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『コクリコ坂から』で「まるで安っぽいメロドラマさ」と言っているよ。

コクリコ

 今回は待望のスタジオジブリの新作映画『コクリコ坂から』の感想です。
 久々の"この映画を好きな人は読んでも怒っちゃダメだよ"シリーズです。

 観に行った映画館はTOHOシネマズ六本木ヒルズ。客層は若い人が多めでした。女性が多かったかな。子供や家族連れも。

 
概要:2011年の日本映画。1980年に「なかよし」に連載された高橋千鶴と佐山哲郎による同名コミックを、宮崎駿と丹羽圭子の脚本、鈴木俊夫プロデュース、『ゲド戦記』の宮崎吾郎監督でアニメ映画化。制作はスタジオジブリ。
 1963年、横浜。港の見える丘に建つ古い洋館“コクリコ荘”。ここに暮らす16歳の少女、松崎海(声:長沢まさみ)は、大学教授の母(声:竹下恵子)に代わってこの下宿屋を切り盛りするしっかり者。あわただしい朝でも、船乗りの父に教わった信号旗(安全な航行を祈る)をあげることは欠かさない。そんな海が通う高校では、歴史ある文化部部室の建物、通称“カルチェラタン”の取り壊しを巡って学生たちによる反対運動が起こっていた。ひょんなことから彼らの騒動に巻き込まれた海は、反対メンバーの一人、風間俊(声:岡田准一)と出会い、2人は次第に惹かれ合っていくのだが…。
("allcinema online"より抜粋)


 この映画ってすげー流行っているし、雰囲気だけはなんとか宮崎駿的になっているから、好きって人が多いと思うんですよ。
 もちろん好きなら好きでそれは立派なことだし、受け手のその感覚を否定する気はさらさらございませんが、僕はどうしても好きになれない。
 映画はコマーシャルアートだからお金をもうけたいという気持ちは正義だろうし、一方で芸術なわけだからそういう気持ちを表したくないというのももちろん正しい。『超・電王』シリーズみたいに「すでに完成したマーケットでラクしてお金儲けたいんです、お願いだからこれ見てオモチャもたくさん買ってください」って感情を恥ずかしげもなく丸出しにしている方がどうかしているわけで、この映画の態度は決してとがめられない。
 ただなんか可愛げがない。なんだか最近のジブリ作品のコマーシャリズム(食事シーンではビール瓶のラベルは全部こちらを向いているよ!)を「良さげな雰囲気」によってカモフラージュしようとしている感じ、『崖の上のポニョ』にも『借りぐらしのアリエッティ』にも感じたことなのですが、本作はそれがどうも目に付く。しかもそのカモフラージュがあんまり上手くなくてところどころで商魂が見え隠れしてしまい、その「良さげな雰囲気」がものすごい欺瞞くさく見えてしまう。

 ――なんてことを感じてしまうあなたは多分性根が腐っているんですよ!(という今回のスタイル)


 ちなみに『ゲド戦記』ってみんなが言うほど嫌いでもなくて、確かにあれを名作とは言えないけれど、「親父の七光り上等だよ、精一杯利用してすげーの作ってやる」っていう初期衝動は感じた。ただまあ作品なんてのは、たとえどんなに人の道に外れた作り方をしようが、いい作品はいいし、どんなに清廉潔白で立派な正義感と人道主義で作られた作品だろうがダメなものはダメという結果が全ての世界において、作る際の意気込みなんてどうだっていいんだけど――まあ嫌いになれないんです『ゲド戦記』。で、そんな吾郎さんの新作が『コクリコ坂から』。多分前作以上に意地悪な目で「あんなにコケておいてまだやるのかよ」とか「監督世襲制まだ続くのかよ」みたいに見られた作品だと思うんです。(吾郎監督の世間的な評判の悪さを逆手に取った鈴木俊夫氏のコマーシャルはちょっと感心してしまいました)

 で、今回は意地悪な目で見てしまえば多分『ゴッドファーザー』も『アラビアのロレンス』も『アパートの鍵貸します』だって駄作になるんだぜって論旨。


(1)まず誰もがつっ込むのがまだ続いていた謎のスタジオジブリ監督世襲制
 映画監督って世襲制なんですって。確かに今村昌平の息子もコッポラの息子も娘も、最近は今村昌平や深作欣二の息子も二世映画監督ですが、けっこうみんな頑張っているじゃないですか!
 むしろどこの馬の骨かわからない輩より、あの巨匠宮崎駿が手塩に育てた御子息の撮った作品の方が安心に決まっているじゃないですか!!

 もし吾郎監督を、鈴木敏夫が宮崎駿的な記号を乱用したいがための形だけの傀儡監督というのなら、多分あなたの見方が狂ってるんですよ!!

 まぁ他の映画が散々宣伝のための監督世襲制をやっていて、前回のなにも知らないド素人がいきなり世界規模のアニメ監督をやるというぶっ飛びっぷりならともかく、もう監督2作目ですし、その世襲制をジブリがやっちゃダメって理屈はありませんので、そこは攻めないでもいいと思います。


(2)えええ!?誰ですか、宮崎駿的な絵や記号なのに動きが妙にギクシャクしていたりノッペリしていたり、ただ歩くだけのシーンが本当にただ歩いているだけだったり、ジブリ作品のトレードマークとなっている食事がまるで美味しくなさそうというか、全員が判で押したようなただ口に運ぶだけの機械的な作業になっている――というか食事シーンを入れること自体が機械的な作業でしかなかったのだろう――なんて愚かなことを邪推している三下は!?

 ここ、こと海に関しては、高校生なのに頑張って家族を支えるという強い決心があったからこそ、その緊張故にああいった機械的な動きになっていて、本作でいちばん美味しそうに見える食事のシーンは肉屋のコロッケだと感じたのですが、あそこで心を許している俊とふいにコロッケを食べたことで初めてその緊張を解いて、ようやく"食事"が出来た――とも読めなくはないです。
 が、それにしても、どうしても他のジブリ作品、宮崎駿や高畑勲の作り出すアニメーションに比べると、その他のキャラクターの動きと動きから読み取れる感情が薄っぺらい。
 世間的に評価されている日常生活の細かい表現に関しても、小津安二郎みたいに日々のルーチンワークのなかにちょっとした感情のほつれが見えたら良かったんだけれども…。

 ええっと…細かいことは気にしないでわかりやすい表現を目指したのではないでしょうか!!


(3)ええ!?記号的表現と言えば昭和30年代の安易な記号的表現の羅列も鼻につくし、原作の昭和50年代を昭和30年代にした意味も感じられないなんて失礼すぎやしませんか!?

