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「少年ジャンプ」と水木しげると映画とおもちゃと特撮を愛します。

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『SOMEWHERE』はセレブの清貧論だよ。

サムウェア

 ちょっと映画の感想が溜まっています。
 今回はソフィア・コッポラの新作映画『SOMEWHERE』の感想。

 観に行った映画館は吉祥寺バウスシアター。毎週月曜日のメンズデー割引で1000円で見て参りました。残念ながらいちばん小さい館での上映でした。ちぇ。客層はそんなわけで男性の一人客が多め。小さいシアターながら始まって間もないこともあり、場内は割と混んでました。


概要:監督・脚本は『ヴァージン・スーサイズ』『マリー・アントワネット』『ロスト・イン・トランスレーション』のソフィア・コッポラ。製作総指揮にフランシス・F・コッポラ、製作にロマン・コッポラ、G・マック・ブラウン、音楽はフォニックス。2010年のヴェネチア国際映画祭金獅子賞受賞作。
 ハリウッドの映画スター、ジョニー・マルコ(スティーヴン・ドーフ)。ロサンゼルスのホテル“シャトー・マーモント”を住まいに、高級車を乗り回してはパーティーで酒と女に明け暮れ、まさにセレブらしい派手な生活を送っていた。しかし、それはいずれも孤独な彼の空虚感を紛らわすだけに過ぎなかった。ある日、ジョニーは前妻と同居する11歳の娘クレオ(エル・ファニング)を夜まで預かり、親子の短いひとときを過ごす。それからほどなくして、自堕落な日常へ戻っていた彼の前に、再びクレオが現われる。前妻が突然家を空けるため、今度はしばらくの間、娘の面倒を見ることに。やがて、授賞式出席のためクレオと一緒にイタリアへと向かうジョニーだったが…。
("allcinema online"より抜粋)


 本作の冒頭は、主人公ジョニーの乗る車がくるくると同じ乾ききった更地を何周もする印象的で退屈な映像からスタートする。
 もちろんこれは、地に脚がつかないフワフワとした不毛の生活に焦燥感を覚えるジョニーの心境を表している映像であり(車に乗ってれば地に脚がつかない)、また本作がドラマチックな展開などあまり起きないことを示唆している。


 ジョニーはちょっとした人気俳優。毎晩女をとっかえひっかえ、何もしなくても向こうからおっぱいをさらけ出してくれるし、毎晩どこかしらでパーティーで飲んだくれて、U2のボノも泊まっていた自宅代わりのホテルにはポールダンサーをデリバリー、エレベーターで出くわしたベ二チオ・デル・トロと軽口を交わし、イタリアに呼ばれたらプール付きの部屋(「ジェラートを全種二つづつ運んでくれ」)、いわゆる僕らが想像する"セレブの生活"だ。

 しかしその生活は、まるでジョニーの右腕に巻かれたギブスのように、生命感を封じ込められている感じ。ひたすらむなしく無意味。ポールダンサーがせっかくサービスしてくれているのに、パーティーでびっくりするほどの美女を引っかけれてパンティまで脱がしたのに、いつの間にやらうたた寝してしまう。


 そういえば、ソフィア・コッポラはいつの間にか「コッポラの娘」という肩書きで呼ばれなくなった。それだけ映画監督として自分のカラーを確立している証であろうが、本作に、僕らが期待しそうな『ヴァージン・スーサイズ』『マリー・アントワネット』で見たようなソフィア・コッポラらしい映像はかなり抑えられている。例えば清涼感や透明感溢れる逆光を多用した静かなのに躍動感ある描写、キャッチーでキュートなファッションやお菓子のショット、ちょっとしたセンスのロックの選曲、リズミカルな編集。そういったものを期待するともしかしたらガッカリするかもしれない。
 本作はザラザラと乾いた映像が、ただ砂埃だけが舞うような平坦な地に延々と続くように起伏なく流され続ける。それはむなしく無意味な生活を浪費して、自分の生命を感じられないジョニーの心境を表している。

