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「少年ジャンプ」と水木しげると映画とおもちゃと特撮を愛します。

『アトムの足音が聞こえる』は希代の大嘘つきだよ。

atom

 今回は『乱暴と待機』などの冨永昌敬監督のドキュメンタリー作品『アトムの足音が聞こえる』の感想です。

 観に行った映画館はユーロスペース。公開から少し経っているのもあり、レイトショーというのもありそこまで混んではいませんでした。6人くらい。なんか話からするとアニメ業界っぽい30代くらいの男性が何人かいました。


概要:2011年の日本映画。『パビリオン山椒魚』『パンドラの匣』『乱暴と待機』の監督が、伝説の音響デザイナー、大野松雄の偉大な足跡を振り返るドキュメンタリー。手塚治虫による日本初のTVアニメ「鉄腕アトム」で、あの愛らしいアトムの足音を生み出し、後の音響効果の世界に多大な影響を与えた音の神様、大野松雄の音作りの秘密に迫るとともに、彼の知られざる波瀾の人生を追っていく。("allcinema online"より抜粋)


 本作から漂う"心地よい嘘の匂い"はなんだろうか。
 例えば『ファーゴ』『松ヶ根乱射事件』の冒頭に示された「この物語は実話である」という真っ赤な嘘を気づいたときにその制作者と共犯関係になったように感じることでの喜びとはまた違う。本作は一応事実を記録するという前提の上に成り立っているドキュメンタリー映画であるからだ。
 そのような本作独特の「嘘」について考えてみたい。


(1)本作はその前半を音響デザイナーとはどのような仕事をするのか、そして音響デザイナーのパイオニア的存在大野松雄とはどのような人物かを、日本アニメーション黎明期から活躍してきた音響デザイナーやアニメーション関係者の話を交えながら解説していき、後半になってようやく大野松雄が登場し、彼の現在を描くという構造となっている。

 前半で語られる音響デザイナーとは"嘘をつく仕事"である。
 いや、嘘を嘘でもって本当っぽくする仕事だ。
 創作物において「リアル」と「リアリティ」は違う。アニメでウグイスの鳴き声を表現したいとき、実際のウグイス(リアル)の鳴き声を採集して鳴らしてもなんだか不格好である。本作によるとウグイスの鳴き声は50円玉を笛のように使って鳴らす。それは実際のウグイスの鳴き声とは微妙に違うが、そのディフォルメされた鳴き声が、人が描いた絵という嘘だけで構成されるアニメの世界では実在性を帯びて鳴り響く。このように嘘の世界を嘘をもって援護射撃し、いつのまにか実在感を与えているのが音響デザイナーの仕事と言える。

 またもっとわかりやすい例として本作のタイトルになっている「足音」について考えたい。鉄腕アトムやカツオやタラちゃんは存在しない。あんな時代錯誤で顔の大きな年をとらない子供たちは実際にいたら化け物だ。
 彼らは歩くとき「ひょっこひょっこ」「きょろろろん」と可愛く鳴ったり必要以上にドタバタ鳴る。そんな音は現実では決して鳴らない。鳴ってたらうるさくてしょうがないし、なんか気持ちワルい。
しかし彼ら”嘘の存在”はその嘘八百な音によって実在性を増す。
 タラちゃんがリアルな足音で歩いていたら不自然であるが、あの珍妙な可愛らしい音で歩くから親しみやすい僕らの隣人タラちゃんが実在性を持ってくるのだ。


(2)大野松雄はもっと嘘くさい存在であった。
 前半「恐い」だの「偏屈」だのと言われ、どんなに厳しそうな頑固オヤジが出てくるのかと思えば、登場した大野松雄は少年のような目をした愛嬌のある小さなおじいちゃんであった。

 彼は人里離れたという言い方が適切な山奥にある精神障害者用の施設で彼らと演劇をしていた。

 現実とは距離をおいたような山奥にて、現代社会と適合できない精神障害者たちと、まるで聴いたことのないような摩訶不思議なサウンドを奏でている図は超現実的とでも言うべきか、並々ならぬ存在感をもって観客の度肝を抜く。

 大野は「(精神障害者たちとの関係において)影響をあたえあう関係」と言っている。また「プロの仕事とはいい加減な仕事をいい加減と悟られないこと、いい加減にやった仕事が案外面白い結果を出すこともある」「いい加減にイメージできるか、できないか。厳密にイメージしちゃうと、狂ったらアウトだから」なんて言っている。
 およそ計画性のない"いい加減な踊り"(?)を舞う精神障害者たちは、大野の、そして観客の想像力を刺激させる。このことにより大野のエキセントリックな音は冴え渡り社会から不適合とされている精神障害者たちを圧倒的な実在感を持つ巨大な存在として演出しているのだ。

 彼はアトムの足音を超え、嘘みたいな場所で嘘みたい音を奏で嘘みたいだけれど本当以上に本当くさい空間を作り出していたのだ。


(3)大野は「いちど掴んでしまったら、その音は、この世に存在する音になってしまう。存在する音に、僕は興味がない」と言っている。彼は嘘しか吐く気はないのだ。

 大野松雄を描いたこの映画はドキュメンタリーなのに大野松雄のようになんだか嘘っぽい。

 例えば『市民ケーン』のごとく周縁からなぞっていきながら次第に核心に迫っていくやたら物語じみた構成。また例えば元ピチカート・ファイヴ野宮真貴の機械的なトーンやリズムの声と、ピチカート・ファイヴのような洗練されすぎた言葉使い(「あなたは知ってる」「あなたは知らない」ではじまるナレーションはドキドキする)。また例えば冨永昌敬監督らしい洗練されたビジュアルスケープや編集。

 これらの要素がドキュメンタリーを嘘っぽく見えるように飾っている。


(4)まとめ。
 創作という行為は総じて嘘をつく行為である。絵だって音楽だって舞踏だってそう。嘘をもって現実以上の何かを表現している。それはドキュメンタリーにしたってそうだ。人の手がある程度関わっている以上、真実ではなく、やはり嘘なのだ。
 本作に登場する大野松雄の、そして彼に影響をうけた音響デザイナーたちやこの映画自体の「嘘」という行いは、最も原始的で基本的で何より大事な芸術活動であるのだと思う。

