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『ふたりのヌーヴェルヴァーグ ゴダールとトリュフォー』は21世紀のヌーヴェルヴァーグだよ。

ゴダールとトリュフォー

 そんなこんなでそこそこ真面目に更新していってこの溜まりに溜まったノルマをなんとかしてやろうと思っております。
 今回は『ふたりのヌーヴェルヴァーグ ゴダールとトリュフォー』という、ヌーヴェルヴァーグの時代を扱ったドキュメンタリー映画の感想です。

 観に行った映画館は新宿のケイズシネマ。ファーストデイに行ったのですが、この映画館は1000円で見れる日がファーストデイしかないのもあり、公開3日目というのもあり満席でした。客層は一人客が多めで、中でも中年以上の方が多かったです。若い人もちらほらと。


概要:2010年のフランス映画。製作・監督はエマニュエル・ローランという人。脚本はアントワーヌ・ドゥ・ベックという人。
 “ヌーヴェルヴァーグ”の名を世界に知らしめたフランソワ・トリュフォー監督の『大人は判ってくれない』がカンヌ国際映画祭で上映されセンセーションを巻き起こしてから50周年になるのを記念して製作されたドキュメンタリー。ヌーヴェルヴァーグを代表するふたりの巨人、フランソワ・トリュフォーとジャン=リュック・ゴダールの友情と決別までの軌跡、そしてふたりの間で翻弄されることになる俳優ジャン=ピエール・レオの運命を振り返る。
("allcinema online"より抜粋)


 ゴダール作品って特に初期の作品はポップで好きですが、『勝手にしやがれ』『小さな兵隊』など公開当時斬新だとかモラルがないとか言われていた意味はよくわからない。理屈や知識ではわかるけど、それを今見て"新しい"と思えない。そこに毎回寂しさを感じる。
 それでもゴダールが、もしくはトリュフォーやアニエス・ヴァルダやルイ・マルやアラン・レネなどのヌーヴェルヴァーグの監督たちが、それでも50年後の若者たちのアイドルでいられるのか、その理由が本作では描かれていると思う。


(1)ゴダールに関しては『ゴダール・ソシアリスム』の時にも書いたと思うけれど、思春期の僕にとって最強のアイドルであったが、トリュフォーに関してはそんなに愛着は無かった。
 それは何故か。ゴダールの映画は今でも明らかに常識外れの映像で、その色彩、構図、編集、音どれをとっても刺激的だし、何よりゴダール作品の方がジーン・セバーグやアンナ・カリーナ、ブリジット・バルドーなど可愛い女の子が出ていたのが決め手となっていた。
 トリュフォーも当時としては斬新な映像だったそうだけど、今見たらそうでもないし、『突然炎のごとく』のジャンヌ・モローは思春期の僕には年上すぎた。
 それもそのはず、本作で語られているように、ゴダールは映像に重きを置いていたが、トリュフォーはどちらかというと物語性に重きをおいていた。ゴダールの方がわかりやすく刺激的なのだ。


(2)でもって本作は『勝手にしやがれ』『大人は判ってくれない』が封切りした当時の観客や批評家の感想が挿入されているが、当時としてはその演出というよりも、それもあるのだが、それを含めた思想やテーマが斬新で刺激的だったそうだ。そのどういった点が斬新だったのかという説明がされなかったのは残念だったが、例えば"チープでポップな命"という反倫理的なテーマに扱った『告白』がチープでポップな演出で描かれ、刺激的で斬新な一方で多くの人が拒否反応を起こしたという構図に似ているかもしれない。
 ただ多分その当時の衝撃は蓮實重彦先生くらいの知識と読解力と想像力があったとしても伝わらず、それは当時の人にしか分からないものなのだろう。

 で、我々後追いの世代は結局その映像の持つポップな刺激や、歴史性を楽しむという仕方で彼らの作品を鑑賞し、当時『大人は判ってくれない』『勝手にしやがれ』に熱狂していた人々と同様の楽しみは共感できないのだ。


(3)本作ではおそらく当時の刺激的な思想やテーマがなんであったかを描かないのがミソなのであろう。
 そして本作は上記のごとく新たなゴダールとトリュフォー作品の楽しみ方を提示している。

 本作で描かれるのは育った環境も学歴もまるで違う二人が映画愛ゆえに出会い、5月革命以降、映画に対する考え方の違い(ゴダールは映像に対する刺激・政治性を、トリュフォーは物語・ファンタジー性を重視した)ゆえに決裂していった(それと二人の作品に愛された故に二人の兄貴分の間で悩んだジャン・ピエール・レオーという少年の)物語である。
 その"物語"を語るのに必要とされるのはゴダール映像の刺激であり理屈っぽさトリュフォー映画の甘酸っぱい物語性と少年っぽさ、そして映画青年としての彼らのキャラクター性であり、彼らの政治的思想や芸術論、社会意識云々は必要最低限しかいらないのだ。
 そしてヌーヴェルヴァーグから50年経った今だからこそ、二人の映画青年の友情にまつわる20世紀最大の映画革命の始まりと終焉の"物語"という新たな視点の楽しみ方が可能なのである。


(4)映画というのはその時代を映す鏡とよく言われる。

 『市民ケーン』の演出を見て今さら驚く人は少ないだろう。1931年の『魔人ドラキュラ』を見て恐怖のあまり卒倒する人もいない(ましてや恐怖目的で『魔人ドラキュラ』を見る人すら少数だろう)。クラシック作品で今見ても傑作というのは星の数ほどあるけれど、それは当時の観客が同じ作品を見て傑作と言った感想とは違う感想で傑作なのだろう。

