤ずきん』の時に説明したように狼男はヨーロッパの古来からの宗教や生活感情から現れる畏怖と侮蔑の気持ちから現れたモンスターだし、ジョーが好きなゾンビは結局群生動物である人間の大衆心理の暴力性のメタファーだ。
 本作に登場する"エイリアン"はどうだろうか。
 人間の虐待により暴走してしまったエイリアンは――大人たちからの愛に雁字搦めにされ、それに窮屈さを感じているジョーや、愛していながらお父さんなんか死んでしまえと言ってしまうアリスの複雑な"思春期の気持ち"を表している。

 ウッドワード先生(グリン・ターマン)がこのエイリアンと分かり合えたように、ジョーもまるで自分の内面が具現化されたようなエイリアンにシンパシーを感じる。
 だからジョーはエイリアンの苦しみが分かっている。彼がエイリアンと語るとき「世の中はそりゃつらいさ、宇宙人も恐竜もピーターパンもゾンビすらいない。だからたまには映画でも見てリラックスしなよ」と言っているようだ。
 我々がそうやって映画によって生活に刺激をもらい救われてきたように、ジョーもそうやってエイリアンの気持ちをなだめて町を救った。


 以上、『SUPER 8/スーパーエイト』は、作中にスピルバーグ的な意匠をちりばめ、映画(特にスピルバーグ作品)の持つ現実への刺激(現実逃避性とも言う)の素晴らしさを描いており、J・J・エイブラムスによるスピルバーグ作品への、もしくは映画全体への感謝状にも見えた。



(5)他に良かった点は、『リトル・ランボーズ』同様、ちびっこが映画を撮る、しかもロメロ風ゾンビ映画というだけで平均点超えは確実でした。
 あと音と音楽がレトロかつ迫力あってとても良かったです。できたらジョン・ウィリアムズにやって欲しかったところだけれど。


 不満点はけっこうありまして、『借りぐらしのアリエッティ』と似たような不満なのですが、スピルバーグ完コピでやるなら、スピルバーグ超えないと…っていう。まぁ難しいのですが。例えばピストルのフェチっぽくない感じとか、犬が活躍しないただの小道具扱いだったりとか、主人公や大人たちがいまいち成長感じられなかったりとか、スピルバーグならそこらへんもっと描いていただろうなと。

 いちばんの不満点は、エイリアンが町に修復不能な傷痕を散々残して、死人まで何人も出ているのに、なんか『未知との遭遇』のラストみたいにいい話風に帰結しても感動しづらい点。ジョーがエイリアンに同情するのは悪くないんだけれど、その段階にいくまでにもうワンクッション欲しかった。
 宇多丸さんが『タマフル』で言ってたように、事態が深刻になってから子供たちがエイリアンに出会うのではなく、先に8ミリカメラにエイリアンが偶然映っていたためにその危機を知ってしまい、それを自分たちの手でなんとかしようとするからこそ子供たちがストーリーを牽引でき、エイリアンとの、ジョーだけが知り得て、理解出来ている関係が描けるのに…。それかいい話風にまとめるのではなく、もっと切なくて淋しくて町も主人公たちも深く傷ついたけれど、ちょっとだけ成長したみたいな、アンチカタルシスな終わらせ方――は、ハリウッド的に許されないのかな。
 あと、エイリアンのデザインが印象にあまり残らない点。
 あと細かい点ではウッドワード先生の学校の先生の姿をきちんと描いて欲しかったなって。そんな学校の理科の先生だからこそ、ものすごい秘密を隠していたという驚きとワクワクが増幅されると思う。

 ご都合主義な点は別にそこまで不満ではありません。そんな長いロープよく都合よくありましたねとか。

 まぁ、『E.T.』『未知との遭遇』なみの感激を期待したらあまりいい目を見ないとは思いますが、『LOST』くらいの面白さはきちんとあると思います。軽く観ましょう。

 クッキンアイドル アイ!マイ!まいん!レベル!

 次回の映画なんですが、twitterでちょっとしたゲームをやりまして、観るべきかどうか悩んでいた映画が何本かあったので、「『アリス・クリードの失踪』と『クロエ』と『あぜ道のダンディ』と『ロストアイズ』と『レイキャビク・ホエール・ウォッチング・マサカー』と『エクソシズム』のどれか観に行こうと思うのですが、どれがいいだろうか?」みたいなこと書いて、いちばん最初にオススメされたものを観ようと思ったんですね。
 したらば最初に、宣伝の人が「『エクソシズム』なかなか掘り出し物との噂です!って宣伝の者です。すみません!!!ぜひ、ご検討いただけると嬉しく存じます。」と丁寧に返事してくれたので『エクソシズム』を観に行くことになりました。乞うご期待。
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  1. 2011/07/14(木) 02:14:54|
  2. 映画サ行
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『さや侍』は"自己愛"と"笑い"の親密な関係だよ。

saya

 こんにちは。今回はダウンタウンの松本人志が監督した第三作目『さや侍』の感想です。以前、こことは違うブログでダウンタウンの文句を書いたら松本人志信者にスゲー怒られたことがありまして、以来恐々しておりますが、この映画などは信者の方々はどう思われているのでしょうね?
 ちなみに個人的には『大日本人』はけっこう好きです。


