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「少年ジャンプ」と水木しげると映画とおもちゃと特撮を愛します。

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『デビル』を観てアーメンと唱えようよ。

デビル

 今回は、戻ってきてよシャマラン!『デビル』の感想です。

 観に行った映画館はTOHOシネマズ日劇。すげー久々に来たのですが、でかいですね。こんな巨大なスクリーンでB級ホラーを見る幸せ。そんなわけで空いていたわけではなかったのですが、なにしろ劇場が大きすぎて、空いている風に感じました。会社帰りのサラリーマンが多かったです。


概要:2011年のアメリカ映画。『シックス・センス』『サイン』『エアベンダー』のM・ナイト・シャマラン監督が、これまでに考えついた数々のアイデアを、スタッフ・キャストに期待の新鋭を起用して映画化していくプロジェクト“ザ・ナイト・クロニクル”の第1弾。監督は『REC:レック/ザ・クアランティン』のジョン・エリック・ドゥードル、脚本は『30デイズナイト』『ハード・キャンディ』のブライアン・ネルソン。
 高層オフィスビルから一人の男性が墜落死したちょうどその時、互いに見ず知らずの5人の男女が乗り合わせていたエレベーターが突然の故障で停止する。閉じ込められた5人が救助を待つ中、一時的に照明が消え、何も見えなくなった瞬間に若い女が背中を切られ負傷する。4人の内の誰かが犯人なのは明らかだった。その様子をビルの警備室で監視カメラ越しに目撃していた警備員は、整備担当を修理に向かわせるとともに警察に応援を要請するのだが…。
("allcinema online"より抜粋)


(1)突然だけれど、妖怪は実在する。妖怪とは時代や気候、運や気分など不確定な現象をなんとか理知的に捉えようとするべく、それらの現象に"キャラクター性"を与えた存在だ。『DOCUMENTARY of AKB48 to be continued 10年後、少女たちは今の自分に何を思うのだろう?』の時も書いたけれど、アイドルがその時代の持つ雰囲気や欲望や期待を象徴・キャラクター化した存在であるのに近いと思う(とりわけAKB48は妖怪と類似点が多い気がするが、その論考はまた別の機会に)。
 だから妖怪は人が不可解な現象に立ち会ったとき、それを具現化・記号化し理解したい欲求から現れ、実際目に見えることすらある。


(2)ところで恐ろしいことに悪魔も実在するそうだ
 しかしながら本作の終盤や『パラノーマル・アクティビティ 第2章/TOKYO NIGHT』『エクソシズム』に登場する悪魔は、『仮面ライダー』の怪人のような化け物然とした姿がない。そこら辺にいそうな人間の姿を借りたり乗っ取ったりして現れる。本作でも何度か「悪魔は人間の姿で現れる」という解説が入る。

 悪魔とは多分人間誰しもが抱えている様々な「悪意」を象徴・キャラクター化した存在であり、その悪意が露わに発現してしまった人を悪魔と呼ぶのであろう。『悪魔を見た』『ビー・デビル』なんてまさにその事を描いていた。


(3)本作の冒頭は上空撮影したニューヨークの街並みから始まるが、天地がひっくり返っている。空が下に、地面が上にある。この世の全てが真っ逆様に落ちてきてしまいそうな絵だ。
 そのショットが象徴するように本作はものが落下してくるというアクションがやたらと多い。人が落ちてくるシーンが二回。エレベーターやガラスもガンガン落ちてくる。
 ダンテの『神曲』によると地獄は真っ逆様なんだとか。つまりこの逆さまの構図は"この世は悪魔が住み着く地獄なんだ"ということを表しているのかもしれない。

 そして物語はエレベーターに閉じ込められた5人の男女が中心に動く。彼らは少しクセがあるかもしれないが一見善良な市民である。しかしながら物語が進んでいくうちに彼らのかつての悪事が次々と分かってくる。暴行、恐喝、詐欺、盗み――そして彼らはそれぞれがそれぞれを疑いだし悪魔のような本性をむき出しにして醜く争いあう。
 しかしながら、その悪魔性は彼らに限ったことなのだろうか。登場人物たちは最初それぞれが助け合おうと善意の行動をとるが、それが裏目に出て悪意を導き出したりしてしまう。例えばある男は場を和ませようと冗談を言うがそれが周囲を苛立たせる結果となる。このように多分彼らはそもそも観客が最初に彼らを見た時に感じた通りの善良な市民なのだろう。ただしちょっと魔がさした時に悪さを働いてしまった、そんな誰しもが持っている悪意を彼らも持っているだけだ。
 エレベーターの中で何時間も閉じ込められれば誰だって正気じゃいられなくなる。その時人の悪意は暴走する。その理不尽さを理解すべく暴走する悪意にキャラクター(具体的な形)を与えてしまった時、悪魔は我々の前に現れるのではないだろうか。