 『コクリコ坂から』で登場人物が叫ぶ浅はかな懐古趣味に対しての不満を書いた時にも記したけど、古いモノの素晴らしさは古いからではなく、その価値を時代によって変化させ、価値の多様性を産むからではないだろうか。


 以上、『ふたりのヌーヴェルヴァーグ ゴダールとトリュフォー』は、『勝手にしやがれ』『大人はわかってくれない』などの公開当時のテーマや思想などの持つ社会的意義は剥ぎ取り、作品のもつキャラクター性やキャッチーな映像、愛おしいストーリー、ゴダールとトリュフォーとジャン・ピエール・レオーのキャラクター性などを抽出し、ヌーヴェル・ヴァーグの時代ではない、50年後の未来に住む我々ならではの楽しみ方を描いた作品だと思う。


(5)不満点はフィクションの現代パート(ゴダールとトリュフォーのことを調べている男女)がしばしば挿入されるけど、それがあまり意味を成していなかったこと。「現代からの視点」というテーマを彼らのドラマで暗示して欲しかったです。
 あとそんな「斬新」ではないことも不満。もはやテーマや思想的に「斬新」ではなくなったヌーヴェル・ヴァーグを違う視点で「斬新」にして欲しかったです。


 ヌーヴェルヴァーグ作品の入門としても悪くはない気がします。色んなオシャレな映像が見られるし、これ見たことない人が見たら見たくなっちゃうんじゃないでしょうか?

 広瀬アリスレベル。

 次回は監督が新しい『GODZZILA』の監督に選ばれたことでも話題です『モンスターズ/地球外生命体』の感想です。
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テーマ:映画館で観た映画 - ジャンル:映画

  1. 2011/08/20(土) 00:48:06|
  2. 映画ハ行
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『ハリー・ポッターと死の秘宝 PART2』は控えめ超大作の控えめ大団円だよ。

ハリポタ7-2

 今回はシリーズ最終作『ハリー・ポッターと死の秘宝 PART2』の感想です。『PART1』も感想はこちら

 観に行った映画館は新宿ミラノ1。すいません時間の都合で2Dで見てしまいました。ただシリーズ1作目をここで見たから、最終作もここで見たかったのです。この巨大なスクリーンは幸せです。早朝の回に行ったのでお客さんはほとんどいませんでした。オジサンオバサンばかりでした。TOHOシネマズ新宿なるものがコマ劇跡に出来るそうですが、これで歌舞伎町も少しは盛り返すかな。いまゴーストタウンみたいになっちゃってますよね。


概要:2011年のアメリカ映画。J.K.ローリングのベストセラーファンタジーを映画化した大人気シリーズ第8弾(7作目の後編)。監督はシリーズ5作目から監督を務めるデヴィッド・イェーツ。脚本はシリーズのほぼすべてを書いたスティーヴン・クローヴス。音楽はアレクサンドル・デプラ。
 ハリー・ポッター(ダニエル・ラドクリフ)たちとヴォルデモート卿(レイフ・ファインズ)の間で繰り広げられる最後の戦い。この壮大なクライマックスで魔法界における善と悪の戦いは、本格的な交戦へとエスカレートする。この戦いは今までで最も危険なものであり、もはや誰一人としてその身が安全な者はなかった。しかも、ヴォルデモート卿との最終決戦で最後の犠牲を払うことになるのはハリー。そしてすべての謎が明らかになり、物語はフィナーレを迎える。
"goo映画"より抜粋)


 まず最大の評価ポイントは、10年間ほぼ同じキャストが出演し続けて、8つの映画にそのキャラクターとしても肉体的にも「成長」してきた証が記録されていること。しかもそんなシリーズの総決算なわけだから、特にハリーたちと共に成長してきた今20歳くらいのファンはいくら拍手を送っても足りないくらいの感動が得られるんじゃないかと。そういった長期シリーズものとしてはほぼ最高の理想の形で完結を迎えることができたという点だけで評価に値すると思います。
 というわけで、予習としてシリーズ通して一気に前の7作品を見て、気合い入れまくったコンディションで全8作を一本の作品として見たら、このような起承転結の結だけ見させられているような作品も連続性を持って見ることができて、多分すごいカタルシスを得られると思うんです。
 前作のこと知らなければ100%楽しめないっていう前提がある映画ってまぁそれだけで手落ちな気がしますが、今日日そんなことも言ってられないし、これも一つの映画の形かなとは思います。


 で、そのような評価ポイントを踏まえての今回の感想です。前作『ハリー・ポッターと死の秘宝 PART1』が特にそうだったとは思うのですが、それぞれを一本の映画と見るとどうもタンパク、つまらなくはないんだけど、この手の大仰なハリウッド映画にしてはなんともアッサリしてるなっていう。シリーズ1作目『賢者の石』や2作目『秘密の部屋』あたりはまだハリウッドらしいワクワクが溢れていたんだけれど、それ以降どんどん良くも悪くもアッサリしてきているなと。
 ハリウッドらしく大げさに盛り上げたり過剰な感動や興奮を与えるわけではなく、淡々と物語を消化していく感じ。その冷静な語り口に、大味なアメリカンスタイルに慣れてしまった僕などは、なんとも言えない消化不良を感じていたものです。

 で、今回の感想および『ハリー・ポッター』シリーズの総括としては、「控えめ」な作品だということ。本作が「控えめ」に物語を描いてきたことに、何らかの意味を感じとれる総決算作品になっておりました。


