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『さや侍』は"自己愛"と"笑い"の親密な関係だよ。

saya

 こんにちは。今回はダウンタウンの松本人志が監督した第三作目『さや侍』の感想です。以前、こことは違うブログでダウンタウンの文句を書いたら松本人志信者にスゲー怒られたことがありまして、以来恐々しておりますが、この映画などは信者の方々はどう思われているのでしょうね?
 ちなみに個人的には『大日本人』はけっこう好きです。


 観に行った映画館は前回に引き続きTOHOシネマズ府中。14日の1000円の日でした。こちらはけっこう混み合っていました。20~30代が多めといった感じでしたが、もっと若い人もお年寄りもいらっしゃいました。


概要:2011年の日本映画。監督・脚本は『大日本人』『しんぼる』の松本人志。
 ある出来事をきっかけに刀を捨て、さやだけを持つようになった武士、野見勘十郎(野見隆明)。一人娘のたえ(熊田聖亜)を連れ、無断で脱藩し追われる身となっていた。しかしついに多幸藩の追っ手に捕らえられ、殿様(國村隼)の前に差し出される。ところが、変わり者で知られる殿様が勘十郎に処した刑は“三十日の業”。それは、母を亡くして以来、笑顔をなくした若君を、一日一芸で30日の間に笑わせられたら無罪放免、できなければ切腹というものだった。これまで多くの罪人が挑戦したものの、誰一人成功していなかった。勘十郎もあの手この手で笑わせようと奮闘するが、まるで手応えなし。そんな勘十郎の無様な姿に、たえの不満は募るばかり。すると、見かねた見張り番2人(板尾創路・柄本時生)も芸を一緒に考え出し、勘十郎の挑戦を応援し始めるが…。
"allcinema online"より抜粋)


 ダウンタウンは面白いと分かっていながら苦手な時期があった。
 苦手な理由としてまず僕がとにかく天の邪鬼だったため、皆が口を揃えて大好きという彼らに否定的でいたかったからというどうしようもないものが一つ、それとちょっと変な人を指をさして笑う彼らがイジメっこのようで嫌な感じがしたからというのがもう一つの理由。
 ただそのダウンタウンの笑いを成す"攻撃性"は弱者や変人だけではなく、立派な先輩や人気アイドルにまで及んでいるわけで、当時の僕は、どちらかというと『メアリー&マックス』のごとく全人類に対してイジメを宣言しているダウンタウンのスケールの大きさを感じられなかったのだと思う。
 で、最近またあまり興味がなくなっている。そんな真面目に観ているわけではないのだが、なんていうかそんな彼らを成り立たせていた"攻撃性"が彼らから感じられなくなっているのだ。パンクを感じられないのだ。


 今回取り上げる『さや侍』の予告を見たときも、嫌な予感がした。お涙頂戴路線を思わせる雰囲気に、彼らの"攻撃性"の根幹を成す"照れ"を感じなかったからだ。そして後述するが、案の定本作は大した映画ではなかった。しかし本作で描かれる"お涙ちょうだい"に、「笑い」に対する根源的な何かを感じなくもなかった。今回はそんな論旨。


(1)「照れ」と攻撃性の関係について。
 松本人志の"攻撃性"は"照れ"から来ていると思う。小学生男子が好きな女の子を叩くような幼稚な攻撃性が笑いを生み出している。
 愛おしいもの、優しいもの、かわいいもの、ふとした日常にこそ照れて攻撃性を見せる。我々は肯定されて然るべきそれらのものをぐらつかされて困惑し、笑う。

 そこにおいて本作はあまり攻撃的ではない。まるで刀を失い鞘だけを構えた侍のように優しい。

 本作前半で良かった点は主人公野見勘十郎(というか撮影と知らされずに身体をはったギャグをさせられている野見隆明)の優しさや一生懸命さに対する"攻撃性"とその裏にある”愛情"のバランス。野見勘十郎が様々な体当たりの芸にテンポよくいどんでいく中盤の展開などは、観客は彼を指差して笑いながらも、例えば彼を愛する娘たえの存在などをきちんと観客に感じさせたりとどこかで愛おしい視点を用意しているため、観客は不安と安心の揺らぎを与えられ笑うことができる。