 僕が本作から漂う嘘っぽい空気を心地よく思ったのは、「嘘をつきたい」という芸術の最も根源的な衝動に改めて触れたからなのかもしれない。

 以上、本作は音響デザイナー大野松雄を描いて、嘘をつくという当たり前すぎて忘れがちだが最も根源的な芸術活動を改めて描いた作品だと感じた。


 なかなか見応えがある作品です。「嘘」という原始的な行ないに強く刺激を受けました。

 にわみきほレベル。

 次回は話題作です。僕もずっと楽しみにしておりました『X-MEN:ファースト・ジェネレーション』の感想です。

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  1. 2011/06/16(木) 13:55:44|
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『アジャストメント』ヌルいニーチェだよ。

アジャストメント
 またブログほったらかしていた。ごめんなさい。
 今回はなんとなくお手軽に楽しめそうなハリウッド映画『アジャストメント』の感想です。

 観に行った映画館はTOHOシネマズ六本木ヒルズ。観に行った時期が少し遅かったのと、作品が地味目なのもあり、そこまで混んでいませんでした。客層は中高年の一人客が多めといった感じ。


概要:2011年のアメリカ映画。フィリップ・K・ディックの原作短編小説をサスペンスSFアクション風味に映画化。監督・脚本・製作は『オーシャンズ12』や『ボーン・アルティメイタム』などの脚本家ジョージ・ノルフィ。音楽はトーマス・ニューマン。
 将来を嘱望されていた若手政治家デヴィッド(マット・デイモン)はある日、美しい女性、エリース(エミリー・ブラント)と出会い心惹かれる。しかし、彼女との仲が深まり始めた矢先、彼は突如現われた黒ずくめの男たちに拉致されてしまう。彼らは“アジャストメント・ビューロー(運命調整局)”という謎の組織に所属し、人間たちがあらかじめ決められた運命から逸脱しないよう、超人的な能力で監視・調整を行う集団だった。そしてデヴィッドに、本来出会う運命にはなかったエリースとは今後決して再会しないよう強引に従わせようとするのだったが…。
("allcinema online"より抜粋)


 まず結論から言うと本作は大したことない映画です。もう全然大したことない映画です。
 ですが、さすがフィリップ・K・ディック原作というべきか、案外「運命」という概念に対する洞察の余地を残していていなくもない。


(1)先に不満点をあげようと思うのですが、先日の『ライムスター宇多丸のウィークエンド・シャッフル』で大体言われちゃったので、そこはほぼ似たようなことを簡単に並べていきますね。

 まず大前提として物語のリアリティとダイナミズムとフェアさがない。

a.リアリティが無い点について。
 本作は平々凡々とした日常にSFファンタジー的な概念が殴り込みをかけてくるような物語なのだが、その手の現実にはあり得ない物語を作る鉄則として"嘘臭くならない物語作り"が必要なのだけど、これがまあ嘘臭い。
 例えば主人公デヴィッドは、「実は君たちの運命は我々によって調整されているのだよ」といった運命調整局の伝えた衝撃の真実をすんなり受け入れて三年ものうのうと暮らしている。
 また物語の軸となる例えばヒロインのエリースとの恋も共感しにくい嘘くささを持つ。冒頭男子トイレに潜入しているエリースのエキセントリックさはまあ映画的ハッタリで許せるけど、デヴィッドはそんな男子トイレに忍び込んでいたエリースに対してほとんど警戒もしないで(有望な政治家なのに!)その場でキスしてしまうほど入れ込んだり、その後バスでの再会でデヴィッドの鳴り響くスマートフォンを勝手にコーヒーの中にドボンと捨てショートさせる非常識っぷりとか、自分の幸せのために結婚式当日に何も悪さをしていない婚約者を無断で置き去りにするとか、リアリティのズレっぷりが、ちょっと不気味に感じるほどズレていて、どうも彼らの恋を応援できない。


b.物語のダイナミズムが無い点について。
 例えば「運命調整局」の男たち、人の運命をアジャスト(調整)する超然的な存在である彼らだが、疲労のためうたた寝してミッション失敗するとか、一事が万事やたらめったらうっかりさんで、全然神がかった存在に思えない。
 あと超然的な彼らが何ができて何ができないのか明確にルール説明されていないから、いきなり「青のドアは移動出来る」だの「雨の日は行動出来ない」などどんどん知らない設定が飛び出してきていまいち話にのめり込めない。
 また運命調整局の仕事っぷりもなんだかしょうもなく、やれ主人公たちにキスをさせるなだとか、やれメールで嘘をつけだとか、妙にショボい。ショボいならショボいで『ミスター・ノーバディ』のようにバタフライ・エフェクト的な、そのショボい変更がやがて小川を伝って大河の流れを変えるような巨大なうねり(この物語の場合デヴィッドが将来大統領になり世界平和を導くこと)に繋がっていくみたいな展開なら良かったわけだけど、キスをさせないことで主人公は恋愛にのめり込むことなく大統領の道を邁進するんだとかなんだか因果関係のドラマ性が低い。
 あと鳴り物入りで登場した運命を暴力的に変更させるのを得意とするという"ハンマー"ことトンプソン氏(テレンス・スタンプ)のやることも、デヴィッドに嘘を織りませながら「あの女はやめておけ」と説得するだけっていうショボさ。


c.フェアさが無い点について。
 先述した「何ができて何ができないのかわからない」にも通じるのですが、運命調整局が、さっきまで「デヴィッドとエリースをキスさせちゃダメだ!」って言っていたのに次のシークエンスでは「エリースのダンスを見せちゃダメだ!」になって、それで最後にはまたキスさせちゃダメだってルールになって、また終盤しばらくしたら「キスさせちゃダメだ!」になっていたり(ていうかキス以前に二人はセックスしていたり)、どうも「このシークエンスでは何が困難で、その困難を克服することで何が得られるか」といったルール説明を後出しじゃんけん的にぽんぽん出してくるのがフェアではなく、よって観ている方もまるでハラハラできないし、なんか真面目に見る気が失せてしまう。