(1)本作は「総決算」ならではの楽しさにあふれている。
 特に前作を壮大な前フリにだけ使用したため、そこで溜まったガスが一気に放出された感じ。
 例えば"あの因縁のキャラクター"との相互理解が得られたり、あのコンプレックスだらけのダメキャラクターがついに努力の甲斐あって逆転ホームラン打ってハリーたちを大勝利に導いたり、10年間引っ張りに引っ張りまくった謎がついに解決されたり、あのキャラクターとあのキャラクターがついに結ばれたり――まあ割と「今後そうなるんだろうな」とわかりきった展開ではあったのですが、それ故にすごくスカッとする。「待ってました!」と。何しろこちとら十年間積もり積もったフラストレーションがある。
 それもこれも先述の通り、本シリーズ(の特にシリーズ後半)の演出が総じて「控えめ」であるゆえに、ガスが溜まりやすい構造になっていたからなのではないかと。
 それにしてもガスが放出されきれていないむずがゆさがあるのだが、そのことに関しては後述。


(2)本作はまたシリーズで一番残酷な物語でもある。
 本作は死人の数も圧倒的に多く、絶対死にそうにないコメディ担当のあのキャラクターまであっさり死んでしまったり、ハリーの行動によって事件と直接関係のないゴブリンが無惨に焼死したりする。
 あの楽しかったホグワーツ魔法学校は要塞と化し、『ロビン・フッド』の冒頭シーンくらい壮絶な戦闘シーンのあと半壊。『賢者の石』の頃のハリーたちを彷彿とさせるまだ幼い生徒までが学徒出陣しその幼き命を散らしたりする(*)
 シリーズ1作目の頃はまだ10歳だったハリーももはや青年――いや"成年"と言った方が適切だろうか、シリーズが進み大人になれば汚いものもたくさん見るし、汚い行動をとらざるをえない状況もたくさんある。
 シリーズ最終作の本作は、シリーズの中でハリーたちがもっとも歳をとっている作品でもあり、それ故に最も下劣で残酷な現実を描かないわけにはいかないのだ。

(*)集大成らしくところどころ『賢者の石』の回想シーンが入ったりするんですが、あの頃と本作とでは『オバケのQ太郎』『劇画・オバQ』くらいの違いがありますよ。あとハリーのギャランドゥとかロイのお腹とかやたら色っぽくなっているハーマイオニーちゃんとか、ショッキング!


(3)以上のように『ハリー・ポッター』シリーズにおける本作の特徴は総決算っぷりいつになくショッキングな展開にある。そしてその描写はやたらと控え目なのである。

 控えめな例はまだまだある。
 例えば"あの愉快ないたずらっ子キャラクターの死"など最重要なはずなのに、その死のシーンを描かなかったり(これは前作でもマッド・アイ・ムーディの死の描写がないという点でありましたね)、また"あの憎いライバルキャラクター”をああいったかたちで救ったのであればピンチの時に助けにきてくれるのが定石なはずなのになんかしょんぼりしちゃっているだけだし(これは前作の最後に彼がハリーを見逃したことが布石となっているのでハリーはむしろ恩を返す形で彼の命を救ったとも言えるので、シリーズを通してみればそんなに違和感はありませんが)、あと最後までわかりあえないどころか今回は登場すらしなかったハリーの育ての親のダーズリー一家の扱い(まあ前作もワンショットだけでしたが)…このクールさ、悪く言えば痒いところに手が届かない感じ。

 「控えめ」と言えば、(2)で書いた残酷な死に対しても、ハリーたちはその場ではそのことに悲観的にならない。彼らは18歳の身に与えられた現実の問題が大きすぎるため悲観的になんてなっている暇などはないのではないだろうか。悲観するのは全てが終わってからのことなのだ。

 ハリー視点で進む本シリーズ、シリーズ1作目『ハリー・ポッターと賢者の石』の頃は幼少時の視点で描かれていたので何もかもがおとぎ話の国のようで楽しかった。ヴォルデモートとの対決ですら夢とワクワクの冒険にあふれていた。しかし本作はもはや"成年時の視点"となっており、魔法が使えることの危険性・罪という現実的な問題にハリーたちは否応なく向き合わされている。大団円なのにあのエンディングのあっさりとした味気なさ、『スター・ウォーズ』なら――いや『賢者の石』ならファンファーレの一つや二つかまして大騒ぎするところなのに、彼らの視点はそうではない。そこに到達するまでに失った様々なもの、今後復興するにあたり失っていくであろう様々なものを見据えている。

 このように、本作はシリーズ最大のガス抜きと、今までにないほどシビアで残酷な物語が展開されるが、それは「成年の視点」で展開されるため、シリーズ初期のようなハリウッド超大作らしいワクワクした明るさは描かれないのだと考える。あくまで少年ハリー・ポッターの成長譚である本シリーズは次第に「控えめ」に描いていく必要があったのだ。


(4)最後に『ハリー・ポッター』がシリーズを通して描いてきたものを「控えめ」というキーワードを通して考えてみたい。

 本作は繰り返し「望めば与えられる」というセリフが登場する。そして物語はガツガツ奪いにいくよりも元から持っている才能だったり普通にしていたら向こうから自然にやってくる力が強いみたいな、そういう展開が起こる。