 観に行った映画館は前回に引き続きTOHOシネマズ府中。14日の1000円の日でした。こちらはけっこう混み合っていました。20~30代が多めといった感じでしたが、もっと若い人もお年寄りもいらっしゃいました。


概要:2011年の日本映画。監督・脚本は『大日本人』『しんぼる』の松本人志。
 ある出来事をきっかけに刀を捨て、さやだけを持つようになった武士、野見勘十郎(野見隆明)。一人娘のたえ(熊田聖亜)を連れ、無断で脱藩し追われる身となっていた。しかしついに多幸藩の追っ手に捕らえられ、殿様(國村隼)の前に差し出される。ところが、変わり者で知られる殿様が勘十郎に処した刑は“三十日の業”。それは、母を亡くして以来、笑顔をなくした若君を、一日一芸で30日の間に笑わせられたら無罪放免、できなければ切腹というものだった。これまで多くの罪人が挑戦したものの、誰一人成功していなかった。勘十郎もあの手この手で笑わせようと奮闘するが、まるで手応えなし。そんな勘十郎の無様な姿に、たえの不満は募るばかり。すると、見かねた見張り番2人(板尾創路・柄本時生)も芸を一緒に考え出し、勘十郎の挑戦を応援し始めるが…。
"allcinema online"より抜粋)


 ダウンタウンは面白いと分かっていながら苦手な時期があった。
 苦手な理由としてまず僕がとにかく天の邪鬼だったため、皆が口を揃えて大好きという彼らに否定的でいたかったからというどうしようもないものが一つ、それとちょっと変な人を指をさして笑う彼らがイジメっこのようで嫌な感じがしたからというのがもう一つの理由。
 ただそのダウンタウンの笑いを成す"攻撃性"は弱者や変人だけではなく、立派な先輩や人気アイドルにまで及んでいるわけで、当時の僕は、どちらかというと『メアリー&マックス』のごとく全人類に対してイジメを宣言しているダウンタウンのスケールの大きさを感じられなかったのだと思う。
 で、最近またあまり興味がなくなっている。そんな真面目に観ているわけではないのだが、なんていうかそんな彼らを成り立たせていた"攻撃性"が彼らから感じられなくなっているのだ。パンクを感じられないのだ。


 今回取り上げる『さや侍』の予告を見たときも、嫌な予感がした。お涙頂戴路線を思わせる雰囲気に、彼らの"攻撃性"の根幹を成す"照れ"を感じなかったからだ。そして後述するが、案の定本作は大した映画ではなかった。しかし本作で描かれる"お涙ちょうだい"に、「笑い」に対する根源的な何かを感じなくもなかった。今回はそんな論旨。


(1)「照れ」と攻撃性の関係について。
 松本人志の"攻撃性"は"照れ"から来ていると思う。小学生男子が好きな女の子を叩くような幼稚な攻撃性が笑いを生み出している。
 愛おしいもの、優しいもの、かわいいもの、ふとした日常にこそ照れて攻撃性を見せる。我々は肯定されて然るべきそれらのものをぐらつかされて困惑し、笑う。

 そこにおいて本作はあまり攻撃的ではない。まるで刀を失い鞘だけを構えた侍のように優しい。

 本作前半で良かった点は主人公野見勘十郎(というか撮影と知らされずに身体をはったギャグをさせられている野見隆明)の優しさや一生懸命さに対する"攻撃性"とその裏にある”愛情"のバランス。野見勘十郎が様々な体当たりの芸にテンポよくいどんでいく中盤の展開などは、観客は彼を指差して笑いながらも、例えば彼を愛する娘たえの存在などをきちんと観客に感じさせたりとどこかで愛おしい視点を用意しているため、観客は不安と安心の揺らぎを与えられ笑うことができる。