 ジョニーはメイク合わせのためにある特殊メイクスタジオに行く。そこで視界を奪われている間に特殊メイクは完成しているのだが、目を開けてゾッとする。そこにはたった数十分で老人に変化してしまった自分がいたのだ。
 まるでリアルな悪夢を見ているかのようであったが、しかしこのことに対し彼はなんらアクションをとらない。
 ただ日常を浪費していくことに忙しく、劇映画らしい感情の変化や生活スタイルの改革などは起きない。


 ジョニーが一時的に変化するのは一人娘クレオと一緒にいる時だ。
 別れた妻の失踪で娘とともにイタリアに行くことになったジョニーはそのたった数日の生活においてだけ、自分の潤った生命を実感できる。
 そして彼の腕を縛りつけていたギブスは粉砕されて、中からは生命力溢れる垢と汗の臭いが現れた
 更に冒頭に登場した車は故障し、クレオと共にはじめて自分の脚を地につけて歩く。

 そして映画はようやくたった5分ほどだが、いつものソフィア・コッポラらしい映像を取り戻す。プールサイドでの下手な卓球、燦々と照るさわやかな太陽、ライトブルーの空、みずみずしいライチジュース、水中カメラにて撮影されたプールの中で無邪気に遊ぶカラフルなワンピースの水着のクレオ、BGMはソフトロック。わあガーリー!


 しかし依然としてこの物語にカタルシスは訪れない。せっかくのソフィア・コッポラらしい雰囲気もクレオがキャンプに行っていなくなってしまったことでまた乾いた映像に戻ってしまう。
 車はいつの間にか修復されている。

 そしてクレオと別れ何もなくなってしまったジョニーはまた不毛の日々を過ごし、その不毛な時間の中で、スターとして往年の平家のごとく驕っていたかつての自分を知り、「俺は何者でもない」と泣き叫ぶ。
 クレオと共に過ごすことに生活の潤いを見いだしたジョニーは、いくら金があろうといくら女にモテようと、人は個では存在し得ないことを痛感する。


 そして冒頭の車むなしくくるくると走らせるシーンと対応するように、車を真っ直ぐ走らせ、更に車を止めて地に足をつけて歩き出す。
 彼をとりまく問題は具体的には何ら解決はしていない。そもそも問題などないのかもしれない。しかしながらジョニーは漠然とした乾きから解放され潤った生活を実感できるだろうという希望には溢れている。


 以上、『SOMEWHERE』はセレブな生活を描きながら、金や容姿よりも人が人と共に過ごすことの大切さを描いていると思う。


 不満点はいくつかあって、『ロスト・イン・トランスレーション』にも言えたことだけど、外国に対する偏見。『アバター』なんかもそうだったけど異文化に対してどこか上から目線な感じが気になった点。

 あとセレブ中のセレブなソフィア・コッポラが金や容姿よりも人との関わりが大事とか描いても欺瞞くさく感じてしまう点。

 それと、地味なのは別にいいのですが、地味なら地味でもうちょい深く切り込んできて欲しかったなと。似たような日常性というテーマを感じた『台北の朝、僕は恋をする』の方がキャッチーなぶん伝わるものがあったかなと。


 つまらない映画ではありませんが、もうちょっと描く余地はあっただろうなと思いました。
 ああエル・ファニングはとても可愛いらしくなっています。美人に育つかな?

 深田恭子レベル。

 次回は『ザ・ファイター』の感想に決まってんじゃないですか!!