 他にもなんか安っぽいBGMとか、ださいカメラワークとか、「強固な運命」vs「ごく個人的な恋愛感情」といったせっかく燃えるストーリー展開がなんだか後半有耶無耶になってしまう点とか不満はたくさんありますが、まあ文句だけになっちゃうのもアレなんで、不満はここまで。


(2)でも本作が捨てがたい映画なのは「運命」というテーマに対して観客にちょっとした洞察を投げかけているからだ。

 「運命」というのは人にとって矛盾した概念である。
 運命は人の自由意志を限定するカミサマのパワーであり、その点において人は運命に恐れおののく。が、一方で運命とはカミサマからのプレゼント、その偶然なる幸運に人は喜び感謝する。
 本作でもデヴィッドは自由意志を守るべく運命調整局に立ち向かうが、一方でエリースとの偶然の出会い(*)を求める。
(*)劇中の説明によると、エリースとの出会いは運命調整局が定めた運命とは違うものだが、そもそも彼らは運命でくっつく定めであった、しかし無理矢理に二人は出会わないと調整した結果、その名残で二人は引かれあうとある。先述した「強固な運命」vs「ごく個人的な恋愛感情」という構図が有耶無耶になっているというのはここに問題があるのだが、ここは好意的に運命に対するジレンマの描写ととりたい。

 ところでこの映画、先述したようにいささかデタラメな作品ではあるのだが、そのなかにあってセリフだけは妙に気が効いていたりする。例えば冒頭の男子トイレでのデヴィッドとエリースとのやりとりとか、幼なじみの悪友チャーリー(マイケル・ケリー)との戯れあいのような皮肉合戦とか、ちょっと粋である。
 観客は最初セリフがうまい作品だな程度に感じるが、実はこの世界は帽子の男たちによって調整された世界だと知り、その芝居がかった洒落たセリフに戦慄する。
 これは自分の意志で発している言葉なのか、それとも言わされているシナリオ上のセリフなのか。フィリップ・K・ディックが得意とする"現実感の揺らぎ"だ。

 そしてデヴィッドは運命調整局が定めた「運命」に抗いエリースと結びつくのだが、実はそれすら更新された運命の掌の上であるという結末が訪れる。我々は何をやってもお釈迦様の手のひらの上ではしゃぎまわる孫悟空なのかもしれない。

 だが、運命を決定しているという、「運命調整局」の上司、「議長」とは何者なのだろうか。「議長」は最後まで登場しない。調整局の一人ハリー(アンソニー・マッキー)は「議長は特定の人物ではなくありふれた存在だ」と、それだけをいう。(劇中では名言されないが、運命調整局員は天使だし、「議長」は神を想像させる)
 何故彼は姿を表さないのか。何故彼は特定の姿を持たないのか。
 「ありふれた存在」――もしかしたら「議長」とは、我々のことかもしれない。

 全知全能の神によって完璧に構築された運命のなか、我々の自由意志はどこにあるのか悩んだ中世ヨーロッパにおいてニーチェは「神は死んだ」と言い、運命からの人間の解放をうたった。人は神を作り上げたように、運命も作り上げられるのだ。

 主人公が定められた運命に逆らって新たに運命を構築したように、運命を新たに決定して作っていくのは我々の役目だと、この作品は語っているように見える。そういえばデヴイッドは民主主義の政治家であった。


 以上、本作はお世辞にもいい映画とは言えなかったが、「運命に対してどうするべきか、誰が決定しているのか」というテーマに、真摯な態度とちょっとした深い洞察の余地があったりして、決してつまらない作品とは言えなかった。

 どんな映画でもつまらなかったの一言で片付けちゃ駄目だなということの好例のような作品でした。それ相応の楽しみ方がきちんとある。まぁテンポもよく、頭でっかちに考えなければそこそこ楽しめる映画だとは思います。

 内田眞由美レベル

 次回は『乱暴と待機』の冨永昌敬によるドキュメンタリー映画『アトムの足音が聞こえる』の感想です。

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  1. 2011/06/16(木) 12:32:46|
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『アンノウン』を見たかどうかは定かではないよ。

アンノウン

 今回は『身元不明』というタイトルで宣伝されていましたが、震災の影響でそのタイトルでは差し障りがあると、急遽原題の『アンノウン』というタイトルにされたサスペンスアクションの感想です。

 観に行った映画館はTOHOシネマズ六本木ヒルズ
 俳優も題材も地味めなこの手の映画にしては入りはそこそこでした。仕事帰りでしたが、一人客のサラリーマン
が多め。


概要:2011年のアメリカ映画。監督は『エスター』『蝋人形の館』『GOAL!2』のジャウマ・コレット=セラ。
 学会に出席するため、妻エリザベス(ジャニュアリー・ジョーンズ)とベルリンに降り立った植物学者のマーティン・ハリス博士(リーアム・ニーソン)。ホテルへ着いたところで忘れ物に気付いた彼は妻を残し、タクシーで空港へと引き返すことに。だがその道中、事故に見舞われ、4日間もの昏睡状態に陥ってしまう。目を覚ました病院で本来の目的を思い出し、学会が開かれるホテルへ急ぐマーティン。しかし、彼を待っていたはずの妻はマーティンを“知らない人”と言い放ち、彼女の傍らにはマーティンを名乗る見ず知らずの男(エイダン・クイン)がいた。妻との新婚旅行の写真まで持つこの男に対し、所持品が携帯電話と一冊の本だけで警察にも身分を証明できず混乱と焦燥を募らせるマーティン。しかし、何者かに命を狙われたことから、この一件にうごめく陰謀の存在を確信する。タクシー運転手ジーナ(ダイアン・クルーガー)と元秘密警察の男ユルゲン(ブルーノ・ガンツ)という2人の協力者を得て謎の解明に奔走するマーティンだが…。
"allcinema online"より抜粋)


 まぁ今更言うこともないのですが、例によってネタバレだらけの感想です。
 ネタバレくらいで面白さが不安定になることなどないとは思いますが、本作はあまりにその肝心の結末がキモになっているので要注意してください。