 が、終盤に向かうに連れて「愛おしく思う視点」「攻撃性」のバランスがコメディのそれではなくなってくる。
 例えば野見勘十郎に対する視点。松本監督の彼(というか彼に投影している自分自身)に対する愛情が次第に膨れ上がってきてしまい、コメディとしての基本的な骨子を打ち砕いてしまっているのだ。
 『これでいいのだ!! 映画★赤塚不二夫』の感想でも書いたが、作中で面白いこととされていることは、観客にとってはまるで面白いことではない。
 間抜けな姿で一生懸命頑張る野見勘十郎を殿様たちが「しらー」っとした視点で眺めるだけの前半はきちんと笑えたのだが、次第に彼が人気を帯びてきて彼の行動に作中の観客たちは腹をかかえて笑い、あまつさえ応援したり感動したりすらしてしまう。こんな描写を入れられたら観客は笑えるはずはなく、劇中とは相反して劇場内は序盤の殿様や若君のごとく「しらー」っとした空気につつまれてしまう。「実は冷静になって見れば大して面白くなくなるんじゃ…」と「笑い」に懐疑的になる。そうなったらどんなことも笑えなくなってしまう。
 たえは決して笑わない若君に「もっと心を開いて笑おうよ、どんなことでも笑えるよ」といったことを言う。笑えないことを観客の気持ちの持ちようのせいにするのは芸人として決して言ってはならない言葉だ。

 娘たえに対してはさらに"攻撃性"を見せないどころか散々甘やかしてすらいる。
 例えば牢獄の外で父親を見ている彼女を門番の板尾創路が「仕方ない一緒に入れてやれ」といったり、若君の部屋に忍び込んであやしげな薬草おいていっても見つからなかったり、なんかため口で喋りかけたり。(関係ないけど、あんなに大事にされていた若君を小石で怪我させたのに、それに関しても野見たちはなんのお咎めもないんですね、娘のため口もそうだけど、そういうことで簡単に首をはねようとする権力の横暴さがこの物語のルールを成しているのに)

 このように本作は"愛おしいもの"(それは野見=松本人志自身でありたえとたえの父親である松本人志自身)に「照れ」「攻撃性」もなく、そのまま愛をもって描いているため、笑いを相殺してしまっている。
 ――だが笑いを三〇年も続けて日本のコメディのトップに君臨してきた松本人志がそんな初歩的なミスをするだろうか?


(2)続いて"攻撃性"を封じ、笑いを殺したことに、実はある程度意味があるのではないかと推測したい。

 本作の最後、野見勘十郎はついに命を保証されるのだが、自ら腹を切って自害する。その意味を考えてみたい。

 前2作とは違い、本作は松本人志監督は主演を控えており、それにより主人公と自身に一定の距離をおいているように見えるが、やはり野見は監督の分身、「笑い」に命を賭け、「笑い」に殉じていく様は観客としても野見に松本人志を重ねざるを得ない。

 妻の死のショックから、刀を捨て鞘だけを持っていた野見勘十郎は、やがてこの”三十日の業”により「笑い」という刀を持ち、侍として生き返った。
 やがて彼は何を言ってもやってもファンにゲラゲラと笑ってもらえる芸人となる。

 そして殿様にまで気に入られた野見勘十郎は、どんなにつまらないことを言っても笑ってもらえるということで切腹を免れることになる。なんでもいい、どんなにつまらなくても一言ギャグを言えば笑ってもらい許されるのだ。

 しかし彼は切腹する。つまらないギャグでも人気だけで笑ってもらえるよりは死んだ方がマシだと。
 彼は侍(芸人)としてのプライドを守ったのだ。そこには鞘だけではない、プライドという"一本の刀"を持った侍がきちんといた。

 このように、後半の観客がしらけてしまう笑えない展開は、終盤芸人としてのプライドを描くための布石ととれる。(もちろん、結局それは松本人志のナルシシズムであり、あんまり褒められたものではないのだが)

 ――しかし彼の「切腹」による死は、実はそのプライドすらも殺しているのではないだろうか。


(3)ニーチェは「神は死んだ」として、性欲と暴力と陶酔を人の手に解放した。それは人間の本質であり、その本質を描くのが芸術だ。

 さて、ニーチェに合わせるならば、野見勘十郎――松本人志は、性欲(妻)を失い、攻撃性(刀)を捨て、終盤残されているのは芸人としてのプライド(陶酔)と――おそらく親としての子に対する愛だけであった。(※)
(※)娘に対しては最後の最後まで一度も"攻撃性"を示すことはなく、優しく見守るような視線を絶やさず、話のリアリティラインを寓話的にしてまで彼女の幸福を描いた。


 そして芸人としてのプライドを切腹することで散らせた彼は、その自己陶酔すら殺した。

 残ったのは"親の愛"。先日愛娘が生まれたという松本人志が描く"子に対する愛"だ。
 死んだはずの野見勘十郎はたえの前に幻影としてひょっこり顔を出し彼女を子供らしく笑わせた。そこには決して笑わなかったもう一人の子供若君の笑みも描かれている。
 そこに描かれているのは芸も照れも攻撃性も陶酔もない、"親が子を思うだけの愛"からくる、最も根源的かつ本質的な「笑い」ではないだろうか。「いないいないばあ」のような、親が子供に対して笑って欲しいと願う純粋な愛、それが笑いの基本ではないか。
 ――殿様がどんなに変人になろうと悪になろうと息子が笑うことを求め、また松本人志の"攻撃性"の根源たる「照れ」が、やはり愛から来たものだったように。