(4)ところで、同様にカミサマも実在するらしい。「魔がさす」って言葉があるのに、ふいに善行を施したくなる時に使用する「神がさす」って言葉がないのは不思議)
 主人公のボーデン刑事(クリス・メッシーナ)は彼の妻子をひき殺した男を目の前にいながら許した。同様にエレベーターの中で悪魔と対面した"ある人物"はそれまで自分を殺そうとしてきたある人物を許したことにより悪魔に引っ張られなかった。
 多分そういう"ふいの善行"を形にしたとき、それが"カミサマ"(まぁ妖精でも天使でもなんでもいいのだが)なのかもしれない。
 「もし悪魔が実在するとしても心配はない。悪魔がいるならカミサマだっているはずだから」という、ステキなセリフによって本作は締めくくられる。


 以上、『デビル』は、誰しもの中に存在する悪魔(とカミサマ)の実在性を描いた作品だと感じた。


 不満点は何故エレベーターなのか。なぜ悪魔は地獄に引きずり込みたいのか、悪魔が地獄に引きずり込むためのルールなどがまったく説明なされていない点。まぁ悪魔のやることだし…みたいな感じで目をつむることもできるのですが。
 あとシャマランなのにズッコケがないことと本人が出ていないことです。プロデューサー稼業気に入っちゃったらしいけれど、僕は待ってます『エアベンダー2』…待ってます。

 みひろレベル

 次回は我らのエレン・ペイジちゃんが大変なことに!『スーパー!』の感想です。
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  1. 2011/08/21(日) 13:35:01|
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『東京公園』であの娘の良さを再認識したよ。

東京公園

 頑張って更新するよ。今回は『東京公園』という映画の感想です。青山真治監督ですが、珍しく人気若手俳優がたくさん出ています。

 観に行った映画館は新宿バルト9。上映終了間近だったのと、シネマチネの時間だったのもあり満席でした。客層は若い人がほとんど。
 
 
概要:2011年の日本映画。小路幸也の同名小説を原作に、『EUREKA ユリイカ』『サッドヴァケイション』などの青山真治が監督・脚本・音楽を手がけて映画化。
 幼い頃に亡くなった母親の影響でカメラマンを目指し、公園で家族写真を撮り続けている大学生の光司(三浦春馬)。ある日、見知らぬ男性(高橋洋)から“いつも女の子を連れて公園を散歩している美しい母親(井川遥)を尾行して写真を撮ってほしい”という依頼を受ける。不審に思いながらも、メールで指示された公園に出向き、女性の隠し撮りを続ける光司。そんな光司には、親の再婚で姉弟となった血のつながらない姉、美咲(小西真奈美)がいた。ある日、この奇妙な依頼のことを話すと、突然不機嫌になってしまった。一方、親友ヒロ(染谷将太)の元カノで光司とは幼なじみでもある富永(榮倉奈々)は、そんな美咲の態度を嫉妬に違いないと指摘するのだが…。
"allcinema online"より抜粋)


(1)ある種のそれも多くの映画は"現実"を描いている『SUPER 8/スーパー・エイト』の感想でも書いたように、映画というのは現実逃避だったり、現実を見る視線に刺激を与える働きが強く、それ目当てで映画を見る人が多い中、なぜ現実を描くのか。

 例えば 鏡は"現実"を映す。鏡にうつった自分(被写体)は客観性を持つ。それを見て新しくできた白髪を発見したり目の下にある隈が気になったりして普段いつも一緒にいるはずの自分に対する情報を更新する。
 多分現実を映す類の映画もそうだ。なんら刺激のない現実を淡々と撮すことで、普段見慣れている現実を観客に客観視させ改めて現実の美しさだったり、恐ろしさだったりといったものを見せる。『奇跡』なんかは特にそういった映画だったと思う。

 わかりづらいという方にもっと下世話な例を出すと、自分でモワモワ妄想するエロいことより、他人の口から聞かされるエロ話の方が客観的なぶん現実味があってよりエロく感じるのに近い。

 『東京公園』はこの"一度突き放してそのものの価値を再認識する"という映画や写真の持つ力を描いた作品だと思う。


(2)本作の登場人物たちはまるで自分の近場や自分自身が見えていない。
 例えば三浦春馬演じる光司は義姉・美咲の愛に気がつかないどころか、自分が義姉を愛していることすら気がついていない。
 また井川遥演じる百合香を追いかけているとやたら彼女のことが気になり出したが、それは部屋に彼女そっくりの母親のポスターがでかでかと貼ってあるからだったりするのだが、それもよく気がついていない。
 高橋洋演じる初島は妻(井川遥)の美しさや変わらぬ愛情に気がついていないし、榮倉奈々演じる富永は近くにいる死んだ恋人の幽霊(染谷将太)が見えないし(光司には何故か見える)彼が何故見えないのかもわからない。

 本作には「カメラ」が重要な要素として登場するが、写真というのは一つの物事や現象をフレーム内に閉じ込めてしまうことで、普段何気なく見ていたものに対し一歩距離を持たせ、客観性を与えることで被写体の持つ要素を再認識させることが出来る装置だ。確かにカメラは自分自身を写せないが、写したものから自分自身の内情を見つめとることは不可能ではない。
 初島は光司が撮しとった百合香の写真によって彼女の愛を再認識したし、光司は義姉・美咲を撮影することで姉に対する自分の気持ちを再認識した。美咲もカメラという壁の向こう側で自分を見つめる義弟に対しこらえていた愛情が抑えきれなくなる。それぞれが客観性を与えられて自身に気がつく。