 インタビューで吾郎監督は「あの時代も良かったことばかりではなく暗いこともたくさんあった」とおっしゃっていて、それで朝鮮戦争を引き合いに出してくるのですが、それもあんまりストーリーやテーマに絡みあっていないし、結局、すっごい雑な懐古趣味にしか思えない。その顕著な例として、「上を向いて歩こう」なんてキャッチコピーがなされているけれど、ただ安直にその時代の最もメジャーで最もその時代の良さを喚起させるだけの歌だから採用しちゃったんじゃないのかなーなんて。
 その意識が最も表れているのが古くなったカルチェラタンを取り壊すか否かの論争。これを守ろうとする俊たちはただここが素敵だからという理由で守れば良かったものの「古くなったから壊すというなら君たちの頭こそ打ち砕け! 古いものを壊すことは過去の記憶を捨てることと同じじゃないのか!?」、「新しいものばかりに飛びついて歴史を顧みない君たちに未来などあるか!!」ってもっともらしい理由をつけて守ろうとします。
 これ、僕の個人的な考えですが、"古いもの"ってその価値は時代によって変わっていきますよね。例えば春画は江戸時代から明治時代にかけて二束三文で売り買いなされていた。むろん美術品としてなど扱われていなかった。しかし外国人がその価値を認めたとたん急激にその価値が上昇し、美術品として重宝されるようになった。
 同じように"古いものを守る"という行為の意味は、俊の言う"過去の記憶を守る"ということには繋がらず、むしろ"その頭を打ち砕いて"新しい価値を見いだすことに意味があるんじゃないのかなって。
 俊の言う懐古趣味はすごく表層的に感じてしまいました。

 同じ懐古なら、例えば同じ時代のしかも学生運動を扱った『マイ・バック・ページ』みたいに、まったく無意味に終わってしまった時代やその頃の歌などに現代的な意味を付与させてストーリーに絡ませたら良かったのですが。

 ――なんて言っている輩がいるんですって!!
 そもそもみんな長島とか東京オリンピックとか『上を向いて歩こう』とか大好きじゃないですか!サービス満点じゃないですか!
 『SPACE BATTLESHIP ヤマト』の山崎貴監督(※)『ALWAYS 三丁目の夕日』も、無責任に「あの時代は良かったのだ!」ばかり言っていた『これでいいのだ!! 映画☆赤塚不二夫』も大好きじゃないですか!超いい時代で超ノスタルジックじゃないですか!!

(※)『クレヨンしんちゃん アッパレ!戦国代合戦』の実写化を『BALLAD 名もなき恋の歌』とする偉大なセンスの御大の新作は『泣いた赤鬼』をアニメ化した『FRIENDS もののけ島のナキ』という作品だそうです。このセンス、君にはわかるよね?


(4)うっそ!そんなひねくれた見方があるなんて、むしろ感心すらしてしまったのですが、ストーリーが無さ過ぎる、主人公の海が何もやっていないし、何も失ってなければ何も得てないなんて言うドサンピンがいるんですって。
 せっかく実の兄との近親愛なんて障壁を用意したのに、海は「どうすればいいの?」というだけで何もしようとしない。でも終盤で「血が繋がっていてもいい、風間さんのこと好き」って思えて、映画的にはそれでいいはずなのに、突然海の前に現れた母親が「あなたたちは本当の兄妹じゃないから大丈夫」と教えてくれて、更にもう一回今度は風間くんのパパの親友が「君たちは本当の兄妹じゃないから大丈夫」と何故かもう一回念押ししてきて、万事解決。
 せっかくの決断が、本当は兄妹じゃないという情報でストーリー的に意味なくなっているし、結局主人公は何もしないまま大人に都合のいいものだけ与えられて甘やかされているだけになっている

 でもさ、近親愛なんて超キモイじゃないですか、エロマンガみたいじゃないですか。そんなのどこぞのロリコンアニメ監督が許しても、国民的アニメ会社のジブリが作れるはずないし、ましてやあんまり倫理的にぶっ飛んだことやって日テレで放送できないんじゃ元も子もないじゃないですか!!

 あともう一つのメインストーリーの、取り壊されそうになっていたカルチェラタンの件も特になにもしないで周囲の人がスムースに問題解決に導いてくれる。
 海は「カルチェラタン汚いから清掃したら?」ってアイデアを提示しただけで勝手に仲間が集まりみんなで清掃。それでも壊されそうになったので理事長に会いにいくということになり何がなんだか海も同行、したらばそこの社長は多忙でなかなか会えないと言われたのに、特に努力もせず待っていただけで会ってくれて、主人公見て「君のお父さんは何をやっている人だね?」「船長をやっていました」「…そうか…よし、明日その館を見に行こう」という意味不明の流れで急遽明日の予定をキャンセル、横浜のカルチェラタンに脚を運んでくれて「よし、取り壊しは中止!」と言ってくれましたとさ。それで「いい大人っているんだな」だってさ!

 基本的に子供が困っていたらこちらが何もしなくとも周りの大人たちが全部解決してくれるなんて素晴らしいじゃないですか!まるでお父さんが超有名アニメ監督という理由で美術館の館長や世界中で公開されるアニメを監督させて貰えている誰かさんみたいじゃないですか!!

 あと風間俊輔くんが声をあてていた水沼史郎(例によって客寄せパンダ――ゲフンゲフン、超人気タレント大集合の声優陣の中で彼がいちばん名演技をしていましたが、岡田純一君が声を当てている役の名前が風間俊、その風間俊の親友の声を当てているのが風間俊介って紛らわしいですね)が「海はいるだけで運気が上昇する」みたいなこと言ってたから何も行動しなくてもいい理屈がきちんとあるんですよ!
 コーエン兄弟だって『シリアスマン』で妻が浮気しても訴えられそうになっても弟が逮捕されそうになってもしまいにはハリケーンが襲ってきても何にもしない主人公の映画撮ってアカデミー賞にノミネートされたじゃないですか!


(5)以上、もちろん僕はそんなこと思っていないですが、みんなの意地悪な視線で見ると、表面的なものしか見えてこないペラッペラの映画であって――それでもその内面を頑張って覗こうとすれば「レトロでいい雰囲気でしょ?こういうの好きなんでしょ?」っていう観客をナメてかかっている様子がどうしても見えてしまう作品でした。


 不満点は最後、海と俊が船着き場まで急いで行くシーンでいきなり渋滞になって車を降りて走っていったけど、従来のジブリならそこは車で行くべきだろと。無駄にドリフトかけまくって、物理法則無視して壁とか走っちゃって。もっとうまく記号的表現使っていかないと!