 が、終盤に向かうに連れて「愛おしく思う視点」「攻撃性」のバランスがコメディのそれではなくなってくる。
 例えば野見勘十郎に対する視点。松本監督の彼(というか彼に投影している自分自身)に対する愛情が次第に膨れ上がってきてしまい、コメディとしての基本的な骨子を打ち砕いてしまっているのだ。
 『これでいいのだ!! 映画★赤塚不二夫』の感想でも書いたが、作中で面白いこととされていることは、観客にとってはまるで面白いことではない。
 間抜けな姿で一生懸命頑張る野見勘十郎を殿様たちが「しらー」っとした視点で眺めるだけの前半はきちんと笑えたのだが、次第に彼が人気を帯びてきて彼の行動に作中の観客たちは腹をかかえて笑い、あまつさえ応援したり感動したりすらしてしまう。こんな描写を入れられたら観客は笑えるはずはなく、劇中とは相反して劇場内は序盤の殿様や若君のごとく「しらー」っとした空気につつまれてしまう。「実は冷静になって見れば大して面白くなくなるんじゃ…」と「笑い」に懐疑的になる。そうなったらどんなことも笑えなくなってしまう。
 たえは決して笑わない若君に「もっと心を開いて笑おうよ、どんなことでも笑えるよ」といったことを言う。笑えないことを観客の気持ちの持ちようのせいにするのは芸人として決して言ってはならない言葉だ。

 娘たえに対してはさらに"攻撃性"を見せないどころか散々甘やかしてすらいる。
 例えば牢獄の外で父親を見ている彼女を門番の板尾創路が「仕方ない一緒に入れてやれ」といったり、若君の部屋に忍び込んであやしげな薬草おいていっても見つからなかったり、なんかため口で喋りかけたり。(関係ないけど、あんなに大事にされていた若君を小石で怪我させたのに、それに関しても野見たちはなんのお咎めもないんですね、娘のため口もそうだけど、そういうことで簡単に首をはねようとする権力の横暴さがこの物語のルールを成しているのに)

 このように本作は"愛おしいもの"(それは野見=松本人志自身でありたえとたえの父親である松本人志自身)に「照れ」「攻撃性」もなく、そのまま愛をもって描いているため、笑いを相殺してしまっている。
 ――だが笑いを三〇年も続けて日本のコメディのトップに君臨してきた松本人志がそんな初歩的なミスをするだろうか?


(2)続いて"攻撃性"を封じ、笑いを殺したことに、実はある程度意味があるのではないかと推測したい。

 本作の最後、野見勘十郎はついに命を保証されるのだが、自ら腹を切って自害する。その意味を考えてみたい。

 前2作とは違い、本作は松本人志監督は主演を控えており、それにより主人公と自身に一定の距離をおいているように見えるが、やはり野見は監督の分身、「笑い」に命を賭け、「笑い」に殉じていく様は観客としても野見に松本人志を重ねざるを得ない。

 妻の死のショックから、刀を捨て鞘だけを持っていた野見勘十郎は、やがてこの”三十日の業”により「笑い」という刀を持ち、侍として生き返った。
 やがて彼は何を言ってもやってもファンにゲラゲラと笑ってもらえる芸人となる。

 そして殿様にまで気に入られた野見勘十郎は、どんなにつまらないことを言っても笑ってもらえるということで切腹を免れることになる。なんでもいい、どんなにつまらなくても一言ギャグを言えば笑ってもらい許されるのだ。

 しかし彼は切腹する。つまらないギャグでも人気だけで笑ってもらえるよりは死んだ方がマシだと。
 彼は侍(芸人)としてのプライドを守ったのだ。そこには鞘だけではない、プライドという"一本の刀"を持った侍がきちんといた。

 このように、後半の観客がしらけてしまう笑えない展開は、終盤芸人としてのプライドを描くための布石ととれる。(もちろん、結局それは松本人志のナルシシズムであり、あんまり褒められたものではないのだが)