 量子力学やらシュレーディンガーの猫やら京極夏彦の『姑獲鳥の夏』やら近々当ブログで扱う予定の『ミスター・ノーバディ』やら、哲学やSFでよくある話だけれど、いま自分が知っている記憶や今自分が見ている景色、もしくは自分自身の存在ですら脳が勝手にでっち上げたもので世界の真実はまるで違うものかもしれない。
 また、歴史やニュースを振り返ればわかるけれど、人の記憶はあてにならない。人が作った記録もあてにならない。記憶も記録も「今」が作りだすものだ。過去を振り返る時点で、記憶や記録は多かれ少なかれ人為的な何かが関与している。
 過去をねつ造するから民族間の報復の繰り返しによる紛争は絶えないし、歴史上の人物は様々なイメージが日々刷新されていく。

 『アンノウン』はそんな人の記憶や過去や存在の曖昧さを描き観客を怯えさせる作品だ。


(1)うたた寝や気絶している間に周囲が全員口裏を合わせたように自分の記憶を否定する――そんな物語はヒッチコックの『バルカン超特急』からはじまり、最近では『フォーガットン』『フライトプラン』なんて映画や、『古畑任三郎』の松村達雄が犯人役だった時のエピソードもあったけれど、サスペンスものでは一つの定石的な展開となっている。『アンノウン』もその手の映画の流れにある。

 これらの作品の主人公たちは、周囲に自分の過去をあまりに否定され続けることで、やがて自分の記憶どころか自分の存在自体すら夢が幻なのではないかと疑いはじめる。
 観客だって気が気ではない。「あれ? 私が冒頭で見ていた映像って勘違いだったっけ?」なんて具合に気になり映画の中の主人公どころかスクリーンの外側にいる自分自身すら疑いはじめてひどい不安に襲われる。

 人の存在なんてちっぽけなもので役所なり知人なりなんらかの他者が親切に保証してくれなければ、夢か幻のように不確かなものになってしまう。
 人は過去を積み立てることによって自分を構築していくのだ。過去とは基盤。基盤がなければ不安定なことこの上ない。

 本作『アンノウン』もそうやって観客を不安にさせる描写に凝っていて、例えば主人公マーティンを撮る時は背景をぼかして、ゆっくりゆらゆらカメラをかすかに動かすことで彼の基盤が崩れようとしていることを表現している。
 また例えばベルリンの寒々しい空気感や色調は異国での孤独感を増させる公開を持つ。
 そして例えばリーアム・ニーソンの俳優としての雰囲気もそうだ。その解説は以下に続く。



(2)ここで少し話を横にずらしてリーアム・ニーソンという俳優について考えてみたい。
 代表作は『ダークマン』『シンドラーのリスト』『スター・ウォーズ episode1』『96時間』あたりだろうか。演技のうまいタイプではない。『スター・ウォーズ』クワイ=ガン・ジンはそうでも無かったけれども、一見野暮ったいヌゥっとしたオジサンなのだが、その黒目がちな瞳の奥には鬼のような狂気や熱い志が光っている。そんな役が多い。だって『シンドラーのリスト』で世間的にメジャーになった彼が『特攻野郎Aチーム THE MOVIE』のハンニバルを演じるわけだから、彼が激しいアクションをするたびに多少の違和感が感じてしまう。
 本作で彼が演じるマーティンも最初は秀才タイプで愛妻家で文化系代表みたいなリベラルな中年男子である。しかし過去を見失いその存在に揺らぎがかかってくると、彼の人間味は次々と引き剥がされてきて、彼の本質的な「鬼」が首をもたげてくる。
 『96時間』のキレたパパも恐ろしかったが、ラストシーンのあの豹変っぷりの恐ろしさよ!
 そんなわけでその内に秘めた二面性こそが魅力の俳優だと思われる。



(3)物語は(1)で取り扱った「もしかしたら自分がとんでもない勘違いしているんじゃないか」という問題意識から、それが勘違いではないとわかる中盤以降「自分が何者なのか」を探るという問題意識にシフトしていく。

 「平凡な大学教授」の存在を何故大がかりで周到な手間をもってして消しさろうとするのか。本当に私はマーティン・ハリス博士なのか。その謎が解決していくに連れ、過去を持たない"鬼"となったマーティンに、再び新たな人間味(過去)が備わっていく。リーアム・ニーソンの俳優としての個性の真骨頂だ。そこには冒頭の平凡な大学教授とはまるでかけ離れた「何者でもない殺人者の彼」の姿があった。

 もしかしたら平々凡々細々安穏と暮らしているぼくは明日目が覚めたら世界的ミュージシャンになっているかもしれないし、自分の不幸な人生を恨む明日処刑される死刑囚になっているかもしれない。本作で散々自分の過去や記憶を揺り動かされた果てにそんな気すらしてきた。
 人の過去や記憶や存在はそれほどまでに曖昧模糊としているものなのだ。


 ところで本作はそんな存在の危機に対する恐怖をただただネガティブなものとだけはしていない。本作のエンドクレジットは飛行機で大空を駆け巡る映像となっている。『エンジェル・ウォーズ』でも妄想の素晴らしさは描かれていたが、人はどこにだっていけるし何者にだってなれるのだ。


 以上、『アンノウン』は、観客の記憶を不安定にさせ、見終わった後、まるで違う別人になってしまう可能性を感じさせる作品だと感じました。



(4)不満点がいくつかございまして、ダイアン・クルーガーのキャラクターは良かったけれど、別にいなくても物語が進行してしまいそうなところ。もっと深く絡めてあの唐突な恋愛オチに絡めてほしかったです。
 あと記憶喪失が都合良すぎる。記憶喪失自体ちょっと嘘くさいのに、あまりにドラマチックな部分のみ忘れ過ぎ。頭打って思い出すとか、アレだし。
 あと、詳しく書くのは控えますが、オチに反省が一切ないのは…だってアイツはアレだったわけで…。


 以上。サスペンスも面白く、アクションもなかなか(カーチェイスシーンや暗殺シーン、あとダイアン・クルーガーのカーアクションも良かった)、美女も二人も出ている。シンプルで単細胞に楽しめるとても面白い映画でした。