 良かった点は――ああああ、もう良かった点しかないのですが――さすがというか、カルチェラタンの雰囲気はとても良かったです。ステンドグラスとかムカデの這う感じとか、とても美しい。まぁ雰囲気作りはとても上手なんです、この映画。
 あと、先述したけれど、実の兄妹でもそれでも好きって、倫理観を飛び越えて感情の発露に従おうとする展開は映画としてとても全うだとおもいます。ただその後の展開で台無しになっちゃうんだけれど…。
 主題歌も美しくて好きです。
 あと不評が多い長澤まさみの声はなんか好きです。


 多分、悪くはない映画だと思うのです。『ゲド戦記』より立派な作品で、この作品に感動したって人の気持ちもわからなくはないんです。でも『ゲド戦記』の方がずっと魂はこもっていたと思う。どうしても小手先で作られているようにしか思えなくて、好きにはなれない。

 あと『借りぐらしのアリエッティ』の時も書いたけれど、「なんでその絵なの?それじゃ宮崎駿作品と比較されてダメ出しされるに決まってるじゃん」って問題なのですが、ディズニーみたいにその宮崎駿的なデザインセンスを踏襲することで、宮崎駿無き後もジブリを存続させていくための布石を打っているならば、そんなの本当に表面的なことしか描けず、いずれ観客も映画館に足を運ばなくなるのは目に見えているわけで、こんな目先の金のことしか考えない保守的なことしていないで、『ルパン三世 カリオストロの城』『風の谷のナウシカ』『紅の豚』などで見えた、宮崎駿の世に対する挑発的な精神こそ踏襲しないととは思うのですが…まあ宮崎駿自身がジブリの存続にそんなに興味なさそうだし、その時点で厳しいのかな。

 あとセリフで「まるで安っぽいメロドラマだ」って、あたかも自分は違うよって言っているのにゾッとしました。

 今回は長くなりすぎましたね。そして念を押しますが、決して怒らないでください。

 美空ひばり樋口一葉レベル(思うところがあり変えてみました)。

 次回はシリーズ最終作ですよ。前作『ハリー・ポッターと死の秘宝 PART1』はあまり好きではありませんでしたがそのリベンジなるか、『ハリー・ポッターと死の秘宝 PART2』の感想です。
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テーマ:映画館で観た映画 - ジャンル:映画

  1. 2011/08/13(土) 20:01:11|
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『奇跡』は特になんでもない映画だよ。

奇跡

 こんにちは。今回は是枝裕和の新作『奇跡』の感想です。ここで告白しておきますと、実は是枝裕和作品、いいという噂はしょっちゅう耳にしてまいかい観に行こうと思うのですが、面倒くさくて観に行ってませんでした。ごめんなさい。

 観に行った映画館は吉祥寺バウスシアター。月曜日男性1000円のメンズデーを利用いたしましたので、確かに男性多めといった感じ。どちらかというと高齢の方が多かったです。


概要:2011年の日本映画。監督・脚本・編集は是枝裕和。音楽・主題歌はくるり。
 小学6年生の航一(前田航基)と小学4年生の龍之介(前田旺志郎)は仲の良い兄弟。しかし両親が離婚してしまい、それぞれの親に引き取られた2人は鹿児島と福岡で離ればなれに暮らしていた。ある日、九州新幹線の一番列車がすれ違う瞬間を目撃すれば願いが叶うという噂を耳にした航一。再び家族4人の絆を取り戻したいと願う彼は、龍之介と連絡を取り、一緒にすれ違う現場に行こうと約束する。こうして兄弟は、それぞれの友だちや周囲の大人たちを巻き込みながら、奇跡を起こすための無謀な計画を進めていくのだが…。
("allcinema online"より抜粋)


 最近ミノムシを見なくなった。
 別にミノムシの数が減ったというわけではなく、心理的にも物理的にもミノムシに視線がいかなくなったのだろう。つまり子供の頃に比べてミノムシが見えるような背の高さにはいないし、そもそも興味がなくなったのだ。

 子供の頃は全てが"ファンタジー"だった。現実を大人のような把握の仕方で見ていなかったというのが適切だろうか。
 世界は家と学校と最寄り駅周辺ぐらいが全てであったし、20分もないような下校時はスリルにあふれた大冒険であったし、近所の犬は同じ目線で語り合える親友だったし、クラスのカワイコちゃんや若くて美人の先生は世界一の美女だった。そしてコガネムシやカマキリが宝物だった。なんで大地震が今にも起きそうなこの国に平気で生活しているのか意味不明だったし、人はいずれ死ぬことに怯えないのも理解不能だったから日々恐怖に震えてもいた。

 だから日常生活も『パイレーツ・オブ・カリビアン』並のアドベンチャーとファンタジーにあふれていた。

 本作はその大仰な『奇跡』というタイトルに反して何も起こらない映画である。世界は日常を繰り返す。ただそれは"大人の目線"で見た場合。"子供の目線"で見た時、ここは素敵な奇跡だらけの世界に見える、そんな映画だと思った。



(1)本作の主人公である2人の兄弟は子供らしい現実のとらえかたをしている。

 兄・航一は小学六年生。少しづつだが"大人の視線"を身につけてきていて、「現実」を大人のように捉えるようになってきているがまだまだ子供。ドラマチックに見えないこの現実を認められない。
 冒頭登校前に部屋を雑巾がけする彼は一見しっかりしているいい子にも見えるが、彼はただ現実を認められないだけなのだ。親の都合で理不尽に鹿児島に連れてこられたことを認められないから、部屋に入り込んでくる火山灰(つまらない現実の象徴)が許せないのだ。
 それはしっかり者の母親のぞみ(大塚寧々)や祖父母(橋爪功と樹木希林)が側にいることも起因となっている。何でも面倒を見てくれる母と祖父母がいてくれるから、どうしても見えてくる「大人の現実」を否定し、その反動で「桜島が大噴火して町がなくなって欲しい」なんて突飛で幼稚な空想に浸る余裕がある。(大人の視点を持ち始めているからこそ逆に幼稚な願いを持つという点では、航一の同級生二人の「イチローみたいな野球選手になりたい」「犬を生き返したい」「学校の先生と結婚したい」という願いもこれに当てはまる)

 逆に弟・龍之介の方は、いい加減でだらしなくいい歳して夢を諦められない父親(オダギリジョー)についていったため、生活のために自らが動く必要に迫られている。もしかしたら寂しいのかもしれないが、幼いながらに精一杯現実と向き合っている。
 ただし兄と違い、まだ幼い彼にとってトマトを育てることもキャベツが食べられるようになったことも、大事件でありアドベンチャーとスリルとファンタジーたっぷりの世界だ。だから生活臭溢れる現実も楽しく、それを否定する必要がない。


(2)物語は"大人の視線"で描かれるシーン(主に前半)と、"子供の視線"で描かれるシーン(主に後半)に大ざっぱに分けることができる。

 "大人の視線"では、どのようにトマトが輝いているかも、どのように火山灰が積もっているかも、死んだ親友の犬がどのような表情をしているのかも、ポテトチップの袋の底に溜まったカスの美味しそうな感じも、好きな女の先生の自転車から盗んだベルがどのように愛おしく輝いているかも、出前でとった親子丼の蓋をパカッと開けた時のおいしそうな湯気の臭いもわからない。(※)
(※)かといって本作は別に子供の視線を讃えるような作品ではない。大人にならないとわからない楽しさもたくさん登場する。例えば酔っ払った時に買ったグエーと鳴くアヒルのオモチャだったり、ぼんやりとした味の和菓子だったり、子供のように嘘っぽくはないささやかで現実的な願いだったり。