 ――しかし彼の「切腹」による死は、実はそのプライドすらも殺しているのではないだろうか。


(3)ニーチェは「神は死んだ」として、性欲と暴力と陶酔を人の手に解放した。それは人間の本質であり、その本質を描くのが芸術だ。

 さて、ニーチェに合わせるならば、野見勘十郎――松本人志は、性欲(妻)を失い、攻撃性(刀)を捨て、終盤残されているのは芸人としてのプライド(陶酔)と――おそらく親としての子に対する愛だけであった。(※)
(※)娘に対しては最後の最後まで一度も"攻撃性"を示すことはなく、優しく見守るような視線を絶やさず、話のリアリティラインを寓話的にしてまで彼女の幸福を描いた。


 そして芸人としてのプライドを切腹することで散らせた彼は、その自己陶酔すら殺した。

 残ったのは"親の愛"。先日愛娘が生まれたという松本人志が描く"子に対する愛"だ。
 死んだはずの野見勘十郎はたえの前に幻影としてひょっこり顔を出し彼女を子供らしく笑わせた。そこには決して笑わなかったもう一人の子供若君の笑みも描かれている。
 そこに描かれているのは芸も照れも攻撃性も陶酔もない、"親が子を思うだけの愛"からくる、最も根源的かつ本質的な「笑い」ではないだろうか。「いないいないばあ」のような、親が子供に対して笑って欲しいと願う純粋な愛、それが笑いの基本ではないか。
 ――殿様がどんなに変人になろうと悪になろうと息子が笑うことを求め、また松本人志の"攻撃性"の根源たる「照れ」が、やはり愛から来たものだったように。


 以上、本作で松本人志は、得意とする"攻撃性からくる笑い"を封印し、笑いに来たはずの観客をシラけさせまでして、それに対する芸人としての美意識を描いたように見えた、しかし更に、その芸人としての美意識すら失った後に、たった一つ残された最も本質的で根源的な"笑い"の形「親が子を思うゆえの行い」を描いていたのではないかと考える。


(4)やろうとしていることは面白いし、何より現状のお笑いチャンピオンとして君臨する松本人志が痛々しくて笑えないものを敢えて描いたという点、根源的な笑いは攻撃性ではなく愛ということを描いたことだけでこの映画の意味はあると思います。が、物語映画を語るにはいくらなんでも下手っぴ。不器用すぎるなあと思います。
 例えば、野見の奮闘に感動するには、感情移入を拒んだ野見勘十郎のキャラクターや、やたらご都合主義的な展開や最後までコントの延長上のようなリアリティラインが邪魔でまるで感動は出来ないし、撮影上のミスが多かったり、説明過多なあざとい最後の手紙朗読シーン、大袈裟すぎる観衆の描写などなど子供騙しのテクニックが邪魔して物語に集中出来ない。(*)
(※)"撮影上のミス"とは例えば次々と障子を破っていく野見の"業"はいちばん大切な若君に全然見えていないみたいなそういう類いのもの、"ご都合主義的な展開"とは、突然何の脈略もなく柄本時生が聞き出してくる「若君様は風車が好き」という情報や、終盤突然都合良く吹き出す風、”リアリティライン”とは時代劇としてはありえない時代考証(野見から香る江戸時代の臭さは良かった)、大袈裟な観衆とは結局まるで活かされていない賞金稼ぎ三人組(りょう、ROLLY、腹筋善之介)などを指す。

 あと"笑い"に殉じるための切腹をかっこ良く描いたり、「笑い」にせよ「親子」にせよ結局自分のことしか描いていないナルシストっぷりは小栗旬くんのあの映画を彷彿とさせます。


 そんなわけで松本人志の愛に溢れるユーモアをひっそりと感じたのですが、単純にナルシスティックな映画とか、泣ける映画とか捉えると、個人的にはあんまり面白くない気がします。要注意。個人的には松ちゃんにはもっと既成の"映画"にこだわらずにコント的なものを見せて欲しいです。オムニバスでもいいから。それこそ『大日本人』みたいな。

 IMALUちゃんレベル。

 次回は是枝裕和監督の最新作で主演はなんとまえだまえだの『奇跡』の感想です。

テーマ:映画館で観た映画 - ジャンル:映画

  1. 2011/06/23(木) 01:58:52|
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