 成海璃子レベル。

 次回は最近こういうサブカルサンプリング映画多いですね『スコット・ピルグリム VS. 邪悪な元カレ軍団』の感想です。

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  1. 2011/05/12(木) 15:08:02|
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『エンジェル・ウォーズ』の主演は実は僕でしたよ。

sucker

 今回はザック・スナイダーの初オリジナル脚本作品『エンジェル・ウォーズ』の感想です。

 観に行った映画館はTOHOシネマズ六本木ヒルズ。この手のマニア向けな映画はあんまりここじゃ受けないのか、客の入りは今ひとつ。客層は30代前後の男性一人客が多めって感じ。


概要:製作・監督・原案・脚本は『ドーン・オブ・ザ・デッド』『300』『ウォッチメン』『ガフールの伝説』のザック・スナイダー。音楽はタイラー・ベイツ、マリウス・デヴリーズ。撮影はラリー・フォン。
 愛する家族を奪われ、醜悪な継父の陰謀で精神病院へと送られてしまった少女、ベイビードール(エミリー・ブラウニング)。そこに待ち受けていたのは、世にもおぞましいロボトミー手術だった。彼女は同じ境遇にいるロケット(ジェナ・マローン)、ブロンディ(ヴァネッサ・ハジェンズ)、アンバー(ジェイミー・チャン)、スイートピー(アビー・コーニッシュ)の4人の少女たちに一緒に抵抗しようと呼びかける。しかし、希望を失った4人は、ベイビードールの脱出計画にためらいを見せる。そんな中、いよいよ絶体絶命の窮地に立ったベイビードールは、彼女の最大の武器にして最後の砦である空想の世界へと飛び込んでいくのだった。
("allcinema online"より抜粋)
 

 子供のころ、横断歩道の白線の上だけを歩かなくてはいけないゲーム(とも言えないような具にもつかない遊び)をしていたが、あれをやっている時、白線でない部分は、想像の中では世にも恐ろしい阿鼻叫喚の地獄絵図か、はたまた工業廃水によって巨大化してしまった人喰いワニだらけの沼であったりした。
 また今みたいに映像が立派ではないファミコン時代のゲームはキャラクターも樹も家もアクションも何もかもたんなる記号であり、その記号に自分の知識にあるものを脳内で当てはめることで「リアルな世界」を空想し楽しんでいたんだと思う。

 そういう「脳内補完」の作業は、とりわけ映画には、文学や音楽に比べ、あまり必要性がないと考えられがちだが、そんなことはないと思う。映画、文学、絵画、音楽、舞踏などなどジャンルに限らず、優れた作品ほど、鑑賞者が自身の体験に照らし合わせられる一般性を持ち、百人が見れば百通りの脳内補完ができると思う。


 本作の最後、登場人物に対して様々な体験をさせたり、生かしたり殺したり応援したりディスったり…もろもろの効果を登場人物に与えるのは---「あなただ」といったナレーションが入る。

 『トスカーナの贋作』は映画を見る行為を映像化した作品であったが、本作は"映画を見る観客を描いた映画"だと思う。


 本作は「話をふくらませた話」である。精神病院に入れられた少女ベイビードールがただ脱走をはかるというだけの物語。『プレデターズ』の感想で書いたが「詰め将棋」的な作品。そこに様々な妄想を付加し、映画史上最大級に大げさに表現、話を膨らませることで一大アクションスペクタクルへとされている。

 で、ここでザック・スナイダーという監督がどのようなニーズを寄せられる監督か考えてみたい。そのフィルモグラフィを見るに古典どころか聖典レベルのジョージ・A・ロメロ監督の『ゾンビ』のリメイク『ドーン・オブ・ザ・デッド』、映像化不可能と言われた名作アメコミの映画化『300』『ウォッチメン』、忘れてはならないファンの多い児童文学の映像化『ガフールの伝説』。要は"オタク受けがとてもいい監督"であり、スナイダー監督初オリジナル脚本である本作もまたメインターゲットにオタクが見据えられている。

 で、本作はただ精神病院を脱走する物語に、前回の『ガリバー旅行記』ではないが、80年代以降の海外のオタクが皆歩んで来たであろうサブカルチャー総記のような様々な要素をこれでもかと引用し、地味な話を目一杯膨らませている。

 例えば主人公のセーラー服と日本刀の組み合わせは『BLOOD THE LAST VAMPIRE』だし、ナチスみたいな軍服とガスマスクは『ケルベロス』みたいだったりと、あからさまな押井守リスペクトが感じられる。
 またゾンビ兵は90年代に我が国も巻き込んで一大ブームを巻き起こした『スポーン』のようだし、ドラゴンは数多のビデオゲームのアイコンだし、汽車の中にいるロボット兵は『スター・ウォーズ』新3部作を彷彿とさせる。
 押井守にせよ『スポーン』にせよ『スター・ウォーズ』にせよフォロワーを多く作り出したエポックメイキングな作品である。この映画のメインターゲットにされている者のほとんどが少なくともうち一つは経験した作品であろう。
 主人公たちの脱走劇をど派手にするのは、これらの我々がよく知っている要素のサンプリング&リミックスである。

 そして観客は勝手にこれらのスペクタクルシーンを"主人公の妄想"と考えてしまう。そんな説明どこにもないのに。

 これは結末にて明らかにされるのだが、このスペクタクルを妄想していたのはベイビードールでも生き残ったスイートピーでもない、それは他でもない「あなたたち」=観客なのではないかと問いかける。
 『トイ・ストーリー』シリーズでアンディがオモチャをガチャガチャさせているだけなのに彼の脳内では、どこかで見たようなシチュエーションにて、オモチャたちの大合戦が繰り広げられているシーンがあるが、そのような形で、地味な脱走劇をあり合わせのオタク知識で補完することで盛り上げているのは実は観客なのではないかと示唆してくる。

 BGMにしてもビートルズやクイーン、イギーポップ、ジェファーソン・エアプレイン、ユーリズミックスやビョークの有名曲をカバーやリミックスを頻繁に使用。まるで我々観客が知っている歌をBGMとして脳内で流しているかのようである。
 またエンドクレジットではブルー・ジョーンズ(オスカー・アイザック)とマダム・ゴルスキー(カーラ・グギーノ)がデュエットでロキシー・ミュージック"Love Is The Drug"のカバーを披露するが、それこそまるで『トイ・ストーリー』のアンディ、知っているキャラクターをその性格だけ残し別の活躍をさせる遊びをしているようである。