 以上、本作で松本人志は、得意とする"攻撃性からくる笑い"を封印し、笑いに来たはずの観客をシラけさせまでして、それに対する芸人としての美意識を描いたように見えた、しかし更に、その芸人としての美意識すら失った後に、たった一つ残された最も本質的で根源的な"笑い"の形「親が子を思うゆえの行い」を描いていたのではないかと考える。


(4)やろうとしていることは面白いし、何より現状のお笑いチャンピオンとして君臨する松本人志が痛々しくて笑えないものを敢えて描いたという点、根源的な笑いは攻撃性ではなく愛ということを描いたことだけでこの映画の意味はあると思います。が、物語映画を語るにはいくらなんでも下手っぴ。不器用すぎるなあと思います。
 例えば、野見の奮闘に感動するには、感情移入を拒んだ野見勘十郎のキャラクターや、やたらご都合主義的な展開や最後までコントの延長上のようなリアリティラインが邪魔でまるで感動は出来ないし、撮影上のミスが多かったり、説明過多なあざとい最後の手紙朗読シーン、大袈裟すぎる観衆の描写などなど子供騙しのテクニックが邪魔して物語に集中出来ない。(*)
(※)"撮影上のミス"とは例えば次々と障子を破っていく野見の"業"はいちばん大切な若君に全然見えていないみたいなそういう類いのもの、"ご都合主義的な展開"とは、突然何の脈略もなく柄本時生が聞き出してくる「若君様は風車が好き」という情報や、終盤突然都合良く吹き出す風、”リアリティライン”とは時代劇としてはありえない時代考証(野見から香る江戸時代の臭さは良かった)、大袈裟な観衆とは結局まるで活かされていない賞金稼ぎ三人組(りょう、ROLLY、腹筋善之介)などを指す。

 あと"笑い"に殉じるための切腹をかっこ良く描いたり、「笑い」にせよ「親子」にせよ結局自分のことしか描いていないナルシストっぷりは小栗旬くんのあの映画を彷彿とさせます。


 そんなわけで松本人志の愛に溢れるユーモアをひっそりと感じたのですが、単純にナルシスティックな映画とか、泣ける映画とか捉えると、個人的にはあんまり面白くない気がします。要注意。個人的には松ちゃんにはもっと既成の"映画"にこだわらずにコント的なものを見せて欲しいです。オムニバスでもいいから。それこそ『大日本人』みたいな。

 IMALUちゃんレベル。

 次回は是枝裕和監督の最新作で主演はなんとまえだまえだの『奇跡』の感想です。

テーマ:映画館で観た映画 - ジャンル:映画

  1. 2011/06/23(木) 01:58:52|
  2. 映画サ行
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『処刑剣 14 BLADES』は多分内容をすぐ忘れるよ。

処刑剣

 そんなこんなで今回はみんな大好きドニー・イェン師匠主演の『処刑剣 14 BLADES』の感想でございます。

 観に行った映画館はシネマート六本木。ファーストデイで1000円の日だったのでそこそこ混んでいました。客層は一人客のオジさんが半分、半分が女性。女性!? この映画館は韓流にかなり力を入れているので、その流れで予告を見た女性の韓流ファンが流れてきたのだろうか? それとも水曜だったからレディースデイで多かったのか。


概要:2010年の中国映画。監督・脚本・美術は『ドラゴン・スクワッド』『三国志』のダニエル・リー。
 14世紀後半から200年以上続いた明王朝時代。それを影で支えていたのが秘密警察“錦衣衛”の存在だった。錦衣衛はいつしか、反体制派を抹殺する暗殺集団に変貌していた。そのリーダーを務める青龍(ドニー・イェン)は、チン親王(サモ・ハン)と共謀して現体制の転覆を企む朝廷最高位の宦官ジア(ロー・ガーイン)の陰謀に巻き込まれ、あろうことか無実の罪で錦衣衛に追われる身となってしまう。深手を負った青龍は、身分を隠してヨンが営む運送屋“正義護送屋”に逃げ込み、京城までの護送を依頼する。護送の旅にはヨンの娘ホア(ヴィッキー・チャオ)も同行し、やがて青龍に好意を抱き始めるが…。
("allcinema online"より抜粋)


 『イップマン』2作がたいへん素晴らしく、『孫文の義士団』もなかなかの佳作だったので、もうドニー・イェン主演ならとりあえず見ておこうと、勇んで見に行ってまいりました。