 物語は後半、子供だらけの冒険(というにはスケールがあまりにしょぼいが、彼らにとっては大がかりな"冒険"だ)がはじまることで"子供の視線"のシーンになる。
 それまで大人ぶって"子供らしい視線"を否定し、それでいて大人になることも否定していた航一は、子供だらけの冒険のなかで精一杯頭を使い、不安になり、ワクワクし、キャッキャと騒ぎ、作中初めて"子供らしい視線"を肯定する。

 そこにおいて上記に並べた様々な日常的なことは、二つの新幹線がすれ違うだけという、実はなんでもないことと同様に「奇跡」と思える。現実を肯定すれば世界はすべて美しい奇跡なのだ。

 そういえば本作に登場する子供たちは常に走っている。まるで走らなければ見逃してしまうほどの「奇跡」が世界中に溢れているようだ。


 以上、『奇跡』"なんでもない日常"をただ描くだけの作品であるが、"子供の視線"を介すことでたまらなく美しい奇跡にあふれた作品になっていると思う。


 影響を受けやすい僕は映画館を出たあと井の頭公園で見たカタツムリに感動してしまった。ミノムシにも再会できるかもしれない。


(3)他にまえだまえだの演技も良かったし、くるりの日常ファンタジックな音楽も良かったし、作品のテーマ性に深く絡みついた様々なキャラクターの視線を意識したカメラワークも良かったです。

 是枝裕和、面倒くさがらずきちんと見ようと思いました。良作だとおもいます。

 玉井詩織レベル。

 次回はダークファンタジーなのでしょうか『赤ずきん』の感想です。

テーマ:映画館で観た映画 - ジャンル:映画

  1. 2011/06/24(金) 03:09:37|
  2. 映画カ行
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『ゴーカイジャー ゴセイジャー スーパー戦隊199ヒーロー大決戦』はラジオでは観れないよ。

199ヒーロー

 今回は前回の『X-MEN:ファースト・ジェネレーション』に引き続き、ヒーローモノです。『ゴーカイジャー ゴセイジャー スーパー戦隊199ヒーロー大決戦』の感想です。

 観に行った映画館はTOHOシネマズ府中。毎月14日の1000円の安い日に
自転車かっ飛ばして観に行きました。
 平日昼間の回で客入りは半分くらい。大きなお友達がほとんどでちびっ子は一人だけでした。あの子は学校休んでいるのかな?


概要:2011年の日本映画。監督は『天装戦隊ゴセイジャーVSシンケンジャー エピック ON 銀幕』の竹本昇。アクション監督は石垣広文、脚本は荒川稔久。
 ゴセイジャーたち34のスーパー戦隊が協力し、自らの力を失うのと引き替えに宇宙帝国ザンギャックを撃退した“レジェンド大戦”から数年後。地球では“宇宙最大のお宝”を見つけるためにやって来た海賊戦隊ゴーカイジャーたちが、再び襲来したザンギャックと激しい戦いを繰り広げていた。そこへ、力を失ったゴセイジャーたちが現われ、自らザンギャックと戦うべく、ゴーカイジャーからレンジャーキーを奪い取り、変身を遂げる。そんな中、ザンギャックは地獄から復活した黒十字王と手を組み、次々と悪の幹部たちを復活させていく。さらに、黒十字王の巧みな陰謀によって、スーパー戦隊同士の大乱戦が引き起こされてしまう。
("allcinema online"より抜粋)


 最近ビデオで映画が見れなくて困っている。習慣的に毎週3~4本借りてきてしまうのだが、まったくもって集中できない。
 そんなわけで最近はテレビドラマやアニメは家にいるときに流しっぱなしにして見ているけど、映画はなるべく映画館で見ることにしている。それだと大好きな古い映画がなかなか見れないのが寂しいのですが。

 でもたいていのテレビドラマやテレビアニメは家で何かしながらでも割と楽しめる。誰にも分かりやすいように説明をしっかりして、飛び抜けてヘンテコなことをするより王道をしっかりと行うことを良しとするテレビ番組は、「ながら見」しても楽しいように作られているからだ。
 その最たる例が『水戸黄門』だったり『スーパー戦隊シリーズ』であったりする。基本的なストーリーラインは毎回定まっており注意してみなくてもストーリーは追えるようになっている(*)。もちろん各作品ごとに毛色やこだわりは異なるし、しっかりとテレビにかじりついて見た方が面白いに決まっているが、まあそういう見方もできる。

(*)パターン化された展開は、それ以外にちびっ子やお年寄りが理解しやすいように安心して観ることが出来るようにって狙いが強いと思われます。

 で、『海賊戦隊ゴーカイジャー』はけっこう毎週楽しんでいる。
 従来のスーパー戦隊らしいストーリー展開に加え、過去の戦隊ヒーローが続々登場して、個性的でカタルシスたっぷりのアクションを繰り広げ、悪役たちも含めキャラクターもそれぞれ魅力的でやりとりが面白い。
 ただやはりテレビドラマという範疇内の話であり、あれを映画館の大画面で長時間見るとなるといささか面白みに欠けるのではないかと。


(1)最近の東映は「それ別にテレビで流してもいいじゃん」ってのを劇場で流してお茶を濁してお金をせしめている作品が多いというのは当ブログで何度も書いたと思う。仮面ライダーやスーパー戦隊と銘打てばどんな作品だろうがとりあえずお金を落とす僕のような客が多いのだろう。『仮面ライダー電王』以降それに味をしめている気がする。例えば去年扱った『超・電王トリロジー』がその最たる例だ。

 でも本作は違う気がしていた。何しろスーパー戦隊35周年記念の戦隊ヒーロー大集合のお祭り映画、同じく40周年のお祭り映画であった『オーズ・電王・オールライダー レッツゴー仮面ライダー』が予想に反してなかなかの出来だったのもあり、同じ期待を寄せていたのだ。


(2)で、まず良かった点。今回の感想は総じて「それ別にテレビでいいじゃん」なのですが、それでも良かったという点。
 冒頭、全34の戦隊たちが敵か味方かよくわからなかったアイツやアイツなんかのゲストヒーローを含め集結し、ザンギャックたちと戦う"レジェンド大戦"が始まる。破壊されたゴセイグレートが横たわっているショッキングな描写から歴代ゲストヒーローがゴセイジャーたちを助け、全員集合の大戦争へとつながっていく描写は、半分はテレビで流していたやつだし、ゴセイグレートはCG丸出しだし、正直各戦隊たちに個性もへったくれも無いし、ビッグワンさんの股間は相変わらず気になるけれど、それでも胸を熱くせざるを得ない。
 「そんな数いらなくない?」とか言っちゃうと無粋に思えるようなド派手な戦闘シーンは、なんだかゴージャスなダイヤモンドゲームをみている感じで、その絵もなんだか面白かったです。というか何故かウルッとしてしまいました。