 それってでも最初から努力もしないでチヤホヤされて天才的な能力を発揮していたハリー・ポッターの「持って生まれたやつにはかなわないよ」という本作を通して語られているネガティブな要素(シリーズを通して毎度ロンやネビルはこれに嫉妬していた)の肯定ともとれなくはなくてそんな好きではなかったのだけれど(なんとハリーはそもそもヴォルデモートを倒せる爆弾を持って産まれていたことが終盤明かされる)、そこでダンブルドア校長(マイケル・ガンボン)は「言葉は最高の魔法」という。一生懸命魔法を身につけるのもいいが、たった一言で相手を喜ばせたり傷つけたりできるという「言葉」を操る人は既に最高の魔法を習得していると。それはとにかく「控えめ」で地味な魔法だが。

 そして劣等生ネビル(マシュー・ルイス)は持って産まれたその勇気で、同じく劣等生のロン(ルパート・グリント)はその明るさで世界を救う。それは先述の通り「控え目」な活躍なのだが、実に観客が勇気を与えられる活躍でもあった。

 『ハリー・ポッター』は、天才至上主義的だとか、選民主義的だとか、そういう思想に常に対抗してきていた。ハリー自体は常に天才で選ばれ者なのだが、マグルの世界ではのび太のような弱くて勉強もできない劣等生だった。そして劣等生の気持ちがイタいほどわかる彼は、魔法学校での劣等生や差別をうけているマグルたちと手を組んで、残酷な差別主義やいじめと戦ってきた。そして本作では「臨めば与えられる」「言葉こそ最高の魔法」と言うことで、選ばれし者や天才がいないわけではなく、皆が選ばれし天才なのだという。
 10年間描き続けた史上最長のファンタジー映画の着地点として「みんな素晴らしい魔法使い」だという日常性に回帰して終わる「控え目」な感じがこの作品の美点であるのかなと、そう感じた。

 以上、『ハリポタ』シリーズ最終章の本作は、成年ハリーのシビアな視点を加味することで、実に「控え目」な演出が目立ったが、その良くも悪くも「控え目」な感じが、実は『ハリポタ』シリーズが最終的に語った「皆が控え目に天才で、控え目に選ばれしものなのだ」というメッセージを描き、「控え目」な大団円をもたらしたのかもと、そう考えた。


(5)不満点としては、上記したものの他に、前作に引き続きガッシリ続いているのに「これまでのあらすじ」が無かった点。

 あとヴォルデモートがあまりにも悪の親玉に必須のカリスマ性に欠けていたこと。宇多丸さんも言っていたけれど、自分の命を預けた超大切な分霊箱である大蛇を戦場に駆り出すどころか大した戦闘力もないくせに単独行動で戦わせるとかいくらなんでもうっかりさんすぎる。


 そんなわけで超大作的カタルシスを求めると肩すかしをくらいますが、シリーズを通してみたら総決算としてはふさわしいなかなかの内容だったのではと思います。
 前作の感想で期待していたどんよりもやもやした空気を晴らしてくれるほどはなかったけれども、どこか爽やかな風がふっと吹いてくれるような「控え目」な終わり方でした。

 真野恵里菜レベル

 今回も長くなってしまいましたね。そしてようやく7月に観た映画の感想を書くのも終わり、次回からは8月分です。次回は青春ものドキュメンタリーです『ふたりのヌーヴェルヴァーグ ゴダールとトリュフォー』の感想。

テーマ:映画館で観た映画 - ジャンル:映画

  1. 2011/08/19(金) 00:57:41|
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『蜂蜜』は"ハチとユフスの神隠し"だよ。

bal

 今回はセミフ・カプランオール"ユフス三部作"の三作目『蜂蜜』の感想です。というとなんだかよくわかりませんが、実を言うと僕も他の2作品は見ておりませんのでチンプンカンプンです。

 観に行った映画館は銀座テアトルシネマ。水曜日1000円の日でそこそこ混んでいました。日中はご老体だらけですが、夜の回はサラリーマンやOLが多めです。


概要:2010年のトルコ映画。監督・脚本は『卵』『ミルク』のセミフ・カプランオール。本作でベルリン国際映画祭・金熊賞を受賞。
 6歳のユスフ(ボラ・アルタシュ)は、手つかずの森林に囲まれた山岳で両親と共に暮らしている。幼いユスフにとって、森は神秘に満ちたおとぎの国で、養蜂家の父(エルダル・ベシクチオール)と森で過ごす時間が大好きだった。ある朝、ユスフは夢をみる。大好きな父にだけこっそりと夢をささやき、夢を分かち合う。ある日、森の蜂たちが忽然と姿を消し、父は蜂を探しに森深くに入っていく。その日を境にユスフの口から言葉が失われてしまう……。数日経っても父は帰ってこない。ユスフに心配をかけまいと毅然と振る舞っていた母(トゥリン・オゼン)も、日を追うごとに哀しみに暮れていく。そんな母を、ユスフは大嫌いだったミルクを飲んで励まそうとする。そしてユスフは、1人幻想的な森の奥へ入っていく……。
"goo映画"より抜粋)


(1)"神隠し"というと、実に日本的な表現だけれど、こんな近代文明溢れた東京の町でも確かに山や森には何か神秘的で奇妙な気配がある。それはかつて山神だったり天狗だったり狸や狐だったりと呼ばれるわけだけど、そういったところはしめ縄が張られあの世とこの世の境界線とされていた。
 そのような不気味で神聖な場所に紛れ込んで帰ってこなくなった人がいたとして、それを"神隠し"と言った我々の先祖の感覚はとても的を得たものだったと思う。