 富永の場合も複雑だが、この例に当てはまる。冷静な分析力を持つ彼女だったが、恋人を失った悲しみから自分を見つめなくなっていた。孤独に生き、天真爛漫にふるまいながら、黙々とホラー映画を漁るように見て死についての意識をごまかしていた。その姿は愛らしい反面どこか無理して空回りしているようである。
 彼女がようやく素直になれたのはかつて恋人が生きていた時代の写真を見てから。自分がそこまで彼を愛しきれていなかったことを認め、ようやく素直に涙がこぼれ落ちた。「寂しい」という感情を吐露することが出来たのだ。

 このように、本作の登場人物たちはまるで自分や自分の周囲が見えていないが、「写真」という客観性を与えるアイテムを媒介することで、それが見えるようになり、そのものの価値を再認識する


(3)ところで本作はそのタイトルが示すように「東京」という町についての映画でもある。
 東京生まれ東京育ちの僕には東京がそんなにいい町には思えない。パリやロンドンやニューヨークの方がオシャレでいいじゃんなんて思ってしまう。
 しかし本作は東京という町の美しさを描く。
 まずそのカラッとした大人っぽい都会センスのカメラワークやライティングで切り取られ客観性を与えられた東京はキレイでオシャレな町に見える。
 また途中で酔っ払た中年男性(島田雅彦)が語る「もし宇宙人に東京を案内するなら、俺は公園を中心に作られている町というね」というセリフ。東京都の緑地面積は全体のおよそ27パーセントらしい。もちろん決して多い数字ではないが、少なくもない。公園を中心に築かれた都市なんて考えたら東京はとても魅力的で文化的な街に思えてこないだろうか?
 そういう視点でもう一度"公園都市"東京を見る時、普段気がつかなかったこの町の美しさを再認識することが出来るのだ。


(4)本作の描くこの構造は本作特有のものではないということを、まとめに加えて解説したい。
 以上語ってきたように、本作は他者や自己の美しさや心情、東京という町のかたち、これら当たり前すぎて普段認識すら怠っているものに「客観性を与えてそのものの価値を見直す」が、その働きは実は本作に限ったことではなく映画の持つ本質的な要素なのではないだろうか。
 『カラフル』が日常的な生活表現を敢えてアニメーションで描くことでその価値を高めていたり、『奇跡』『何も変えてはならない』『シルビアのいる街で』が"何気ない日常"のかけがえのない美しさを描いたように、そこら辺に無数にある現実をフレーム単位で切り取り、それを観客にお金を払わせて見せるという「映画」という行為にはそういう意味があるという映画の特性を本作を見て"再認識"させられた。


(5)不満点は登場人物たちがみんな美男美女の金持ちばかりで、"何気ない日常を美しく切り取る"というテーマのくせに、そもそもの時点でみんな美しいじゃねえか、何気なくないじゃんというツッコミ。
 同様に東京のキレイな場所しか撮していないで荒んだ東京を描いていない点。そういう場所を美しく描くことでこの作品のテーマが際だつのに。

 あと、榮倉奈々がとにかくカワイイです。劇場で「カワイイッ!」て叫びたくなるくらいカワイイ。『三つ目がとおる』の和登さんくらいカワイイ。正直、可愛いとは知っていましたがここまでとは思っていなかったんですよ。去年のアイドルランキングだと『アウトレイジ』レベルで46位ですから。しかし本作の彼女の可愛さを"再認識"いたしました。ゾンビ映画好きって設定はもはやカワイコちゃんのデフォルト要素なんだと思うよ。
 あと青山真治のゾンビ映画がちらっと見れたのもお得でした。Jホラー撮ってくれないかな。

 皆藤愛子レベル。

 次回はまだ公開している映画だよ!最近になってようやく原作漫画にハマりました。『鋼の錬金術師 嘆きの丘(ミロス)の聖なる星』の感想です。

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  1. 2011/07/31(日) 05:21:01|
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『ダンシング・チャップリン』はチャップリンのゾンビだよ。

ダンシングチャップリン

 今回は公開してから少し経ってしまいましたが周防正行監督の最新作『ダンシング・チャップリン』の感想です。
 観に行った映画館は銀座テアトルシネマ。実は公開してから2回も脚を運んだのに、2回とも完売、3回目にしてようやく座れました。まぁぼくが休日なのにギリギリに映画館についたのが悪いのですが…。客層は中年以上の女性が多め。バレエ、チャップリン、銀座とオバちゃんが好きな要素が詰まってますからね。


概要:2011年の日本映画、『Shall We ダンス?』『それでもボクはやってない』などの周防正行監督が、フランスの振付家ローラン・プティがチャップリンを題材に、ダンサー、ルイジ・ボニーノのために振り付けた作品『ダンシング・チャップリン』(『チャップリンと踊ろう』)を、映画のために再構成してフィルムに収めた異色のバレエ映画。監督の妻でもあり、2009年にバレリーナを引退した草刈民代もルイジ・ボニーの相手役として全7役をこなし、36年のバレエ人生の集大成ともいえる最後のダンスを披露。第一部は『アプローチ』として映画の製作過程、第二部では『バレエ』として周防監督が劇場映画向けに撮影した『チャップリンと踊ろう』を上映。