 それとゴセイジャーって一年通してあんまり楽しめなかったのですが、今回はゴセイジャーが具合よく描けていたと思います。
 アラタ(千葉雄大)の純粋で利口すぎるが故になんだか一歩間違えれば悪に染まりそうな危なっかしさとか、モネ(にわみきほ)のやんちゃで健康的な可愛らしさとか、いまいちキャラクターが掴みにくかった彼らが、ゴーカイジャーと絡むことでいい味が出せていたと思う。

 でもそれって別にテレビないしはVシネマで十分できた内容であって別に敢えて映画でやる必要はそこまで感じられない。実際"レジェンド大戦"はテレビで放送されたものをほとんど使っているわけだし、2つの戦隊の競演によってそれぞれの魅力を際立たせるって手法は従来のVシネマシリーズの「VSシリーズ」でやっていたわけだし。


(3)続いて「せっかく映画なのに、そんなんじゃテレビで良かったじゃん」という明らかな不満点
 ゴーカイジャーが登場し、ゴセイジャーと競演するあたりからいつもの「VSシリーズ」っぽい展開になるのだが、それが悪い意味で東映のいつものVシネマくさいのだ。長尺、映画、過去の戦隊大集合などなどせっかくゴージャスな素材を与えられているのに貧乏くさいのだ。

 まず雰囲気を作り出すのに重要なロケ地の問題。登場人物たちは、『スーパー戦隊』『仮面ライダー』を見ている人にはお馴染みの、テレビで毎週のごとく登場するいつもの採石場、いつものオフィス、いつもの海岸で戦う。低予算なのは解るが、それを感じさせない工夫をまるでしていないのだ。

 また本作は80分強とスーパー戦隊史上最長の尺となっている。いつもは長くて60分、短いと20分ほどしかないので、その長さだけでワクワクしなくはないのだが、その長尺(というにはやっぱり短いが…)がまるで活かされていないのだ。
 長尺というからには各戦隊たちの活躍がある程度じっくり描かれ、かつ人間ドラマもしっかり描かれるかなと思ったのだけど、そんなことはなく、ただグズグズとアクションを単調に展開していく。例えば登場人物たちがぶつかる葛藤や障害などがほとんどないのだ。あっても大して努力などせずあっさり解決していってしまうからなんとも拍子抜けな点。
 復活した過去の大幹部たちはあっさり敗れていくし、途中、レンジャーキーを奪われ過去の33の戦隊が一気にゴーカイジャーとゴセイジャーに襲いかかるシーンもあんまりサクサク倒していくのでまだザコ戦闘員であるゴーミンたちの方がいい活躍しそうな勢いのショボさだ。
 いつものテレビの20分強の尺なら「テンポが良い」となんとか許される省略だけど、逆にサクサク進みすぎて単調で退屈に思えてしまうのだ。それは80分の尺でやることではないと思う。80分あるならもっと要素を少なくしてそのドラマをじっくり展開させて欲しかった。例えばマーべラス(小澤亮太)とアラタの友情物語を中心に据えるとか。


(4)まとめ。
 以上、良かった点も不満点も並べましたが、総じて「テレビでも構わない」という感想でした。むしろテレビで何かしながら見た方が、ツッコミどころも気になりづらく楽しく見れるのではないかと。
 作り手の志がもうちょっと高ければ簡単にいいものが作れそうな気がするのですが。

 が、それでもつまらない作品ではないんです。さすが35年の歴史をもつスーパー戦隊シリーズ盤石な基本をなぞるだけである一定のオーソドックスな面白さを持っている。ただそれが多分病理の元なんだと思う。
 その「一定のオーソドックスな面白さ」に甘えるあまり冒険心のない志低い映画を作ってしまうんだと思う。
 35周年ということで保守的に過去作をリスペクトするのも素晴らしいとは思いますが、せっかくの海賊モチーフならばどこぞの海賊映画や海賊漫画のごとく冒険心も忘れずにいて欲しいです。リアル海賊のように(ファンから)金目のものを略奪するだけが目的ならば別にいいですが。


(5)他に、チェンジマンがバズーカを撃つシーンや、フラッシュマンやバトルフィーバーJのロボットのシーンで大昔の劣化したフィルムのバンク使っている点。質感があまりに異なるので回想シーンかと思ってしまったら、普通に戦闘シーンの1ショットだったので困惑いたしました。
 あとレンジャーキーだけでゴセイジャーたちが変身能力を取り戻したことに関しての説明不足とか、それを最後何故かゴーカイジャーたちにあっさり返却したときの「一つの場所に(レンジャーキーは)集めておいたほうがいいもんね」の意味がよくわからなかったり。
 クライマックスに流れる曲は『秘密戦隊ゴレンジャー』ではなく、もっとスーパー戦隊全体を讃えるような選曲が良かったなとか。
 あとあとウメコ(菊地美香)が大人っぽくなったとか、チーフ(高橋光臣)は相変わらずかっこいいなとか。


 あとスーパー戦隊全員集合でザンギャックたちに立ち向かう絵がないのは、冬にあるであろう映画に期待なのでしょうか? それに期待です。なかったらがっかりです。

 熊切あさ美レベル。

 次回は賛否両論話題作です。松本人志監督第3作目です。『さや侍』の感想。

テーマ:映画館で観た映画 - ジャンル:映画

  1. 2011/06/21(火) 01:07:10|
  2. 映画カ行
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『ゲンスブールと女たち』はオシャレ『まんが道』だよ。

ゲンスブール

 今回は『ゲンスブールと女たち』の感想です。日本だと「ゲン"ズ"ブール」表記が一般的になっているけれど、本作は「ゲン"ス"ブール」ですね。まぁどちらでもいいのですがwikipediaにそこらへんが「69 année érotique(『69年はエロな年』)、Ballade de Johnny-Janeなどで聞ける本人の発音は「ゲンズブール」に近い。フランス語の発音規則に従えばここは「ス」なのだが(規則どおりなら「ゲァンスブール」と読まれるのが自然である)フランス語では有声化と呼ばれる現象が強く、後の[b]に影響されて[s]が[z]に近く発音されると考えられるので揺らいでいる文字の発音は「有声化によって『ズ』に近くなった『ス』」という記述がもっとも適当だろう」なんて書いてありました。勉強になりますね。

 観に行った映画館は当ブログではなんと初登場です。Bunkamura ル・シネマ。ここは銀座テアトルシネマ新宿武蔵野館以上にご老人でごった返す映画館。がんばらないとすぐ席が埋まってしまいます。ちなみに僕が行った日は火曜1000円の日だったのですが、火曜じゃなくとも1000円で見れそうな方々ばかりで満席でした。前の席のお婆ちゃんが肩が凝っているらしく、ずーっと首を左右に揺らしていて気になってしょうがありませんでしたが、そんなことすら注意出来ないチキンです。