 そもそもジャンルムービーであるこういう映画はこの前の『名探偵コナン 沈黙の15分(クォーター)』同様に、細かいストーリー展開やセンスにいちいちツッコミを入れるのは無粋というもの、本作に関して言えば観客としてはアクションを楽しめればとりあえず満足なわけで、ぼくもご多分に漏れずドニー・イェンのアクションを楽しみに行ってまいりました。
 が、結論から言って不満が残る出来でした。
 今回はそんな本作のアクションについてあれこれ。


(1)まず良かった点なのですが、例えばドニー・イェンのデザイン
 奇妙な箱型の武器"大明十四刀"を担いだ、中華風な一方でどこかウェスタンヒーローのような風体はどこからどうみても「ヒーロー」のスタイルで、こいつがどんなアクションをするんだろうと想像するだけでたまらなくワクワクする。
 それでその箱型の武器から変なワイヤーが飛び出してバットマンのように宙に舞ったり、と思いきや今度はボーガンになったり、剣が飛び出たり。『007』のQもびっくりな秘密兵器っぷり。
 『エクスペンダブルズ』『特攻野郎Aチーム THE MOVIE』がそうであったようにアクション映画というのはまずヒーローありき。その点において本作の青龍や大明十四刀のデザインは成功していると思う。
 キャラクターデザインという点ではサイドキックのような砂漠の判事・天鷹幇(ウーズン)や悪役の美女トゥオトゥオ(ケイト・ツイ)、両義足のチン親王(サモ・ハン)もなかなかよかった。

 それともちろんドニー・イェンの一つ一つの動きは解説をする余地などないほど素晴らしい。穏和な『イップマン』とも、三枚目の『孫文の義士団』とも違うマッチョで破壊的な魅力にあふれている。
 砂漠の判事も初期『ドラゴンボール』のヤムチャのようでなかなかイカしたアクションを披露してくれてました。


(2)上記のように単純な「動作」はとてもいいのだが、その動きを"流れる格闘アクション映像"として見たとき不満が残る。
 上記ドニー・イェン主演三作品が何が良かったかって、香港アクションというけっこうガラパゴス化したジャンルムービーの基本はきちんと踏まえ、その特異なアクション描写を「格闘技と身体論」「作られる歴史」というテーマにきちんと絡めて描いた点にあると思うんです。だからアクションひとつひとつに"物語の重み"があった。パンチ一つにテーマやストーリーがあった。
 その点において本作『処刑剣 14 BLADE』はいまいちそのテーマ性とアクションを絡めていないように感じる。”使命と尊厳”といったテーマ性もきちんとしているし、アクションももちろんすごいのだけれども、ドニー・イェン演じる青龍のキャラクターや葛藤が彼のパンチやキックにフィードバックされていない。なんというか、色気が感じられないのだ。そこに本作に対する不満がある。

 例えば冒頭の冷酷な殺人マシーンとなっていた青龍のアクションも、冷酷非道にしては華麗すぎるし、彼が自らの尊敬を守るため兵団を裏切るところに明確な変化を表すアクションがないから彼の変化が観客にいまいち伝わりづらく、それ故に「正義」となった彼のアクションもなんともキャラクター性がはっきり見えづらいのだ。


(3)もう一つアクション面の不満点として、格闘アクションの見せ方もちょっと安っぽいところ。
 貧乏なマイケル・ベイ的というべきか、チープなジョン・ウー的とでもいうべきか、アップショットと細かいカット割、キメ絵にはスローモーションの連続で、何が起こっているか分かりづらく、せっかくのアクションスターたちの流麗な演舞のごときアクションがうまく見せられてはいない。

 例えば『イップマン』『大怪獣バトル ウルトラ銀河伝説 THE MOVIE』『アイアンマン』などを見るに、オーソドックスに引きめのショットでカメラや編集はなるべくわかりやすくして、アクションのリズムや効果音でスピード感や迫力を見せるのが最近の主流だとは思うのだけれど、その点本作のアクション描写は見づらい上にいささか古臭く感じてしまう。

 このように、(2)(3)のような点において本作のアクションに不満が感じられた。


 以上、キャラクタデザインや単発的な動きは楽しく、それだけでいいっちゃいいのですが、そんなアクションを上手く活かす演出が出来ていなかったかなーといった感想でした。素材が素晴らしかっただけに、それを料理する手腕が足りなかったかなと。


 他にも、『イップマン 葉問』で健在っぷりを見せてくれたサモ・ハン・キンポー師匠がアクションしないこととか、最後の敵がトリッキーなタイプの女性キャラトゥオトゥオなのはなんか盛上がらないこともアクション映画として不満が残る。
 あとストーリー、もっと単純明解シンプルにしてもいいんじゃないかな、とか。
 