 本作はいくつもの要素で構成された映画である。
 映画製作過程を記録したドキュメンタリー映画であり、バレエ映画であり、チャップリンを描いた映画であり、周防正行監督が夫人である草刈民代のダンサーとしての引退を描いた作品でもある。
 要素が盛り沢山すぎて複雑化してしまっているのは本作の欠点かもしれない。しかし慎重に慎重を重ねるような作品作りをする周防正行監督のこと、この複雑さにも何か狙うところがあるのかもと勘ぐってしまう。

 他のアートもたいていそうではあるが、映画というのはナマモノであり時事性が強い。ぼくが『DOCUMENTARY of AKB48 to be continued 10年後、少女たちは今の自分に何を思うのだろう?』を気に入っているのも、時事性をしっかりと映し出しているからだ。

 で、本作も、その雑多にも見える様々な要素の数々は、残しておくべき「今」を記録しているという点で共通している。そういう点に留意して本作の「雑多な要素」を考えてみたい。


(1)先述のように本作は様々な側面において「今」を描写している。

 例えば本作の冒頭の会話は主演俳優ルイジ・ボニーノとの年齢についての話であるが、年齢を隠したがる彼はそのあとダンサーとしての寿命の短さについての意見などからも、老いていく自分を気にしている。
 そして『チャップリンと踊ろう』を映画化しようと意見を持ちかけてきたのも彼らしい。まだちゃんと踊れる「今」の内にきちんと記録化しておきたいという気持ちだそうだ。

 ところでバレエというのは舞台芸術、やはり基本ナマモノである。そこにある「今」は一度限りの特定的で普遍性のない「今」である。一方で映画は時事性の高いナマモノではあるもののもう少し記録性は高い
 そのため周防監督はむしろ舞台芸術としてのバレエの特定的な「今」を排除し、映画らしい普遍性のある「今=現代」をもって『チャップリンと踊ろう』を映画化しようとする。
 例えば「中継っぽくなるのを避けたい」として演出家ローラン・プティの反対を押し切ってスタジオを飛び出して草原で撮影したり、通常のバレエ鑑賞では見れない映画でしかない描写(手のアップ、真上からの超俯瞰ショット、2倍速の映像)を使用して、バレエ撮影を特定的なその場限りの「今」ではなく、もっと普遍的で抽象性の高い「今」にしている。

 また本作は、前半『アプローチ』はメイキング映像、後半『バレエ』はバレエ映画と、二部構成になっており、その間に5分のインターミッションを挟んでくっきり分けている変てこな構成になっている。
 わざわざ劇場公開までするメイキングというと、過酷な状況での撮影とか鬼監督と役者陣との確執とかそういうのを期待してしまうが、本作にあるのはむしろ日常化した淡々と描かれる撮影や練習風景である(*)
 この日常的なメイキングによってバレエ編だけでは時代性が弱すぎるところに刹那的な「今」をブレンドし、作品全体に2010年代の東京っぽさをバレエ編にも匂わせることになっている。

 以上のように『ダンシング・チャップリン』を構成するさまざまな要素――例えばメイキングの記録映画やバレエ映画としての側面は、特定的ではなく普遍的だが一方でかけがえのない刹那的な「今」でしかない「今」をしっかりと描いていると言える。

(*)例えば草刈民代を持ち上げるダンサーを容赦なく交代させたり、何度も何度も同じシーンを練習したり、舞台以外の場所で撮影することを提言した周防監督にプティが「そんなんなら僕は降りる」なんて言うシーンをもって、「過酷で厳しい撮影状況」とする意見もあるが、あんな努力や言い合いくらい映画撮影に無い方がおかしいわけで、あれはやはり"日常的"な撮影風景だと思う。


(2)続いてチャップリンをバレエにて描くことの意味を考えてみたい。
 チャーリー・チャップリンは今現在でも通用するその面白さの体力は凄まじいが、やはり"過去の人"であることに異論を挟む者も少ないだろう。
 80年代の映画すら古臭く感じてしまう人が多いなか、モノクロましてやサイレント映画などを観る若者はもはや特別な存在なのかもしれない。

 『チャップリンと踊ろう』は、自分の中に宿っているチャップリンが身体に現れた男の話に見える。
 チャップリンのダンサーとしての魅力を抽出し拡大したこの作品は、彼の動作があらわす、どの時代の人間も持っているはずの「本質的な人情の機微」(※)を表し、「過去のもの」となっていたチャップリンの持つ可笑しさ、優しさ、恐さ、悲しさを「今」の世に蘇らす。

 前半に登場するチャップリンの息子は「チャップリンの物真似ではなくそのキャラクターを使用し新しいものを作って欲しい」と言っていたが、このように、『チャップリンと踊ろう』は過去のものとなっていたチャップリンを現代の人間にも普遍的に存在するキャラクターとして蘇らせていると言える。