概要:2010年のフランス映画。監督は漫画家で本作がデビューとなるジョアン・スファール。原作・脚本も彼が手がける。音楽はオリヴィエ・ダヴィオーという人。
 1928年、フランスのパリでロシア系ユダヤ人の家庭に生まれたセルジュ・ゲンスブール(エリック・エルモスニーノ)。幼い頃から容姿にコンプレックスを持ち、画家を目指すも挫折、やがてキャバレーでピアニストとして働き始める。そして、自ら作詞作曲し歌手デビューを果たすや評判を呼び、ついにはエディット・ピアフやアンナ・カリーナといった人気スターに楽曲を提供するまでに。そんなトップ・スターとなったゲンスブールは、やがてブリジット・バルドー(レティシア・カスタ)と出会い、恋に落ちるのだったが…。
("allcinema online"より抜粋)


 セルジュ・ゲンスブールは童貞の頃の僕のヒーローだった。
 美男子ではないけど、くらくらするほど匂う父性、幼児性、タバコ臭さ、つまるところダンディズム。めぐるめくフランスのスーパースターたちを抱いて抱いて抱きつくしたエロオヤジっぷり、それでいてオシャレな雰囲気を失わないというまさに"童貞が自慢されたい汚い大人像"。僕もビッグになったらオッサンになるまで若い綺麗な女優を抱いて自分色に調教して、死んだら交通渋滞がおこるほどの大それた葬式をやってもらうんだと、実に童貞らしい夢を抱いていた。


 ところでセルジュ・ゲンスブールという人物は、なんというか実在感がない。チャップリンやキムタクやシュワちゃんやブルース・リーや渥美清やイチローやジョン・レノンなどスーパースターによくある漫画のキャラクターのような、ドラえもんやバットマンと大差ない存在だ。
 そんな理由で、やがて大人になった僕のなかではいつの間にかセルジュ・ゲンスブールはとても好きな存在ではあるが、憧れの存在ではなくなっていた。

 本作はそのようなセルジュ・ゲンスブールの持つ漫画っぽさを描き、それ故の楽しさや魅力、そしてそれ故の悲しさや苦悩を描いた映画だと思う。


(1)本作のジョアン・スファール監督は漫画家だという。漫画と言ってもいわゆる「バンドシネ」、ルーブルに飾られてしまうようなやつで、「少年ジャンプ」とはちょっと違うタイプの漫画であるが、それでも漫画は漫画。彼が漫画だけでなく映画で本作を表現した意味はなんだろうか。
 それは音楽を流すためだと思われる。なぜなら音楽家を主人公にした物語であるから音楽を流したかったのだろう。漫画は音は出せるかもしれないが特定のメロディーを奏でるのは困難だ。
 この物語はそんなことを思ってしまうほど漫画っぽい

 それもそのはず、この物語は、本作の冒頭、不細工だからと女の子にフられた冷めた少年が煙草を吸いながら、そのあと2時間ずっと夢想しているだけという読み方もできるからだ。
 少年はスネてタバコを吸う。するとまるで少年の漫画のような妄想を具現化するように、タバコの煙はフリピュス伯爵へと変化し漫画で描かれたパリの街を徘徊する。フリピュス伯爵とはセルジュ・ゲンスブールの分身、彼のつもりつもったコンプレックス(不細工なユダヤ人であること)が破裂してその反動でうまれた音楽とタバコと美女を愛し破壊する怪人、彼の漫画っぽい人格のアイコンだ。この作品全体を見渡すと、この冒頭数分を、もう一度丁寧に焼き直しているにすぎない。
 なので序盤は丹念にセルジュ・ゲンスブールの少年時代を描き、大人になっても要所要所で少年時代の彼が出てくる。
 つまりこの映画は不細工なユダヤ人少年の「怪人と化して世界と世界中の女を見返して」やるんだという妄想の物語なのだ。
 だから漫画っぽいし、漫画家が撮ることに意味があるのだ。


(2)セルジュ・ゲンスブールの漫画のような人生は楽しくキュートでゴージャスで、哀しいまでに孤独だ。

 彼はほとんど漫画の中の登場人物みたいなものだからヒーローにもなれるし何しろモテる。
 例えば何も努力せずともどんどん名曲は生まれるし、向こうから勝手に有名女優や歌手が裸になってくれる。まるで『SOMEWHERE』の主人公、いやいや『マチェーテ』のようだ。裸のブリジット・バルドーと共に歌う『 コミック・ストリップ - "Comic Strip"』の可愛らしさ、ゴージャスさ、エロさはとても印象的。

 しかしながら漫画のキャラクターゆえに彼は誰からも理解されない。
 美女をとっかえひっかえ、生活感など皆無で、やることなすこと破壊的で妙にセクシー、そのような地に足がつかない彼の性格は、恋人にも理解されず、彼もまた他者を理解できない。父親の死よりも、彼を無邪気に信頼してくれた飼い犬の死で号泣してしまうほどだ。
 もちろんセルジュ・ゲンスブールだって人の子だ。『ソーシャル・ネットワーク』の超天才ハッカーだって、『スプライス』に登場する化け物ですらそうだったように、孤独は寂しいし怖いものだ。

 それゆえ彼もジェーン・バーキン(ルーシー・ゴードン)との出会いによって、子供をあやし、妻とアラン・ドロンの共演に焼き餅を妬くような地に足がついた生活を送ることになり、彼の漫画的な人格の象徴を具現化したキャラクターのフリピュス伯爵とも縁を切る。

 しかし、そのような伝説的な夫婦生活すら長くは続かず、彼は何かに急かされるように結局フリピュス伯爵と和解、彼と一緒にまた空中をふわふわと浮いてしまう。それはまるで『マイ・バック・ページ』の地に足のついてない感じに似ている。
 そしてまた誰からも理解されない孤独な旅がはじまる。ジェーン・バーキンとは別れ、61歳の時アジア系の21歳の美女バンブー(ナチス将校の子孫でもある)と交際をはじめ、フランス国家をレゲエ調で歌うような挑発的な曲作りを再開する。そして他者をはねのけていく。

 "彼を急かす何か"とは、やはり子供の頃からずーっと抱いていた不細工であったりユダヤ人であったりとしてのコンプレックスからくる反骨精神・復讐心・エンターティナー精神なのだろう。何にせよ子供っぽく童貞っぽく漫画っぽい感情だった。
 生涯子供のような漫画っぽい想像のなかで生き、生涯漫画のキャラクターであった彼に、平安や幸福はあったのだろうか。作品は観客にそう問いかけているようだ。


(3)まとめ
 童貞の頃僕がセルジュ・ゲンスブールに憧れてたのは、コンプレックスを逆手にとってオシャレにモテまくる彼がまるで漫画のヒーローのようであったからであり、しかし僕が彼に憧れなくなったのも彼があまりに現実離れした漫画っぽいキャラクターであったからであった。
 彼がフランス中の美女を抱き、国民的なポップソングを作り、そして一方で死ぬまで誰にも理解してもらえなかったのも彼がコンプレックスだらけの子供が夢想した漫画のようなキャラクターであったからだった。