 ま、ドニー・イェン師匠を見るだけなら、そんなに悪くはないのかもしれません。

 小松彩夏レベル。

 次回はフィリップ・K・ディック原作、マット・ディモン主演のSFアクション『アジャストメント』の感想です。

テーマ:映画館で観た映画 - ジャンル:映画

  1. 2011/06/10(金) 12:36:17|
  2. 映画サ行
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『スコット・ピルグリム VS. 邪悪な元カレ軍団』は8bitで愛を描くよ。

pilgrim

 こんにちは。今回は公開されるかどうか危険だった話題作『スコット・ピルグリムvs邪悪な元カレ軍団』の感想です。話題作の割にはアメリカ・イギリスじゃコケたそうですが。

 観に行った映画館はシネマライズ。火曜1000円の日でしたが思ったほど混んではいなく。客層は男女ともに若者が多め。


概要:2010年のアメリカ映画。ブライアン・リー・オマリーによる漫画を『ショーン・オブ・ザ・デッド』『ホット・ファズ 俺たちスーパーポリスメン!』のエドガー・ライトが製作・監督・脚本を手がけ実写映画化。
 アマチュア・ロック・バンド“セックス・ボブオム”のベーシスト、スコット・ピルグリム(マイケル・セラ)は、年下の高校生ナイブス(エレン・ウォン)という彼女がいながら、ミステリアスな女の子ラモーナ(メアリー・エリザベス・ウィンステッド)にひと目ぼれしてしまう。すっかりラモーナに夢中のスコット・ピルグリムだったが、そんな彼の前に突然、謎の男が現われ、戦いを挑んできた。男の正体はラモーナの最初の彼氏、マシュー・バテル(サティヤ・バーバー)。なんと、ラモーナのハートを射止めるためには、次々と現われる7人の元カレたちを全員倒さなければならなかったのだが…。
"allcinema online"より抜粋)


 本作『スコット・ピルグリム vs. 邪悪な元カレ軍団』はビデオゲームをはじめとする様々なサブカル的要素で溢れかえっている。今回はその中で最も目立つゲーム的な要素に焦点を絞りその意味を考えたい。


(1)いつの世代だって"現実逃避"は虐げられてきた。僕の少し前の世代は漫画を、もう少し前だと映画を――それどころか物語自体すらいかがわしいものとされた時代もあった。
 僕らの世代でそれにあたるのは"ゲーム"だろう。「ゲームは一日一時間」だの"ゲーム脳"だのと言われ続けて、いつだってゲームは虐げられてきた。

 しかしゲームだって何かしら得るものはあるはずだ。そうでなければゲームで育ちゲームで学んできた我々は報われない。
 そんな声を意識してかどうかは知らないが、90年代末あたりから徐々にファッションや音楽で"ゲーム的センス"は取り入れられてきた(ファッションに関してはまあ80年代リバイバルの一環でゲームの本質を描いてはいないのではと思うこともあるけれど詳しくないのであまり語れませんが)。
 まあそこら辺はもはやブームは去っていて、いまさら『スーパーマリオ』『ソニック』はもちろん『メトロイド』『ディグダグ』『MOTHER』『ゼビウス』のサンプリング曲を「どうだ!?」と出されてもあまり喜ぶ人はいない。(ところでゲーム音をサンプリングした曲の走りみたいなスチャダラパー『ゲームボーイズ』は今聴いても素晴らしい名曲だと思います)



(2)さて、そのようななか映画はゲームに対してどのような態度をとってきただろうか。
 例えば『ザ・ビーチ』『ゾンビランド』のようにゲーム的な記号表現を手段として使用した作品は星の数ほどあったし、『スーパーマリオ・ブラザーズ』『バイオハザード』『モータル・コンバット』などゲームを原作に映画的な文法で描いたものは多かったと思うけど、本作のように僕らの"ゲーム的思考"を作品全体の主題とし、映画的な物語をゲーム的な文法に置き換えた作品は無かったと思う。


 本作はコンプレックスだらけの主人公スコットが、過去に7人ものイケてる恋人と付き合ってきたエキセントリックな女の子ラモーナと付き合うことになり、彼女と釣り合う存在になるためコンプレックスを克服しようと過去の彼氏に会う巡礼("pilgrim")を行なうという物語であり、エドガー・ライト監督が「任天堂版『アニーホール』」と言われて喜んでいたが、もしウディ・アレンならインディロックをジャズに置き換えて洒落た感じで撮りそうな、等身大の(もしくは地味な)物語である。

 しかしその物語の描写は冒頭の"UNIVERSAL"のロゴから最後の"CONTINUE ? 9…8…7…6…"("THE END"ではない)にいたるまで全てがゲーム的な意匠にて描かれている。それは例えば『ストリート・ファイター2』『スーパーマリオブラザーズ』『ゼルダの伝説』『テトリス』『MOTHER2』『モータル・コンバット』『パックマン』『ドンキーコング』『ファイナルファンタジー』『鉄拳』『ダンスダンスレボリューション』『マーヴル・ヒーローズ』、あとは日本人が知らない多くの洋ゲー…はたまた間接的にゲーム的な意匠を採用しているものとして『ドラゴンボール』CORNELIUSなどなど、80年代末から90年代(スーパーファミコン~PlayStation世代)を経験した若者なら誰でも知っている大ヒットゲームの趣向をもってして"地味な物語"を彩っている。