(※)本作の最後は全登場人物がチャップリンの扮装をし踊ったあと、チャップリンの扮装を解いた主人公がそれでもチャップリン的な歩き方で向こうに去っていく(それはチャップリン映画でオーソドックスな終わり方である)という描写で終わるが、これらの描写が人類はみな可笑しさ、優しさ、恐さ、悲しさを持つチャップリンであることを描いていると思う。


(3)ところで本作は夫婦の記録でもある。

 「今」は一度限りのことで『アプローチ』編で繰り返される日常的な稽古風景やちょっとした夫婦の会話はもうできない。
 そしてその刹那的で何気ない日常の積み重ねが一本の映画を組み立てている。『バレエ』編を見たあと、それを構成していた『アプローチ』編を反芻すると、そこで描かれていた日常がとてもかけがえのないものに思えてくる。

 草刈民代は本作に対して「私の最後のダンス、踊っている私はもういない」とコメントしているが、それまで日常的であった"ダンスと向き合う"という何気なくもかけがえのない日々のディテールが、時が経って記憶から消えていく前にドラマチックに残しておきたいという願望は、ダンスで知り合い結婚に至り、ダンスが映画と日常生活を構成していた周防監督の映像作家としての純粋な願望ではないだろうか。『Shall we ダンス?』ではないが、『ラストダンスは私に』といった気持ちが本作からは滲み出ている。


(4)以下(1)~(3)をまとめてみたい。
 チャップリンの作品や細かい日常の記憶が、時の経過と共に過去のものになっていくように、多分この映画も過去のものとなっていく。なので、この作品が記録した「今」もそのうちに「大昔に撮られた大昔のこと」として忘れさられていく。
 ただし『イリュージョニスト』がそうであったように、時の流れによる風化を免れるものはないが、過去は受け継ぎ"刷新"することができる。
 「過去」になろうとしている草刈民代のダンサーとしての日々や、実際に過去になっていたチャップリン作品の中に眠る人の本質や美しさを「今」に刷新したのが本作であるならば、これを「映画」として残し未来へパスすることで、本作のようにまた誰かが、かけがえのない「今」のものとして刷新してくれるかもしれない。
 本作で描かれるあまりに雑多でまとまりのない要素を俯瞰すると以上のようなメッセージが読み取れないだろうか。
 以上、本作は"映画"という媒体の特性を活かして様々な「アプローチ」をもって「今」を記録する重要性を描いた作品だと思う。


 バレエ映画として『ブラック・スワン』との対比で描こうと思っていたのですが、まるで違う作品でしたね。少しまとまりはないかもしれないけれど、見応えのある映画ではありました。
 
 夏菜レベル。

 次回は『天然コケッコー』以来の、念願の山下敦弘の最新作『マイ・バック・ページ』の感想です。

テーマ:映画館で観た映画 - ジャンル:映画

  1. 2011/06/05(日) 01:46:33|
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『塔の上のラプンツェル』は美しくないところに恋するよ。

ラプンツェル

 今週の『海賊戦隊ゴーカイジャー』はゴーカイイエロー・ルカの主役回。『デカレンジャー』くらいから毎回ヒロインはメイド服着させられている気がする。
 
 怪人の声を当てていた高木渉さんが悪ノリしていて『太陽戦隊サンバルカン』『ジャッカー電撃隊』の主題歌を歌っていたり、道楽娘の持っていたカードが「サイクロンジョーカーエクストリーム」だったり「風都タイムス」を読んでいたり、ボウケンイエローへ変身した時あのヘンテコポーズとったり、なんだか面白さ盛りだくさんでした。
 皆がいる場所に速く駆けつける為にカーレンジャーに変身したり、火事場の中からぬいぐるみを救出する為にゴーゴーファイブに変身したり、そういう用途用途にあわせた変身が楽しいですね。
 あとジャッカー電撃隊に変身して昭和っぽいアクションするのがとても楽しかったです。
 ルカ役の女の子はお顔はそこまでタイプではありませんが、キャラクターや演技の仕方、声などがハッタリ効いてとても好きです。『スーパー戦隊』シリーズで「世の中お金で回ってるのよ」なんて言えてしまうヒーローもなかなかいないだろう。

 てなわけで次回!わぁ!マスターシャーフーだ!!ジャンだ!!パカチャマックだ!!!わぉ、おれ、ニキニキのワクワクだぞ!!
 『獣拳戦隊ゲキレンジャー』はまた思いれ深い作品ですので楽しみです。

 今回はウォルト・ディズニー・ピクチャーズ。記念すべき50作目の長編アニメ『塔の上のラプンツェル』の感想。

 観に行った映画館はTOHOシネマズ六本木ヒルズ。六本木は外国客も多く、この手のアニメ映画で珍しく吹き替えで上映がないので、そこんところ重宝しております。それもあってかちびっ子少なめ。大人のカップルが多かったです。