 このように、『ゲンスブールと女たち』はヒーローの持つ漫画っぽい栄光と、それゆえにそれに表裏一体のように付随する"孤独"を描いた作品であると感じた。



 不満点はジェーン・バーキンはちょっと貧相で貧乏くさいところとか、フランスギャルは野暮ったいところが似ていたけど、それこそ漫画っぽい美しさが欠けていたところ、むりに実在の人物に似せなくてもいいんじゃないかなって。まあ作品の主題をはっきりさせるため彼女たちの漫画っぽさは敢えて省いたともとれますが。セルジュの漫画っぽい恋愛事情を描くためにバルドーやグレコは漫画っぽかったし。バーキンのパンチラしながら振り返るシーンがステキでした。この女優さん(ルーシー・ゴードン)、この撮影後すぐ30歳の若さで亡くなってしまわれたそうですね。
 あとセルジュ・ゲンスブールのどん引きするくらいの変態性が描かれてなかったところとか。

 バンドシネっぽい漫画チックな世界観や手法がとても好きで、手元においておきたい作品ではあります。
 綾波レイレベル。

 次回はドニー・イェン師匠がマッチョに処刑するぜ『処刑剣 14 BLADES』の感想。

テーマ:映画館で観た映画 - ジャンル:映画

  1. 2011/06/10(金) 02:37:32|
  2. 映画カ行
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『これでいいのだ!! 映画★赤塚不二夫』はむしろ赤塚不二夫のことを描いているのだ。

赤塚不二夫

 最近、更新が全く出来ずに申し訳ありません。
 そういえば、今回で映画感想200本目だそうです。よく凝りもせずにやっていますね。
 そんな200本目はよりにもよって『これでいいのだ!! 映画★赤塚不二夫』の感想です。

 観に行った映画館は新宿バルト9。朝イチの回しかやっていなく早起きして観に行きましたが、観客はぼくをいれて4人だけでした。なんか勝負に来たかのような中年男性4人。前売り券を500円で買ってみました。


概要:2011年の日本作品。長年漫画編集者をやっていた武居俊樹の書いた『赤塚不二夫のことを書いたのだ!!』を劇映画化。監督はこれがデビュー作となる佐藤英明。脚本は『踊る大捜査線』の君塚良一。
 1967年、大手出版社小学館の入社式。そこに現われたのは、『少年サンデー』の看板作家・赤塚不二夫(浅野忠信)。イヤミの扮装で厳かな雰囲気をぶち壊すや、彼の音頭で社員全員が“シェー”のポーズ。大好きな少女漫画を手掛けることを夢見て、期待を胸にこの日を迎えた新入社員の武田初美(堀北真希)は、あまりのことに呆然と立ちつくすばかり。しかし、そんな初美のことを、赤塚が見逃すわけもなかった。やがて赤塚の担当となった初美は、赤塚の強烈な手ほどきを受ける中で、意外にも秘められたバカの才能を開花させていく。
("allcinema online"より抜粋)


 このブログでもちょくちょく書いてはいたけれど、赤塚不二夫のファンである。尊敬すらしている。
 男、女、オカマ、オナベ、大人、子供、病人、障害者、権力者、犯罪者、貧乏、金持ち、ブス、美人、庶民、有名人、他人、身内、右翼、左翼、そして彼らにまつわるすべての事件、すべての事象をことごとく満遍なくおちょくり、すべての既成概念をしっちゃかめっちゃかに覆し、それを笑いに転化し「そのすべてはナンセンスである」と言い切ってしまう赤塚不二夫の漫画はある種の宗教や哲学であるとすら思う。


 そんな彼と彼の編集者"男ドブス武居"との関係を描いた『赤塚不二夫のことを書いたのだ!!』を物語映画化した本作は、なんとなく分かってはいたが、ひどく陳腐で杜撰でどうしようもない映画――なのだが、その杜撰さが一周回って赤塚不二夫のナンセンスさをどこかで再現してしまっているというマジカルな作品であった。今回はそこを解説。


(1)本作を構成するすべては"悪い意味で「ナンセンス」"である。

 a.まずギャグが"悪い意味でナンセンス"。
 一応コメディ映画の体裁をとっている本作であるが、2時間の間4人の観客の誰からも失笑以外クスリとも笑いがもれなかった。それもそのはず、本作はただの一言も面白いことを言っていないのだ。これは凄まじい。スベっているとか、わかりにくいとかそういうのではなく、ジョークが描かれていないのだ。どんなシリアスな作品だってちょっとしたユーモアはあるはずなのに、本当にこれっぽっちもないのだ。
 本作がそれでもコメディ風に見えるのは、登場人物たちが取って付けたように「シェー」や「タリラリラン」をやっているという点、またそれを含め登場人物が彼ら自身が面白いと思ってニヤニヤしながらやっていることがぐだぐだ続くからだ。
 たまに忘れている人が多いっぽいんだけど、物語において登場人物が笑えることは、受け手にとってはギャグでは一切ない。
 観客としてはとなりの座敷で知らない人たちがやたらと盛り上がっている飲み会の席のような感覚で漫然と登場人物たちがニヤニヤしながら「タリラリラン」と言ったり、シェーのポーズをとるのを眺めることとなる。


 b.続いて演出が"悪い意味でナンセンス"。
 自主制作映画なんかを作ったことがある人はわかるだろうけど、脚本に書いてある文字の上ではそこそこ会話っぽいものが成り立っても、実際に喋ってみると不自然だったり、アクションと台詞を同時に進行させると台詞が長すぎたり短すぎたりで、どうも間がもたなかったりする。
 で、まあそこら辺の打開策としては、いちばんに「そんなに台詞に頼らずできる限り俳優のアクションや、言いたい事を観客が連想してくれるような映像で見せる」というのが最重要で、さらには「もたない間を編集でカットする」なんて暴力的な編集テクニックもあったりする。
 しかしながら本作はそんな演出の基本がまったくできていないのだ。
 「そんなに台詞に頼らない」というのはさすがの『踊る大捜査線』の君塚良一先生、どだい無理な話で、重要な要素は全部台詞で説明している。悲しいなら「悲しいよ~」と言わせ、怒ったときは「もう怒った」と言わせる。変な話、もうそこらへんは諦めているっていうか敢えて突っ込むのもバカバカしいのですが、問題はそれ以上に深い。
 なんと「悲しいよ~」しかセリフがない。それしか言わせないんです。それ以上のセリフがない。おそらく「悲しいよ~」とか「もう怒った」以外の台詞が脚本上に書いてないんです。そのうえカメラワークがいい加減だからセリフなしの長回しには耐えられそうもない。
 だから俳優たちは一生懸命アドリブを加えて間をもたせようとするのだけれども、主人公は浅野忠信と堀北真希、すごくアドリブが苦手なタイプの俳優なわけで、これがまた目もあてられない。
 例えば浅野忠信が母親石田あゆみを誉めたたえるシーンは「満州はさあ、あの頃死体がたくさんあってさあ、母ちゃん頑張ってさあ、母ちゃんほんとすげえんだよ、母ちゃんありがとう、母ちゃんありがとね」みたいなまったく意味のない単語をぶつぶつ譫言のように喋らせていたり、その後石田あゆみが死んで浅野忠信がやたら顔色のいい彼女の死体にしがみつき泣き叫ぶ病院のシーンも同様の譫言。
 会話シーンも一生懸命間をもたせようと「え~本当ですか~?」「ホントホント」「へ~本当なんだ~」という無意味すぎるやりとりが繰り返される。