(3)シンプルな物語をオタク的な要素をこれでもかと盛り込んで必要以上に派手に演出するというと、先に感想を書いた『エンジェル・ウォーズ』『ダンサー・イン・ザ・ダーク』を思い出すけれど、あれは性的虐待やロボトミー手術、貧困や差別など過酷すぎる現実があって、それに目を背けて耐えるための"空想"として「派手な演出」があった。
 しかし本作は違う。目の前にある全ての日常が否応なくゲームに見えるのだ。言い換えればゲーム的な世界こそリアルな世界なのだ。例えばオシッコするときですら右上に"オシッコゲージ"が表れ、その溜まっている量をあらわすほどの日常性。

 『ダンサー・イン・ザ・ダーク』『エンジェル・ウォーズ』で描かれた空想世界は現実から逃避する手段であり必ずしもポジティブなものであるとはされなかった。いつかは目を合わせなければならない"空想"の対局にある"厳しい現実"があった。
 しかし本作はゲーム的な思考をけっしてポジティブともとらないがネガティブなものとしても描かない。ただひたすら”日常的”なものとして描く。厳しい現実を見ようが見まいが目の前にあるのは"ゲーム的視覚の日常"なのだ。
 そして本作はそれを否定しない。
 スコットやスコットの元恋人の女子高生ナイヴスの脳内では自分の左上に常にライフゲージが浮かんでいて自分の力量を知っているし、人を傷つけたらダメージカウンターが表れ人の痛みを知る。自分の力量じゃかなわない相手にはレベルをあげて挑戦するし、挫折したってくじけずコンティニューして再挑戦する。そして彼らはそうやって大人に成長していく。

 "ゲーム的思考"をもってしても厳しい現実をきちんと見据えることはできるし、厳しい現実を克服していくことも可能である。僕らの前の世代が、物語や映画や漫画やロックに大切なことを教えられてきたように、"現実逃避"と言われながらもゲームを愛し、ゲームに育てられてきた我々の世代は"ゲーム的な思考"をもってきちんと現実と向き合ってきたのだ。


 以上、本作は現実逃避だのなんだのと未だ非難を浴びせ続けられるゲーム(や様々なサブカル)に育てられた世代やゲーム的な思考にまみれた日常を否定せず、それも一つの現実との向き合い方であると描いていると思う。



(4)不満点は、それがけっこう致命的なんだけれど、ゲーム的映像が大して面白くない、迫力がない、同じような繰り返しで単調という点。最初はヘンテコで良くても次第に見飽きてしまう。この手の映画でそれは致命的かなと。
 あと女の子をもっと可愛く描いて欲しかったです。現実的ってならいいんだけど、現実的でもなければゲーム的な萌え要素もない。

 逆に良かった点はさすがマイケル・セラのダメ男っぷり。二股かけているくせにラモーナにやたら一途で、ナイヴスに冷たすぎるし、元カノには敵意すら抱いている。なんかリアル童貞臭。
 そんなアジア系女子高生ナイヴスのスコットの冷たいあしらいにもめげずに戦うキャラクターも良かったです。

 最近『キック・アス』『エンジェル・ウォーズ』などサブカルファンタジーと痛いリアルの融合という作品が多いですが、そういう作品群の中ではそれらの点で少しパンチが弱いかなとは思います。本作が話題の割には低評価なのはそのせいなのではないかと。
 が、ゲーム好きでゲームの世間的な偏見に不満なあなたならオススメできると思います。

 鈴木愛理レベル。

 次回は前回感想を書くといいましたね。『トト・ザ・ヒーロー』『八日目』のジャコ・ ヴァン・ドルマル監督のSF映画。『ミスター・ノーバディ』の感想です。


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テーマ:映画館で観た映画 - ジャンル:映画

  1. 2011/05/13(金) 01:49:12|
  2. 映画サ行
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『孫文の義士団』は日常的な大事件だよ。

孫文
 たまには更新するよ。
 更新しないで申し訳ありません。本日は『孫文の義士団』の感想でございます。

 観に行った映画館はシネマスクエアとうきゅう。客層は年配の方が多め。この映画館は作品に限らず年配が多め。そんなに混んでませんでした。


概要:2010年の香港映画。監督は『アクシデンタル・スパイ』などのテディ・チャン。
 清朝末期の香港。そこに、腐敗した王朝の打倒を掲げて立ち上がった男、孫文が日本からやって来るとの極秘情報がもたらされる。目的は、中国各地の同士たちと武装蜂起へ向けた協議を行うため。孫文を亡き者にしたい西太后はこのチャンスを逃すまいと500人もの暗殺団を送り込む。そこで、孫文を守るための義士団が結成される。集められたのはスパイとして働く警官や車夫、ワケありの物乞いなど市井の民たち。彼らに課された使命は、孫文の影武者と共に囮となり、会談が終わるまでの1時間を500人の暗殺団相手に戦い抜くというものだった。
("allcinema online"より抜粋)