概要:監督はこれが長編デビューのネイサン・グレノと『ボルト』のバイロン・ハワード。音楽はアラン・メンケン、脚本はダン・フォーゲルマン、製作総指揮はジョン・ラセター。
 驚くほど長い魔法の髪を持つ少女ラプンツェル(マンディ・ムーア)。深い森に囲まれた高い塔の上に住む彼女は、外は“恐ろしい世界”だから絶対に出るな、と言う母親ゴーテル(ドナ・マーフィ)の教えから、18年もの間、一度も外の世界を知ることなく生きてきた。しかし、好奇心旺盛なラプンツェルは、いつか必ず外の世界へ出て、毎年誕生日になると夜空に現われる神秘的な“灯り”の正体を確かめることを夢見ていたのだった。そんな彼女は18歳の誕生日前日、王冠を盗み追っ手を逃れようと塔に迷い込んだ大泥棒フリン(ザカリー・リーヴァイ)と遭遇、その魔法の髪で彼を捕らえる。そして、自分を塔から連れ出し、“灯り”の場所まで案内させることを条件に解放する。こうして、ついに外の世界へ飛び出したラプンツェル。そこは恐ろしい世界ではなく、美しい自然に溢れ、街では人々が楽しそうに暮らしていた。数々の危機を乗り越えながら“灯り”の場所を目指す2人。だがその先には、ラプンツェルの思いもよらぬ運命が待ち受けていた…。
"allcinema online"より抜粋)


 アニメキャラクターに恋をするっていうのはそう珍しいことではないけれど、なかなか難しいものである。かつては『ルパン三世 カリオストロの城』のクラリスや、『新世紀エヴァンゲリオン』の綾波レイに恋をしたけれど、最近はめっきり恋しなくなったななんて思っていたけれど久々に恋をしたのがこの『塔の上のラプンツェル』の主人公に対してだ。
 彼女の容姿は、例えば同じディズニーのプリンセスストーリーのヒロイン、白雪姫やオーロラ姫、シンデレラなどに比べ美人とはいいがたい。口は大きいしソバカスはあるしやたらと負けん気が強いし。美人ではなく愛嬌があるというやつだ。
 で、その美人ではないという点が本作を語るうえでとても重要なのだと思う。

 『シュレック』はディズニーを追い出されたスタッフが、ディズニーの美しさ絶対主義に対して「そういうディズニーの思想って差別的なんじゃない?」と疑問のメスを入れた変化球プリンセスストーリーであった。で、もちろん『シュレック』だけが原因ではないだろうが、それ以降ディズニーにおいて直球勝負のプリンセスストーリーは禁じられた気がする。前作『プリンセスと魔法のキス』が冒頭プリンセスストーリーの否定から始まったのもそういった理由からだと思われる。
 で、本作『塔の上のラプンツェル』も同様、ウォルト・ディズニー・ピクチャーズが唯一扱っていなかった正統派プリンセスストーリー『髪長姫』を題材としつつも、プリンセスストーリーの必須条件である「美」を肯定はしていないという一風変わった映画であったと思う。今回はそこを解説。


 本作のテーマは「真実に目を向けさせる」という点にある。
 素晴らしいCG技術で彩られたラプンツェルの黄金の髪の毛は本作において"美しさ"のアイコンである。
 美しさ、すなわり黄金の髪から発せられる光は、人の目をくらませてしまい真実を見失わせてしまう。
 その美は悪役たちを欲望のとりこにし、観客たちにこの映画が「"美しき"プリンセスストーリー」であるとミスリードさせる。
 すなわち美しさは真実から目を逸らさせるのだ。

 しかしながら多くの登場人物たちは、ラプンツェルに出会い、その魔法の力を持つ美しい髪ではなく、その屈託なく笑う愛嬌に惹かれて自分の目を覚まし、真実を見つめだす。
 例えばフリン・ライダーは彼女に恋することで、地に足がついていない夢想から覚め、現実的な夢を見るようになる。近衛兵の指令を脇目もふらず忠実に執行していた堅物の白馬もやがてラプンツェルと触れ合うことで自分の正義を知ることとなる。酒場にいた悪漢たちもラプンツェルと歌うことで本当の自分の夢を見つめる。

 そしてこの問題において、最大のキーマンとなるのは悪役ゴーテルだと思う。
 彼女は不老不死の効果があるラプンツェルの髪の毛を欲し、自らの「美」を保つために産まれたばかりのラプンツェルを誘拐する。以後ずっとラプンツェルには母親と偽って育ててきた。
 18年間の間母親を演じ続けラプンツェルを立派に育てあげたゴーデルとラプンツェルの間には何があったのか想像するのは楽しい。上記のような邪な気持ちで母親を演じて育ててきたのに、なぜラプンツェルはあんなに元気で愛嬌のある性格に育ったのか。二人のやりとりがまるで本当の母娘のような調子なのは何故か。序盤で彼女が歌うラプンツェルの外への興味をそぐための歌が優しく感じてしまうのは何故か。

 その「母親としての演技」がただ自分の美を保つためとはどうしても思えない。
 本作で明言されることはないが、彼女はラプンツェルを前に、母親としての情に目覚めてしまい、母親として醜く老いていくか、若く美しく女として「悪役」を演じるかの葛藤をしている風に感じられる。
 言い換えれば、自分の「真実」がどちらにあるのか、その葛藤に苦しんでいる。だから彼女は何度も「悪役を演じる」という。