 本作で印象的なシーンの一つとして、森に蜂蜜を取りにいって突然発作で倒れた父のために主人公ユフスが水を汲みにいくと河の向こう岸には逆光により神々しく堂々と立つカモシカの姿がある。ユフスはそのカモシカに見とれてしまう。
 『もののけ姫』におけるシシガミの登場シーンを彷彿とさせるが、まるで父親をカモシカが象徴する神秘的な「自然」が呑みこもうとしているかのようである。


(2)本作は『ブンミおじさんの森』同様に朗らかな闇に溢れる森のショットから始まるが、むしろ映画全体が森の様相をしていると言ってもよい。
 トルコ映画といえば赤い土と乾いた砂埃のイメージだが、本作はジメッとした森が舞台である。都会育ち都会暮らしの僕などはちょっと観光地気分でうっとりしてしまうほどの大きな針葉樹に囲まれた山小屋が主人公の住む家だ。
 またセリフもほとんどなければ、音楽など皆無の本作において、BGMは虫や鳥の声と河のせせらぎと雨や雷の音だ。
 このように本作は薄暗くジメッとした空気感が本作全体を覆いまるで映画全体が森のようなのだ


(3)本作は基本的に子供が主人公のため子供の視点で描かれる。カメラの位置も大体子供の目の高さだし、大人の難しい話や山村の外のことは子供が解る範囲でしか伝わらない。母親が悲しんでいるのはユフスがお手伝いもしないし牛乳を飲もうともしないからだし、何よりの目標はきちんと教科書を音読してかっこいいバッヂをもらうことである。
 ただし彼は吃音持ちのため、基本的に話す能力に欠けている。

 子供であるうえに言葉すら持てないユフスは現実世界に対して哀しいほど無力である。だがそれ故に現実に対して自分なりの付き合い方を持つ。


(4)ちょっと脱線してトルコ国民の99%が信望する宗教イスラームと自然の関わりを考えたい。
 同じ旧約聖書が聖典の元ネタとしてあるキリスト教と違い、イスラームにおいて自然は神の前に人と同列の存在であり、キリスト教のように神の姿をした人間がエラいということはない。更にイスラームで「自然」を表す語は「タビーア」というそうだが、その語源を辿ると「ピュシス(physis)」というギリシャ語にたどり着く。この語は、「成長」「性質」「パワー」「火・水・土・風」という万物を内包する自然の構成要素を意味するが、その「万物」には神も含まれるそうだ。
 また例えば『マイティ・ソー』のようなキリスト教伝来以前の神々が自然を象徴することが多い一方で(ソーは雷を象徴する神である)、それらの神々を排斥しようとしたキリスト教は『アンチクライスト』『赤ずきん』のごとく自然を"魔のもの"とみなしたことは、逆から読むとその自然が神性を保っている(それ故に自然を"魔のもの"として離しておきたい)ことを証明していると思う。

 以上のような万物を総括する働きを持つ「自然」だからこそユフスは父親が死んだと知らされたき、森へと走ったのだ。父親は"神隠し"にあった――自然に飲み込まれたに違いない、だから森へ行けばまた会えるはずと。それは現実に対してあまりに無力なユフスの彼なりの"付き合い方"であったのだろう。
 ユフスが森の中に入りまるで森と同化したような最後のシーンの安らかな顔には何やら母親に抱かれている赤ん坊のような温かさすら感じた。


 以上『蜂蜜』は、おそらく万国共通の"自然の持つ神秘的な雰囲気"を身近な子供視線で描き出した作品であると思う。


 セリフをほぼ信用せず、淡々とした作品で眠気を誘われるかもしれませんが、なかなか映画読解力が上がる素敵な作品だったと思います。

 井川遥レベル。

 次回はお待たせいたしました、ゴロちゃんの新作『コクリコ坂から』の感想です。

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  1. 2011/08/12(金) 03:28:46|
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『BIUTIFUL ビューティフル』はカミサマ不在の宗教映画だよ。

biutiful

 今回は、ブヒャー!"BIUTIFUL"だってバカじゃねーの!?お前の偏差値カブトムシ程度なんじゃねーの!?でおなじみ『BIUTIFUL ビューティフル』の感想です。

 観に行った映画館は信頼のブランドTOHOシネマズシャンテ。火曜会員1300円の日に加えて最近のvitで予約すると100円引きというキャンペーンの合わせ技で1200円で見ることが出来ました。わーい。
 公開してけっこう経っていたのでわりと空いていました。会社帰りのOLやサラリーマンが多め。


概要:2010年のスペイン・メキシコ映画。製作・監督・原案・脚本は『アモーレ・ペレス』『21g』『バベル』のアレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ。音楽はグスターボ・サンタオラヤ。
 スペイン、バルセロナ。この大都会の片隅で、移民や不法滞在者を相手に、時には違法なことにも手を染めて日々の糧を得ている男、ウスバル(ハビエル・バルデム)。麻薬に溺れ荒んだ生活を送る妻マランブラ(マリセル・アルバレス)と別れ、愛する2人の子どもたちを男手ひとつで懸命に育てていた。ところがある日、彼は末期ガンと診断され、余命はわずか2ヵ月と告げられる。死の恐怖にも増して、何よりも遺される子どもたちの今後が、苦しみとして重くのしかかってくるウスバルだったが…。
("allcinema online"より抜粋)