 また編集テクニックに関してもぶっとんでいて、俳優たちがセリフを喋るタイミングまでぼけーっと待っているのだ。セリフを発するタイミングになるとそれまで突っ立っていた俳優にフォーカスが合い急に怒ったり悲しんだりの演技をはじめる。
 さすがにそれはまずいと感じる俳優なりスタッフもきちんといるのだろうけれど、この制作陣がそんな彼らの要望にいい演出を与えてくれるはずもなく、例によって不自然なアドリブをさせられている。例えばひどいのだと、ラーメンの屋台のシーン。店主はすでに完成しているラーメンを目の前に置いて、客に給仕せず何故か背中におぶった赤ん坊をあやしている。で、カメラが彼に近づくと突然「はい、出来上がったよ~」なんて言ってラーメンを客に渡す。あのラーメンは3分放置しておけば出来上がるインスタントかなんかなのだろうか?


 c.で、物語もテーマも"悪い意味でナンセンス"。
 以上のような杜撰すぎる演出でロクな物語が紡がれるはずもなく、物語もテーマも不自然のオンパレード。

 例えば何故か"男ドブス"から美女に設定が変更になった堀北真希演じる編集者武田はマジメという設定なのだけど、入社式で無理やりシェーのポーズをとらせようとした赤塚不二夫をグーで殴り倒し、彼の担当になったならば「こんな下品な漫画、嫌いです」とか「私はこーんな漫画(少女漫画)が好きなんです」とか言う社会性皆無のバカ女っぷり。で、赤塚不二夫は彼女に無理やり酒を呑ませて「よし、これでこいつもバカになったのだ」なんて言う。さらにバカが足りないとわかるともっと呑ませて「タリラリラーン」と言わせて「お前も相当バカになったな」なんて言う。いや、その女登場時よりずーっとバカですから!

(※)二度目に泥酔するシーンで、武田が赤塚不二夫と手を握り飲み屋街の人々をスローモーションにて殴り倒していく実に不可思議なシーンがあるのですが、何故か中年男性しか殴らないんです。女性や老人は殴らない。なんかその赤塚不二夫が最も嫌悪しそうな差別意識に、この映画の底の浅さが伺えると思う。

 で、武田は赤塚不二夫に『天才バカボン』を超える作品を作ってもらおうとするのだけれど、一緒にオカマバーで呑んで、何が楽しいんだかまったくわからないダンスを踊っていたら(タイムリーにも『白鳥の湖』ですよ!!『ブラック・スワン』より禍々しいですよ!!)赤塚不二夫は勝手に、何の伏線もなく突然『もーれつア太郎』のアイデアを閃く。武田なーんにもしてないんです。
 また人気キャラクターニャロメを閃く時もひどい。「何か強烈なキャラクターが欲しいな」なんて言っていた武田がほんの数秒で漫画の片隅にいた猫の絵をみつけ、なんの脈絡もなく「このキャラクターよくないですか!?」と。したらば赤塚先生は「ああこの猫はね…」と、野良猫をとっつかまえて手足を縛って川に放り投げて遊んでいた虐待シーンを回想。したらば次のシーンでニャロメは急に人気キャラクターになっている。はあああ!?

 まあ気になった点を書きましたが、本当に最初から終わりまで全てがこんな調子。
 そんなわけで、テーマの「バカになること」ももちろん限りなく浅はか。実際の赤塚不二夫が言う「バカ」とは先述の通り、「世の中は様々な苦難や差別に満ち溢れてそれに苦しんでいる人も多いだろうけれど、バカになってみればそんな身にふりかかる問題など笑い話、世の中はハッピーに見えるよ」ってな具合のある種の哲学なのですが、本作における「バカ」とは「生真面目でいちゃ面白い漫画は作れないよ」程度の実に規模のショボいどうしようもないレベルでの「バカ」なんです。
 だから作中の赤塚不二夫は、現実の彼の作品の「バカ」とは違い、「バカ」をビジネスとしてしか見ていなく、不謹慎なギャグも出来ないし、道行く人を満遍なく殴ることもできないのだ。ちょっと強く厳しく言ってしまえば赤塚不二夫に対する愚弄だと思います。

 このように本作は「バカ」や「これでいいのだ」といった赤塚不二夫のアイデンティティを、杜撰でもやる気なくても金儲けしか考えていなくても大丈夫といった甘えのための免罪符程度にしかとらえていなく、細かい演出テクニックからテーマ性まで一事が万事、”悪い意味でのナンセンス”に満ち溢れているのではないかと言える。


(2)が、ここで一つの"奇跡"が起きているのだ。
 終盤、スランプに陥った赤塚不二夫は旅館に泊まり込んで『レッツラゴン』を執筆するのだが、そこで何が何だかよくわからないけど『レッツラゴン』のいちエピソードが実写で再現される展開になる。
 で、ここであまりに杜撰でチープな作劇が逆に功を成して、赤塚不二夫がたまにギャグでやる"あえてヘタクソに描かれた子供の落書きのようなむちゃくちゃな世界観"を再現してしまっているのだ。赤塚不二夫が制作に携わっている『下落合焼とりムービー』くらいのレベルで赤塚不二夫っぽいのだ。

 それまでは今まで当ブログで扱ったあの若手人気俳優の監督作品ぶっ飛びリメイク映画などに比べてもひどい映画だったのですが、あまりにひどすぎるとこういうラッキーパンチがあるんだなと、少しだけ本作が好きになりました。


 以上、『これでいいのだ!! 映画★赤塚不二夫』はあまりに杜撰すぎるチープな作りのために、逆に赤塚不二夫のヘタウマ漫画を再現してしまっているマジカルが起きていると感じた。


(3)良かった点は『誰かが私にキスをした』よりも堀北真希が可愛いかったこと。役の上でも、おそらく実際にも嫌々やらされている感がなんかむしろエロチック。


 最近、この手の映画を扱っていなかったので、刺激を頂きました。最近は面白い映画を劇場で見るのと同じくらい、酷い映画を劇場で見るのが好きです。ここまでひどいのはちょっと珍しいのでいち体験としてオススメしておきたいです。

 ジオング(モビルスーツ)レベル。

 次回は、やっと観に行きましたので前回予告した『名探偵コナン 沈黙の15分(クォーター)』の感想を書きます。

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  1. 2011/05/30(月) 01:53:02|
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