 そして最後、塔の上でのフリンとゴーデルの決闘シーンにて、フリンはラプンツェルを塔に縛り付けていた美しい髪を切り落とし、彼女を解放する。ラプンツェルの髪は切り落とすとその魔力と輝きを失ってしまう。若さへの希望を絶たれたゴーデルは憑き物が抜け落ちたかのように灰になって消えてしまう。ゴーデルはそのラプンツェルに対する愛情が美意識よりも劣っていたために悪に堕ちてしまった。
 一方でフリンの決意にてラプンツェルは美(髪の毛)を失うことで愛を得た。ラプンツェルやフリンの中では愛情が美に勝ったのだ。

 しかしながら美しい髪を失ってもラプンツェルのキュートな雰囲気は失われなかった。僕はまだショートカットになった彼女に恋をしていた。「美」が失われて、「真実」が見える。前述のように彼女の魅力は美しさではなく愛嬌であったのだ。
 そして映画はキューピットの格好をした汚い老人が飲んだくれて幕を閉じる。美しくないが、ハッピーエンドだ。


 以上『塔の上のラプンツェル』は、原作はディズニーにとって虎の子である『髪長姫』であり、ディズニーお得意のプリンセスストーリーであったが、そういった題材にもかかわらず、「美」を絶対的には肯定しない新時代のプリンセスストーリーに仕立てあげていると思う。


 で、冒頭の話に戻るけれど、ラプンツェルのちょっとした仕草やデザインや表情に「美を超えた愛嬌」を与えようとする作り手の並々ならぬ熱意が伝わったのであろう。だから僕は彼女に恋したのではないかと思った。


 不満点としては、ディズニーアニメといえばミュージカル、しかし歌が印象的でないのが寂しかったです。

 ディズニーアニメって食わず嫌いしている人が多いそうです。特に男性。表層的に見ると綺麗事ばかり語っている風に見えるからだろうかと思うのですが、けっこうダーティな仕事していると思うので、是非観に行って深読みするといいと思います。おススメですよ。
 あ、あと3Dけっこう良かったです。

 柏木由紀レベル。

 次回は、小難しい中二病映画です。ブラジル作品は扱うの初めてではないでしょうか『名前のない少年、脚のない少女』の感想。

テーマ:映画館で観た映画 - ジャンル:映画

  1. 2011/03/29(火) 00:44:42|
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『トゥルー・グリット』のコーエン兄弟は多分信じられるよ。

トゥルーグリット

 今回はアカデミー賞にもノミネートされてました。コーエン兄弟の新作『トゥルー・グリット』の感想です。
 『シリアスマン』とこの『トゥルー・グリット』、コーエン兄弟の映画が立て続けに見られるのは幸せですね。

 観に行った映画館はTOHOシネマズ六本木ヒルズ。お昼に行ったのでたいして混んでいませんでした。客層は年配の方が多め。やはり西部劇は年配の方に人気があるようです。


概要:69年のジョン・ウェイン主演西部劇『勇気ある追跡』の原作ともなったチャールズ・ポーティスの同名小説をジョエル&イーサンコーエンが映画化。監督・製作・脚本・編集を兼任する。音楽はカーター・バーウェル。製作総指揮はスティーヴン・スピルバーグ。
 自立心と責任感を併せ持つ14歳の少女マティ・ロス(ヘイリー・スタインフェルド)は、町を訪れていた父親が雇い人のトム・チェイニー(ジョシュ・ブローリン)に殺されたとの報せを受け、自ら遺体を引き取りに向かうとともに、必ず父の仇を討つと心に誓う。しかし、犯人のチェイニーは法の及ばないインディアン領に逃げ込んでしまう。そこでマティは、大酒飲みだが腕は確かな隻眼のベテラン保安官ルースター・コグバーン(ジェフ・ブリッジス)に犯人追跡を依頼する。最初は子ども扱いしていたコグバーンだったが、マティの執念に押し切られ彼女も同行することに。やがて、別の容疑でチェイニーを追っていた若きテキサスレンジャー・ラビーフ(マット・デイモン)も加わり、少女には過酷すぎる旅が始まるが…。
"allcinema online"より抜粋)


 『ボーリング・フォー・コロンバイン』の途中で挿入されるアニメで言っていたことだったと思うけど、アメリカ人は様々なものに怯え続けてきたと、最初はインディアン、続いて黒人、続いて社会主義国家、続いて中東諸国。その発展に則すように銃を発展させてきたと。
 まあこれはアメリカ人に限らなく様々な国家、人種などに言えることだろうけれど、西部開拓時代というのはそういうインディアンに怯え彼らを迫害してきた歴史であり、多くの西部劇というのはそれを美化してきた映画でもある。
 『トゥルー・グリット』は古典西部劇『勇気ある追跡』と原作を同じくする作品であるが、そのような"怯えと迫害の時代"において、「真の勇気とは何か」を問う。


 本作で大スクリーンにて展開されるのは、開拓前のアメリカ西部の大自然の雄大な過酷さである。飢えた動物たちはいつでも食らいつこうと徘徊しているし、雪や雨は容赦なくその下にいるものを凍りつかせるし、いつ終わるのかすらわからない荒野はまるで無限地獄。『アンチクライスト』じゃあないが"悪魔の教会"のごとき残酷な大自然の中で人は本当の勇気を試される。