 "宗教"とはそのほとんどが本質的なテーマとして「死」をどのように扱うかということについて考えている。何が恐ろしいって人は死ぬことが何より恐ろしいからだ。

 死から逃れるために生命活動は本能的に気持ちいいものなのだろう。セックスも食事も排泄も睡眠も気持ちいいものだ。
 ところで水木しげる先生曰く「死」の瞬間も気持ちいいらしい。貧血で倒れたことがある人は分かると思うけれど、苦しみからふわっと解放されるあの感覚が死の瞬間となるとより増すわけで、気持ちよくないはずはないと推測する。
 その「快感」は生命活動の苦しみから解放されたことによる快感なのだろうか、それとも死の瞬間に自身の生命を最大級に感じることで得られる最終最後の生命活動の快感なのだろうか。


(1)まずこの作品が"海”"砂漠"を描いていることについて考えたい。
 世界は「死」に溢れている。この世は死体だらけの世界だ。地球の表面の7割を覆う海は生物の死骸のスープだ。この世界は死が普通で生はむしろ異常だといってたのは『新世紀エヴァンゲリオン』だっただろうか。
 『BIUTIFUL ビューティフル』の主人公ウスバルはそのような"海"を恐れている。死のスープが奏でる波の音は死の誘いだからだ。

 一方で本作においてこの世界で生きることは「砂漠」に例えられている。
 本作が描くスペインの町は寒々しく埃っぽく汚れきって、社会問題も環境問題も数えきれないほど渦巻いており、見ているだけで疲れてしまう息苦しさがある。
 ウスバルは死を宣告されたことで『生きる』の志村喬のごとく自分が生きた証を残そうと奮闘するが、そんな一朝一夕じゃ移民問題も格差社会も別れた妻マランブラの躁鬱病もワーキングプア問題も解決するはずがない。
 結局この物語で彼は誰一人として救うことができない。物語序盤で示された本作の葛藤に何一つ打ち勝つことはできない。黒人女性イへ(ディアリァトゥ・ダフ)にもお金や住む場所を提供したことで逆に彼女を縛り付け、主人の待つエクアドルに帰りたいという希望をなし崩しにしてしまっているし、もっと悲惨なのは彼が斡旋した中国人労働者たちの労働環境が少しでもよくなるようにと買ってきた暖房装置が起こした悲劇だ。
 ウスバルは死を前にもがき苦しむだけだ。それこそまさに"砂漠"のようである。


(2)続いて本作において"死"はどのような意味をもつのか、もう一度考えたい。
 本作は『シックス・センス』のごときホラーサスペンス要素がある。前知識無しに見たのでけっこう困惑してしまったのであるが、ウスバルは『ヒアアフター』のように死者の声が聞こえる。
 遺されたものは死者に対して劇的な思い出と別れを求めるが、死者たちが遺す言葉は大体しょうもない。『怪談新耳袋』ようなおぞましい姿になって盗んだ時計の話などをする。
 ウスバルの会ったこともない父親はかつてスペインを脱走してメキシコに向かうがようやく到着した2週後に若くして死んでしまった。父親のみすぼらしい腐った遺体を見つめるウスバルは父が生前何を遺せたか、自分が何を遺せるかを考える。父親は本物かどうか怪しいダイヤモンドの指輪を遺したくらいだった。
 そしてウスバルも父親や幽霊たちと同様に何にもできない。人並みに子供を育てることすらできない。ここにおいて彼は何も遺せず、誰にもほとんど記憶されず、みすぼらしく醜く死んでいくだけなのである。なぜならこの世の中で"死"はむしろ普通なのだから、映画のような特別でドラマチックなことなど起きやしないのだ。

 このように、本作において、一見、"死"はなんでもない無情なものなのだ。


(3)続いて、そのような無情な世界のなか、ウスバルは残されたわずかな時間をどう扱ったか、物語の結論について考えたい。
 彼は荒れ果てたバルセロナの街に一矢報うことすら出来ず、ただ死んでいくだけだだが、冒頭と結末で示されるように、ウスバルは本作に登場する他の霊と違い、素直にあの世へと旅立つ
 自分の父親が彼にしてあげられなかったこと――すなわち子供たちに父親がいたという思い出をあげること――それは何よりも、本物のダイヤモンドよりも美しいものだった。それ以上に自分が生きた証というものはない。娘との対話でそれに気がついたウスバルは、全てを包み込む"死のスープの海"へと晴れ晴れとした表情で向かうのだ。

 "なんでもない無情な死の世界"において、もしウスバルのように生きた証明、生きた記憶を遺すことができたのならば、やっぱり死は気持ちいいのかもしれない。それは生きる苦しみからの解放であると同時に、自分が生きた証を噛み締める最初で最後の瞬間だからだ。


 アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ監督は毎回キリスト教的な視点を大事にする監督であり、本作は珍しくキリスト教を表面に出してこないなと思ったけれども、「死」をどのように受け取るか、死の恐怖に真っ向から立ち向かう辺り、キリスト教的では何にせよ、宗教的ではありました。

 以上『BIUTIFUL ビューティフル』"死"という未知なるものに対してどういう態度をとるべきか、生きるとはどういうことを真っ正面から描き、死の恐怖を緩和させる宗教映画のような作品であると感じた。


 あまりデートコースには向いていませんが、力強さとパワーがある作品です。
 岡本あずさレベル

 次回は小難しい映画が続きますがセミフ・カプランオールのユフス三部作の最終章『蜂蜜』の感想です。

テーマ:映画館で観た映画 - ジャンル:映画

  1. 2011/08/11(木) 03:09:54|
  2. 映画ハ行
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『鋼の錬金術師 嘆きの丘(ミロス)の聖なる星』は賢者の石を使えばいいよ。