 人は創作物を読むときフルに想像力を活用する。小説などは想像力なくしては読むことができない。映画だって色々と自分の経験や知識を当てはめることで脳内補完し、それを楽しもうとする。
 逆に言えば受け手なくして創作物は存在し得ない。その点において、創作物の最大の主役はいつだって受け手である。
 以上、このような理由で『エンジェル・ウォーズ』はそのような映画鑑賞の際の観客の脳の働きを描いているのではないかと考えた。

 本作の正式タイトル"Sucker Punch"とは、「予想外のパンチ」の意味。予想外のパンチをくらったのは、ベイビードールたちでも悪役たちでもない、多分最後に「これはお前のことを描いた映画なんだよ」と指をさされた我々観客なのかもしれない。


 さすがザック・スナイダー。オタクのハートをがっちりキャッチのおバカ映画なのに、考えることもおおかったりします。

 大政絢レベル。

 次回はわれらがドニー・イェン師匠が出演しております香港版『エクスペンダブルズ』こと『孫文の義士団』の感想。

テーマ:映画館で観た映画 - ジャンル:映画

  1. 2011/04/25(月) 16:45:47|
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『オーズ・電王・オールライダー レッツゴー仮面ライダー』は比類なき王道路線だよ。

オールライダー

 待たせたな!今回はもはやそこまで有り難いお祭りごとには感じられなくなってしまった過去の仮面ライダー全員集合シリーズ『オーズ・電王・オールライダー レッツゴー仮面ライダー』の感想です。

 観に行った映画館は新宿バルト9。初日でかつファーストデイだったのでいちばん大きいスクリーンで満席でした。事前にネット予約して観に行ったのですが、電車は止まるわ、発券機に並ぶわ、エレベーターは混むわで結局スクリーンについたのは予告編が終わるくらい。スクリーンに入った所、暗闇の満席の中で自分の席を探すのは困難、しかもおそらく僕の席であろう席には集団でちびっ子が座っていて…。仕方ないから泣き寝入りして空いていた前の方に座りました。前から2列めだったのですが、全然見にくくはなかったです。
 客層は大人も子供もお姉さんも。国民的ヒーローのパワーを思い知りました。


概要:『仮面ライダー』シリーズ40周年記念作品。監督は金田治、脚本は米村正二、プロデューサーは白倉伸一郎・武部直美と、まぁいつもの平成ライダーの布陣。
 モールイマジンと戦っていたオーズ(火野映司/演:渡部秀)は、デンライナーでやってきたNEW電王(野上幸太郎/演:桜田通)と合流し、モールイマジンを追って“1971年11月11日”へと向かう。どうにかモールイマジンを倒して“2011年4月1日”へと戻ってきた映司たち。ところが、そこは悪の秘密結社ショッカーが支配する世界となっていた。しかも、仮面ライダー1号(本郷猛/演:藤岡弘、)、2号(一文字隼人/演:佐々木剛)までもがショッカー怪人に。実は、映司たちと一緒に過去へ向かったアンク(三浦涼介)がセルメダルを落としてしまったことで歴史が書き換えられていたのだ。映司はライダーのいなくなった現在に残りショッカー怪人たちと戦う一方、幸太郎たちはデンライナーで再び過去へ飛び、歴史を戻すべく奔走する。
("allcinema online"より抜粋)


 養老孟司がテレビで「人の肉体は日々変化していく。今、身体を構成している細胞は来年はほとんど残っていない。しかし人の内面(魂)は不変のはずである」と言っていた。
 40年の歴史を持ち、様々な変容を遂げてきた『仮面ライダー』シリーズだが、その内面はどうだろうか。「仮面ライダーオーズ タマシーコンボ」なるオーズの新フォームも登場する本作はそういったシリーズの内面(魂)の不変さを描いていると思う。言い換えれば『仮面ライダー』というその後40年間続くことになる1971年のテレビ番組とそれを支えた子供達、そしてこの番組を40年間支えたファンたちをきちんと尊重した意識が根底にあると思う。そこを考えていきたいと思います。


 この映画、後述するように不満は腐るほどあるのですが、結論としてはとても楽しめました。最近涙脆いというのもあるのですが、今回の映画でも、仮面ライダー一号・二号の登場シーン以降ぼろぼろ泣いて涙が止まりませんでした。


 まあ例によってあまり『仮面ライダー』の映画って期待していないんですね。惰性というかコレクター根性で毎回観に行っているって時が多くて。まぁむしろ文句つけるのも楽しいみたいなところもあるのですが。
 去年の映画だと、『仮面ライダーW FOREVER AtoZ 運命のガイアメモリ』『仮面ライダー×仮面ライダー オーズ&ダブル feat.スカル MOVIE大戦CORE』『W』編は良かったけれど、『電王』シリーズの惰性で続けたような3つの劇場版『超・電王トリロジー』『MOVIE大戦』『オーズ』編は…。
 しかも過去のライダー全員集合はすでに『ディケイド』の本編と2回の劇場版でもう食傷気味だし。

 で、『仮面ライダーディケイド』の反省点としては、(テレビシリーズはまだマシだったけど)劇場版ではただ過去ライダーを出しただけで、設定無視、お約束無視、そのライダーの作品としてのこだわりすら無視と、まるで『仮面ライダー』という番組に愛を持って描かなかったことにあったと思うのです。
 しかし今回は元祖『仮面ライダー』の世界が舞台。男の子なら皆がある程度その設定や雰囲気、世界観を知っている仮面ライダー一号・二号がショッカーと対決していたあの世界に電王たちが向かうという物語であり、そもそも元祖『仮面ライダー』が設定をきちんと守ろうなんて意識がからっきしない番組だったので多少の齟齬は許されてしまう。
 まあ細かいこと言うと、ブラック将軍はショッカーではなくゲルショッカーの幹部でショッカー戦闘員と一緒にいるのはおかしいとか、なんでショッカーの時代にカメバズーカがショッカー怪人としているんだよ、とか。
 あと大神官ダロムがシャドームーンよりエラそうなのはおかしいだろとか、なんでモモタロスが良太郎介さないで直接変身してんだよとか、『J』の悪役フォグや、『アギト』の悪役アンノウン、『剣』の悪役アンデッドあたりは志がショッカーなどの悪の組織とはまるで違うのに悪にひとくくりにしてしまうのはいくらなんでも暴力的やすぎないかとか、あるにはある(というかたくさんある)のですが、まぁそういうの突っ込んでいたら、『仮面ライダー』なんて見れやしないし、そういう齟齬も元祖『仮面ライダー』らしいということにして今回は目をつむります。