 主人公の少女マティは14歳ながら西部の街でたった一人アウトローな大人の男たちと張り合うことのできる、聡明で大人っぽく機転が利くキャラクターとして描かれる。
 しかしながらそれは「勇気」ではなく「無鉄砲」なだけであった。一歩街に出てアウトローどもが蠢く居住地に行くと彼女はこれっぽっちも役に立たない。『ブンミおじさんの森』のごとく人と獣が平等に死ぬ世界において、無垢なる少女にしつこいまでに人と獣の死体を見せつけその無力さを強調する。

 ジェフ・ブリッジス演じるルースターは人に心を開くことができない。二人の愛する女とたった一人の息子に裏切られ、人との深い関わりを避けて飲んだくれている。
 だから息子と同程度のマティが頼ってくれたことがうれしく、悪態をつきながらも彼女に協力する。
 それでも不器用な彼は、マティを傷つけ続ける。いつかマティに呆れられることがに怯えているのだ。

 マット・デイモン演じるラビーフは誇り高きテキサスレンジャーであり、そのプライドが他者との間に大きな壁を築いてしまっている。

 ルースターは実は腕のいいガンマンであり容赦なく撃鉄を引き人を殺し、またラビーフは腕前は見かけ倒しなところがあるものの、誰にも負けないテキサスレンジャーとしての自負がある。だがそれらは勇気ではなく怯えるがゆえの過剰なる防衛であった。
 そのため大いなる西部において彼らの孤独やプライドゆえの強さは役立たず、すぐに命とりとなる仲間割れを起こしてしまう。


 一方で彼らが追う悪役たちチェイニーやネッド(バリー・ペッパー)も怯えるがゆえ、過剰に攻撃し、悲鳴をあげ、裏切り、殺し合う。そして虫けらのように意外なまでにあっさりと死んでいく。マティがあんなに恨んでいたはずの宿命的な悪であったチェイニーですら。
 その点でマティたちも悪役たちも大きな違いはない。大いなる西部の大自然の前では主人公たちもゴミクズのように人しれず死んでいくだけのちっぽけな怯えた存在である。


 ではマティたちが彼ら悪役と違う点は何だろうか。
 マティは旅の中で飲んだくれのルースターを亡き父親の代わりのように信頼をした。
 ルースターはただマティを守るため、1対4の無謀な戦いに挑み、作戦の重要な役割を、本人が自負するほど射撃の腕前も無かったラビーフを信頼して託した。そしてマティの命を救うために、彼女の愛馬を殺すまで走らせるほど残酷にもなれた。
 ラビーフはプライドを捨てて、マティを救うべくいがみ合うばかりであったルースターと協力した。

 チェイニーたちはそれでもトカゲの尻尾切りを繰り返し、怯えながらみすぼらしく死んでいった。

 マティたちが「アウトローの地」であった西部のインディアン居住地で見つけ出した、悪役たちとは違うものとは「人を信じる勇気」であったと思う。そしてそれこそがこの映画が語る「真の勇気」ではないだろうか。


 アメリカがその歴史上で異分子を排除していったように、異分子は恐ろしい、なるべく排除したい。しかしこの映画には異分子だらけだ。
 いつ裏切るとも思えない怪しい飲んだくれと、すぐにカッとなるプライドだけが高い見ず知らずの男、一人じゃ何にもできやしないただの14歳の女の子(西部劇というジャンルに少女という存在はそれだけで異分子だ)―――この過酷な世界でそれぞれを信じ命を預けることがどれだけ怖いことだろうか。山小屋に潜んでいた小悪党の青年は信じていた仲間にあっけなく裏切られ寂しく死んでいった。人を信じて死んでいったものもたくさんいる。
 しかしその恐怖を乗り越え、それでも人を信じなければこの世界で生き残ることはできないのだ。


 以上、先述のようにアメリカの歴史は他者に怯え、攻撃してきた歴史であったという考え方がある。多くの西部劇とはその行為を美化してきた。そのような中で『トゥルー・グリット』は、怯えて攻撃するのではなく、人を信じることの勇気と困難さ、そして人を信じることで生じる強さを描いているのではないだろうかと考える。


 個人的にはコーエン兄弟は『シリアスマン』のような皮肉いっぱいの作品の方が好きなので、ちょっといい子ちゃんすぎる感じが寂しかったです。
 あとマット・デイモン(ラビーフ)はもっと深く描けた気がします。

 ジェフ・ブリッジスの演技はとてもイカしてました。普段寝ぼけてるくせに敵が迫ってくるときホルスターに手を添えるあの目の緊迫感の緩急が凄まじかった。『トロン:レガシー』の胡散臭いカッコよさも好きなのですが、こちらのどうしようもないオッサンだけど拳銃抜いたら達人って感じが好き。


 西部劇は大きなスクリーンで見るに限ります。特に本作で描かれる広大な西部の地はなるべく大きなスクリーンで見てこそそのテーマ性が伝わると思います。

 井上真央レベル。

 次回はディズニーの新作アニメ映画で、『プリンセスと魔法のキス』に続く新たなプリンセスストーリーです。『塔の上のラプンツェル』の感想。

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  1. 2011/03/27(日) 02:02:03|
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