嘆きの丘

 こんばんは。本当に最近更新出来ずにごめんなさい。
 そんなわけであんまり頑張りすぎない程度ですが更新いたします。

 今回は人気アニメの劇場版『鋼の錬金術師 嘆きの丘(ミロス)の聖なる星』の感想です。

 観に行った映画館は新宿ピカデリー。公開から少し経っているし、夜十時からの回だったので空いているかなと思いきや、満席近かったです。レディースデイだからかな? 若い女の子が多めでした。この裏にあった俺たちのさくらやホビー館が無くなり、その跡地に巨大なアニメイトができまして、一方で"乙女ロード"近くに君臨していた池袋テアトルダイヤも無くなりまして、「その手の婦女子はワシがみんな面倒見たる!」てな具合に最近は『鋼の錬金術師』の巨大なアルフォンスの等身大模型やら『戦国BASARA』のパネルやらが展示されていますが、果たして『Dear Girl~Stories~ THE MOVIE』を上映するような劇場になるのかな?
 ちなみに11.5巻はちゃんともらえました。


概要:2011年の日本映画、2010年に完結した荒川弘の同名コミックスを、監督に『コードギアス 反逆のルルーシュ』の村田和也、脚本に『アンダルシア 女神の報復』シリーズの原作や映画『ドラえもん』シリーズの脚本の真保裕一を迎えて映画化。アニメーション制作はボンズ。音楽は岩代太郎。
 国家錬金術師の少年、エドワード・エルリック(声:朴路美)とその弟、アルフォンス(声:釘宮理恵)は、アメストリスの中央刑務所を脱獄した男、メルビン・ボイジャー(声:森川智之)を追って、かつての聖地テーブルシティに辿り着く。エドたちは、メルビンが操る未知の錬成陣に自分たちの身体を取り戻すヒントがあるのでは、と考えていた。だがふたりは、かつて“ミロス”と呼ばれたこの地でレジスタンス活動に身を投じる少女、ジュリア(声:坂本真綾)と出会い、図らずも巨大な陰謀へと巻き込まれていくのだった。
("allcinema online"より抜粋)


 『鋼の錬金術師』はとりあえず二種類のアニメシリーズをなんとなくではありますが見ています。好きになったのはこの映画を見に行こうと相方に言われ、予習で原作漫画を読んでから。というわけでかなり最近の話です。

(1)まず原作の話をしたいのですが、この物語の魅力は「関係」「連続」にあると思う。
 少年漫画らしく敵と味方がしっかりと別れていて、もちろん味方同士ではしっかりと協力し、敵味方に別れれば血を血で洗うような殺し合いをする。こういった"コミュニケーションの代替としての異能者同士の戦い"という構図は『少年ジャンプ』に掃いて捨てるほど連載されているけれど(というか物語の一つの雛型だけれども)、この味方同士の協力とディスコミュニケーションによるバトルを"第一層の「関係」"だとすると、更に"第二層の「関係」"として利害関係の一致による協力体勢や、相容れない敵ではあるが気が合うといったことによる共感、また味方同士でも気が合わないという理由で最後までいがみ合っていたりする点など、味方同士はもちろん敵味方同士での、それぞれの目的を抜きにしたところでのつながりというものがある。
 で"第三層"として、そのようにして培ってきた「関係」によって見られるそれぞれのキャラクターの成長や心境の変化の積み重ねが、物語に比類なくエネルギッシュな推進力を与えていく。これが「連続」の魅力、言い換えればそれぞれの「関係」を積み重ねるごとに目的に対する意識が次第に加速していくのだ。

 この漫画のテーマは「等価交換」"1からは1しか生み出せない、何かを得るには必ず同等の代償が必要である"という意味のこのキーワードによって、その緻密な世界観や思わず夢中になるアクション、倫理、経済、哲学まで語ってしまうところにゾクゾクと魅力を感じるのだが、その「等価交換」のルールに原作の魅力を照らし合わせるならば、そのようにして紡いでいった人と人との繋がりによる錬成陣が、目には見えない強くエネルギッシュな力を生み出しているのがこの作品の魅力だと、僕は捉えている。

 このような相当緻密な計算と豊かな感受性・想像力で作られたのが『鋼の錬金術師』という漫画で、本作はその劇場アニメ作品。
 このような漫画を映画化するのってけっこう難しかったと思うんです。

 てなわけで今回は大人気アニメの映画化について考えたいと思います。


(2)まず本作のスタイルについて。
 原作『鋼の錬金術師』はかなり完成度が高い漫画で、『劇場版 機動戦士ガンダム00 -A wakening of the Trailblazer-』『劇場版 マクロスF 恋離飛翼~サヨナラノツバサ~』のようにヘタに補完したり後日譚を描いたりすると蛇足になりかねないし、かといって『ドラゴンボール』のアニメ映画みたいに原作のストーリーとはまるで違う番外編時系列でやると、原作の持つ「連続」の面白さを損なうし、それ故に感情移入もかなりしづらくなるしで、そういった従来の人気テレビアニメの映画化の手法ではうまく太刀打ち出来ない。

 で、本作の製作陣は『ハガレン』『ルパン三世 カリオストロの城』を目指したそうです。
 ただ『ルパン三世 カリオストロの城』は一話完結というスタイルがそもそもテレビシリーズであってこその面白さであり『ハガレン』のような作品には向いていないと思う(*)。