 元祖『仮面ライダー』と言えばヒーロー特撮では元祖『ウルトラマン』と並んで最もメジャーな番組だと思うのですが、最メジャーゆえに完全に定番化・ひな形化したストーリー運びがあって、後の『仮面ライダー』シリーズは如何にそれを今っぽくアレンジして踏襲するか、もしくは如何に破壊するかに試行錯誤していた歴史だと思います。
 例えば『仮面ライダーX』はこのようなひな形をハイエイジ(といっても小学校高学年~中学生程度)の鑑賞に耐えうるようにアレンジしていたし、『(新)仮面ライダー』は如何にもう一度そのひな形を当時のように展開していくかを追求していたし、『仮面ライダークウガ』はこのようなひな形を踏襲しつつそこに如何に現代的なリアリティや整合性を持たせるかに腐心していたし、『真・仮面ライダー<序章>』『仮面ライダー響鬼』はそのひな形を如何に崩し新たなステージを築くかを頑張っていたと思う。

 で、今回の『オーズ・電王・オールライダー レッツゴー仮面ライダー』は40周年ということで敢えてその"定番パターン"を当時のままにスケールだけ大きくして再現している。

 その"定番パターン"とは、特にいわゆる"新1号"が登場したシリーズ後半からに散見されるのであるが、

 「1.ショッカーの新たな作戦・怪人」
→「2.子供たちがピンチに」
→「3.ギリギリのところで仮面ライダー登場。当面のピンチは免れるが怪人が強くて敗退し更なるピンチへ」
→「4.特訓や作戦でリベンジして怪人撃破」


 …といったような定番化しすぎて今更書くまでもない展開。基本的にメインの視聴者層のちびっ子の視点を意識して、そのニーズに呼応するような形で作風を変えていった結果、シリーズ後半にてこのパターンは定着したのだと思われますが、本作はこれをスケールアップしてきちんと描いている。
 この古くささには嫌悪感を示す人もいるだろうけど、「仮面ライダー40周年記念」と銘打たれた作品において、これ以上適した物語展開もないと思う。


 まず「1.ショッカーの新たな作戦・怪人」だけれども、今回は『仮面ライダーオーズ』のメダルが2011年からデンライナーによってショッカーが跋扈する1971年に送られてしまったことで、ショッカーは史上最強の怪人ショッカーグリード(声:石川英郎)を誕生させ、これによりショッカーは打倒仮面ライダーおよび世界征服を狙うという、作品の垣根を飛び越えて実現できたスケールの大きな作戦となっている。

 続いて「2.子供たちがピンチに」。『仮面ライダー』後半からは"少年ライダー隊"という、ライダーのサポートのために活躍する子供達が登場した。先に「メインの視聴者層のちびっ子の視点を意識して、そのニーズに呼応するような形で作風を変えていった」と書いたけれど、彼らは視聴者の子供たちを代弁する形で登場させられ、視聴者の視点を代表するキャラクターであったのだが、シリアスな戦いの中での彼らの活躍はリアリティを損なうし、結局誘拐されたり洗脳されたりで足手まといになってしまったりする展開が多く、あまりファンには好かれていなかったようで『仮面ライダースーパー1』のジュニアライダー隊以降シリーズに登場することもなくなっていた。が、今回は彼らも復活する、しかし例によってライダー達の脚を引っ張る。彼らについては後述。

 続いて「3.ギリギリのところで仮面ライダー登場。当面のピンチは免れるが怪人が強くて敗退し更なるピンチへ」。冒頭に書いた「泣いてしまったシーン」とはここのこと。
 僕は初代『仮面ライダー』世代ではないのですが、あまりに聞き覚えがある「出たなショッカー」の野太く勇ましい声はもちろん知っている。2011年から突然1971年に放り込まれ、わけのわからない危険思想の悪の組織に殺されかけていた子供達の視点になっていた観客(スケールアップした不安感)に、この定番化されすぎた声がどれだけ安心感をもたらすか。
 当時の『仮面ライダー』らしくて気にいった点としては「あれは発信機つきのメダルだったのだ」「先ほど手放したのは偽物のメダルだ、本物はすでに云々」などの昭和ライダーらしいショボい騙し合い
 しかし、ここにおいて『仮面ライダー』シリーズにおいて最大のピンチが訪れる。
 仮面ライダー一号と二号がショッカー側に回ってしまったのである。 
 『仮面ライダー』シリーズにおいて、そのヒーローとしての能力は敵組織の能力を借用しているものがほとんどである。大体が怪人の力を使うことで仮面ライダーへと変身している。例えば『仮面ライダー』ではご存知の通り、主人公本郷猛はショッカーに改造手術を受けているし、『仮面ライダーオーズ』は敵であるグリードを構成しているメダルを使って変身するし、『仮面ライダー555』では怪人にならなくては仮面ライダーへと変身できなかった。では仮面ライダーと怪人とで違う点は何か。初代『仮面ライダー』においては、それは脳改造を受けなかったこととされる。脳を改造されなかった故に、怪人にならずにすんだ。しかしながらこの度ショッカーグリードに破れてしまった仮面ライダー一号・二号はショッカー怪人として再改造を受けて人間の前に立ちふさがることとなってしまう。
 そして「更なるピンチ」は最大級のスケールとして、ショッカー念願の"世界征服"へと繋がっていく。