 我々が生活をする"日常"とはどのように成り立っているのだろうか。
 例えばいち個人である明智光秀や坂本龍馬が血を流さなかったらこの時代は到来していただろうか。全然変わらないかもしれないが、もしかしたらまるで違うかもしれない。ヒットラーがいなかったら世界はまるで変質していたかもしれない。時に個の力は多くの人の日常に非常に深く関与する。
 この前の震災にて身の回りの世界が変わろうとしている中、今までの日常は多くの人の苦労の上に成り立っていたのかと感じる。食べ物、電気、娯楽などなど様々なものがストップしちょっとしたことで簡単に日常は崩れてしまった。多分僕だって日常の歯車の一部を担っていたのであろう。ちっぽけな個人ひとり欠けただけで人々の日常は変わってしまう。
 しかしその行為を「国を安定させるため」だとか「みんなの幸せを守るため」といった大それた志にて殉じている人は皆無であろう。みなそれぞれの生活のために歯車となっているだけなのだ。
 "個々の生活を守る行い"がそのまま社会を成立させる。

 本作の邦題は「義士団」なんて大それているが、洋題は"BODYGUARDS AND ASSASSINS"すなわち「ボディガードと殺し屋」であり、それはイデオロギーなど一切匂わせない単なる"職業名"にすぎない。それもそのはず、本作の「義士団」たちは今世界がどうなっているのか、自分たちが守るべき孫文とはどのような人物なのかなどまるで知らない者がほとんどなのだ。
 ほとんどのキャラクターが、生活のため、プライドのため、恩に報いるため、復讐のために孫文のボディーガードになるのだ。
 暗殺者側もそうだ。最後、ただ孫文を殺害するだけのためだけに『ターミネーター』のごとく殺人マシーン化するヤン・シュオグオ(フー・ジュン)。彼には理念も何もない。ただ与えられた目先の使命をまっとうするだけの仕事人である。

 そして一見歴史の授業とは無関係で、イデオロギーなど決して持ち合わせない彼らが血を流したことで今日の経済大国である中華人民共和国ないし我々の生活は成立しているのだ。


 本作の見どころは素晴らしいカンフーアクションにある。我らがマスター『イップマン』のドニー・イェンが、『イップマン』とはまた違う三枚目の演技とアクションを披露していたり、車夫アスーを演じるニコラス・ツェーのへなちょこだけど肝が座っている殺陣、世捨て人リウを演じるレオン・ライの美しい舞のような殺陣、ただただ破壊を求めるかのような暗殺者ヤンやドニー・イェンと凄まじい追撃戦を展開するチェンシャン(カン・リー)の鋭く重く触れるものをすべて破壊する殺陣など見応えたっぷり。
 ところで本作のもつある種の歴史ロマンないし社会科的な視点はフィクションとはいえ史実に近い形となっており、しかもリアリティを求められる近代史である。このリアリティと香港映画お得意の物理法則完全無視カンフーアクションの取り合わせは一見不釣り合いな気もするが、上記の「個々の生活の上に成り立つ雄大な歴史」という観点で考えてみると、個々の生活を成り立たせる個々の力を表現するにカンフーは不自然ではない。
 むしろ歴史の政治的な動きには、一見それと無関係に見える個々人の生活が深く関与していることを描写するには、本作の孫文の政治革命とカンフーの関係はとても適していると思う。

 このように、『孫文の義士団』は、今我々が立っている日常というものは、様々な政治と様々な殺し合い、様々な犠牲と様々な生活、様々な思想と様々な想いの上に成り立っているものであるのではないかと、本作を見て感じた。


 不満点は、人間臭くアクションが爽快なドニー・イェン演じるシェンか車夫アスーをメインに添えてもっと観客が共感できる箇所を増やして欲しかったかなと。志が高すぎるリー親子ではちょっと共感しづらく映画に感情移入しにくい。

 そんなわけで、ドラマも良し、アクションも良し、軽くも深くも楽しめるとても楽しい映画でした。おすすめ。

 二階堂ふみレベル

 次回は三浦しをん原作、『ケンタとジュンとカヨちゃんの国』の大森立嗣監督作品『まほろ駅前多田便軒』の感想でござい。

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  1. 2011/04/30(土) 18:26:26|
  2. 映画サ行
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