(*)『カリオストロの城』は、『クレヨンしんちゃん』『ドラえもん』の劇場版同様に、『ルパン三世』というTVアニメシリーズの一話完結の繰り返しの面白さがあってこそ存在し得る作品だと推測する。『ルパン三世』がそれまで培ってきた"一話完結の幾度とない繰り返し"をギュッと120分弱に凝縮し、そこにスパイスとして、決して成長しないはずの一話完結キャラクターが少しだけ成長を迎えるという映画だけのルール違反(ルパンが過去と決別する、恋をする、しんのすけが泣くとか)があるのが面白いわけで、『ハガレン』の「連続」の面白さに対して、そもそも「断絶」していたものが「連続」することの面白さというべきか、映画版ならではのスペシャル感とかそういう魅力がある。


 まあそんなこんなで本作は、原作でいうところの単行本11巻あたりに無理矢理エピソードを食い込ませ、「連続」の面白さをなんとか保つ「正史」という形をとりながら、一方で『ルパン三世 カリオストロの城』的な一話完結で、その長い原作の面白さを1時間半にギュッと凝縮するという、欲張りな――というとその意気や良しなんですが――中途半端なスタイルに落ち着いたっぽいです。
 このスタイルは同じく「連続」が魅力の一つにある漫画『ONE PIECE』が、単行本零巻なるものを配りまくって大ヒットした『ONE PIECE STRONG WORLD』でやっていまいち上手くはいかなかったと思うのですが――おそらく作り手としてはーー、

(a)一話完結で『ハガレン』の面白さを凝縮したような物語、
それに加えて、かつ
(b)『ハガレン』の原作のディテールアップにつながる補足譚。

 ――を目指したのではと推測できる。


(3)ではこの『鋼の錬金術師 嘆きの丘(ミロス)の聖なる星』はそのような目的のうえ、上記のスタイルを選択した結果どう落ち着いたか。
 残念ながらいろいろと裏目に出てしまった気がする。

 例えばすでに完成している物語に無理矢理エピソードをねじ込むことで、主人公エルリック兄弟は、少なくとも本作のような大事件において、何も成長しないキャラクターになってしまっている(ここで成長させたら原作の物語に矛盾が生じてしまう)。
 また『ハガレン』の面白さを一話完結の一本の映画に凝縮させるということで、人気キャラクターのロイ・マスタング(声:三木眞一郎)やヒロインのウィンリィ(声:高本めぐみ)も登場させる必要があったのは分かるが、ただでさえ敵味方様々な思惑が入り乱れる物語(それこそ『ハガレン』の面白いところで、そういった勢力図が絡み合うという醍醐味も本作は映画内に凝縮しているのだけど)の中でまるで活躍できていなく、ただファンサービスのための登場になってしまっている。一方で本作が正史に組み込まれる物語になるとしたのなら、大惨事に無意味にぼんやり突っ立っているマスタングなどは、原作で描かれたそのキャラクター性をおかしな方向に持っていったことになってしまう。
 そもそも複雑な人間どうしの関係性の面白さを一時間半の映画に凝縮するなんてこと簡単にできるわけもなく、なんやら複雑でスピーディーな構造に困惑してしまいました。

 あと『ハガレン』と言えば"兄弟の絆"の物語であるけれど、エルリック兄弟の合わせ鏡として登場する互いを思うが故に対立してしまうメルビンとジュリアの兄妹は、もうちょいエルリック兄弟との対立構造を浮き彫りにして欲しかったかなと(※)

(※)彼ら兄妹に関しては、今回の論旨からは外れるのだが、やはり不満があり、まず"ずっと戦ってきた敵が終盤実は影武者ということが発覚し、実は裏に本物がもっとひどい悪巧みをしていたのだ…!"っていう展開、どうなの?悪役って主人公と同じくらい重要なキャラクターのはずなのに、それがどこぞの馬の骨が演じていた偽物で――ってなんか拍子抜けしてしまう。


(4)無論うまくいっている点もたくさんあって、例えば舞台となっている小国の箱庭的空間には様々な人種、錬金術やオートメイルを始めとする独特のテクノロジー、狼と人間の合成獣などまで登場し、『ハガレン』緻密で想像力豊かな世界観をうまく凝縮していると思うし、この深い溝の中にある国というロケーションが錬金術によるアクションシーンを立体的かつ見応えのあるものにしている。
 アクションシーンと言えばスチームパンクらしい蒸気機関車の上の戦闘も楽しかったです。


(5)以上、『ハガレン』を映画化するのならば、正史との連続性を持つ形で『ハガレン』という物語の要素を凝縮した一話完結にするというスタイルは一つの手段ではあるのだろうけれど、原作が10年くらい、単行本にして29冊分かけて築いた「連続」の物語を90分強でなんとかしようというのは――「等価交換」ではないんだろうなと。

 まあなんにせよ、エドやアル、マスタング大佐やアームストロング少佐、ウィンリィにまた会えたのは嬉しいです。広大で緻密な世界観、まだ描ける余地(『エピソード0』モノやエルリック兄弟とはあまり関係のない場所での物語など)がある作品だとは思うので、たまにはこういう形で新作を作り続けていただきたいと思います。

 田中みな美アナレベル。

 次回は話題作です。今更なんですが。ストリートアーティストのバンクシーの監督作品『EXIT THROUGH THE GIFT SHOP』の感想です。

テーマ:映画館で観た映画 - ジャンル:映画

  1. 2011/08/08(月) 14:08:39|
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