 で、クライマックス「4.特訓や作戦でリベンジして怪人撃破」
 ショッカーが世界を征服している2011年にやってきた主人公一行は、そこで決死の覚悟でショッカーに立ち向かうが、ショッカーは他の悪の組織も併合し、NEW電王、オーズ、モモタロスたちだけでは太刀打ちのしようがない。
 そこに先ほどの少年ライダー隊の再登場が活かされてくる。ひとり1971年に残されてしまったナオキ(吉川史樹)は、タイムカプセルに「仮面ライダーは正義の味方であってほしい」と望む手紙を入れる。それは40年前から現代まで変わらない子供(と、もと子供)の願いである。
 平成になって「悪の仮面ライダー」なんてのもたくさん登場したけれど、基本"仮面ライダー"は日本における正義の味方の代名詞である。『仮面ライダーW FOREVER AtoZ 運命のガイアメモリ』で悪の仮面ライダー"エターナル"と主人公"ダブル"の違いは街を守りたいか否か、街の人々に応援されているか否かであった。脳改造されているか否かではない。 

 『仮面ライダー』シリーズは40年間の歴史の中で時代も設定も作風もニーズも世代も散々変わってきた。
 しかし仮面ライダーへの思いは40年前より変わっていない。シリーズのファン(多分大多数の日本人男子)は、1971年の少年ライダー隊と同様の感情でその時の『仮面ライダー』を応援しているのだ。

 そして1971年に取り残され少年ライダー隊として暗躍しながら40年間「仮面ライダーは正義の味方であってほしい」と願い続けたナオキは仮面ライダー一号・二号の洗脳をついに解くことに成功する。
 そこで今回のおやっさんポジションのデンライナーのオーナー(石丸謙二郎)は「時代が望む時、かならず仮面ライダーはあらわれる」という石ノ森章太郎の発言を繰り返す。常に脚を引っ張り続けた少年ライダー隊は確かに役立たずであった。しかしながら彼らは視聴者の代表であり、仮面ライダーを求め続け、仮面ライダーをその時代に復活させ続けたという点で最大のサポートをし続けてもいたのだ。本作においてわざわざ少年ライダー隊を復活させた意味はここを描く点にあるのだと思う。

 そして観客の求めに応じるように、仮面ライダーV3(声:宮内洋)が表れる。そしてライダーマン、X、アマゾン、ストロンガー、スカイ、スーパー1、ZX、BLACK、BLACK RXという昭和ライダーの面々がギャラリーの声援と共に勇ましく登場。更には真、ZO、J、クウガ、アギト、龍騎、555、ブレイド、響鬼、カブト、キバ、ディケイド、そして風都では左翔太郎(桐山漣)とフィリップ(菅田将暉)が颯爽と登場し仮面ライダーWに変身。
 そんなの、いくら演出がチャチだろうが、涙腺緩まない方がどうかしているぜ。


 以上、『オーズ・電王・オールライダー レッツゴー仮面ライダー』は1971年の元祖『仮面ライダー』から現代まで続く王道のストーリーラインを踏襲することで、『仮面ライダー』シリーズを支え続けた40年分のファンの思いという本シリーズの変わらぬ「魂」を作品内に取り入れ、40周年らしい盛り上がるお祭り映画に仕立て上げていると感じた。


 で、不満点は例によって腐るほどあるんですね。
 例えばなんだかヌルいアクション面。せっかくなんだから『仮面ライダーW FOREVER AtoZ 運命のガイアメモリ』『仮面ライダー the first』くらいの素晴らしいアクションを取り入れてほしかったところ。戦闘シーンで印象的なショットがまるでない。
 あと終盤、あれだけ歯が立たなかったショッカーグリードを一号・二号が倒せた理屈がただ皆の声援を受けてっていうのは釈然としない。精神論でなんでも片付けようとするのは『仮面ライダー』の悪いクセ。
 あとその声援シーン、公開処刑の場所なんですが、エキストラがひどく安っぽいし、リアリティもない。例えば妙にニヤニヤして照れていたり、やたらと目立とうと演技している人がいたり。逆に携帯で写真撮ってる人がいないのも不自然。あと声援がヒョロい。
 今回いちばん見せ場がなかったのが悪の幹部達たち。ほとんど何もやっていないままライダー達に撲殺されるし、もっとひどいのが『劇場版 仮面ライダーディケイド オールライダー対大ショッカー』に登場した新生キングダーク。立ち上がった瞬間、更に巨大な岩石大首領が立ち上がる巻き添えを食らって他の幹部同様に奈落に堕ちていく。ええええ?お前なんだったの?
 そんな岩石大首領も仲間殺しただけで、何もしないで1分で珍走団のごときオールライダーのバイク突撃でやられるし…。
 あと30分尺を伸ばして、アクションをきっちり描いた"ディレクターズカット版"を出してほしいです。XやJとキングダークの対決とか見たい。
 あとまさかの登場のキカイダー、キカイダー01、イナズマン、怪傑ズバットも単なるファンサービス以上のものはなく、出ただけ。それならば35周年で同時にキャンペーン中のスーパー戦隊出した方が映画の宣伝やリンクにもなるし建設的なのではないかと。
 あとあとスーツのボロさ。1号・2号くらいは新調してほしかったな。ジャージ感丸出しだし。ストロンガーのプロテクターとか、キカイダー01の透明パーツとかボロすぎて見てらんなかった。

 ストーリー的な不満点では、なんで冒頭ミツルに40年前の記憶があったのかという点の実に平成ライダーらしい未回収っぷりとか、終盤明らかにされる一号・二号の作戦で被害にあった人たくさんいそうですね、とか。


 まぁ不満が多いのはいつものこと、やろうとしていることは面白いのにそれを表現する手腕が追いついてないのが非情に残念です。そのへんを気にしないでみれる大人(もしくは子供)の視点をお持ちなら、とても楽しめる作品だとおもいます。特に『仮面ライダー』に少しでも思いいれがある人ならば。いい映画というわけではありませんでしたが、お気に入りの映画です。

 竹内由恵アナレベル。

 次回はカズオ・イシグロ原作の話題のSF映画『わたしを離さないで』の感想です。

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  1. 2011/04/07(木) 18:26:03|
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