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  1. 2011/04/12(火) 02:04:45|
  2. 映画サ行
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『シリアスマン』はしばらくしたら納得するか忘れるか落ち着くよ。

シリアスマン

 地震、みな進んで助け合うのがすげえなと思いました。やればできるじゃん世界!
 ぼくはちょうど休みでずっと被害の少ない東京の自宅にいましたが、ネットも町も、状況がよくわからないのもあって16時すぎくらいまでは大地震ではあるけれど、なんとかなるみたいな雰囲気で余裕もあって、ある程度余震が収まったら町も日常を取り戻しつつあったのですが、それがマジでヤバい状況だと分かるとまた非日常的な雰囲気に戻るという、その想像力のタイムラグが妙に不気味でした。
 その後のパニックとか、デマの散乱とか、そういうのに対応するべく、常に想像力をフルに活かしていかないといけないんだなと、そういう「大人の想像力」の大切さを身にしみて感じました。


 今回はコーエン兄弟の新作ーーーというか、去年のアカデミー賞候補ですよ、しかも下手したら日本じゃビデオスルーだったそうじゃないですか、どうなってるんでしょうかでおなじみ『シリアスマン』の感想。

 観に行った映画館は前回同様ヒューマントラストシネマ渋谷。水曜日の1000円の日だったのでけっこう混んでいました。前方以外は満席。たしかシアター2番というところ、かなり変わった形をしていて、スクリーンの位置が相当高いので前すぎるとかなり見づらい。前の方が好きなぼくはなかなか席選びが難しいシアターであります。客層は若い男女が多め。場所柄的に20~30代の若い人がおおいですね。
 映画館の受付が知り合いの女の子でビビりました。


概要:『ファーゴ』『ノーカントリー』『オー!ブラザー』『ビッグリボウスキ』などなどのコーエン兄弟の09年の監督・製作・脚本・編集作品。音楽はカーター・バーウェル。
 1967年、アメリカ中西部ミネソタ州の郊外。平凡な人生を歩んできたユダヤ人の大学教授ラリー・ゴプニック(マイケル・スタールバーグ)。心配事といえば、大学が終身雇用を受入れてくれるかどうかと、13歳の息子ダニー(アーロン・ウルフ)が2週間後に行うユダヤ教の成人の儀式のことぐらい。しかし実際には、ラリーの知らぬところで家族はそれぞれに秘密や問題を抱えていた。そしてついには、ラリー自身にも思いも寄らぬ災難が立て続けにやって来た。落第点をつけた学生からは強引にワイロを押しつけられ、隣人は敷地の境界線を侵食し始め、挙げ句の果てに妻(サリ・レニック)からは唐突に離婚を切り出され、すっかり混乱してしまうラリーだったが…。
(”allcinema online”より抜粋)


 『3年B組金八先生』が最終回だとかで今1979年の第1シリーズを再放送していて、シリーズのファンである僕はビデオを撮って見ているわけだけど、このシリーズでは大きく受験戦争が取り扱われている。今は「受験戦争」とかあまり騒がなくなったなーなんて思うわけですが、かといって別に現状が変化したわけではない。ただ受験の大変さがある程度定着し、皆「そういうものだ」と受け入れてしまっているだけだ。
 『シリアスマン』はそんな「時が経って受け入れてしまう」という実に映画らしくなくドラマチックになりがたいテーマをコーエン兄弟独特のブラックなタッチで描いた作品である。

 本作は「え。あれはなんだったの?」という唐突な展開に対する当惑にあふれている。その当惑は最終的に「この映画って何だったの」って疑問につながる。しかし本作で描こうとしていたのはそのような当惑にあふれ、当惑だけで物事は過ぎ去っていくといったリアリティなんだと思う。


 物語というものは基本的に主人公のアクションによって進行していく。シナリオの教科書なんかを読めばだいたいそう書いてあるし、実際ほとんどの物語はそうできている。
 しかしあのひねくれ者のコーエン兄弟がそんな鉄則に素直に従うものだろうか。今までの作品だって十分怪しいものであったけれど、本作にいたってはまったくもって活躍させる気などさらさらないご様子、冒頭にある引用文で提示されるように、本作は何もしない男が何もしないままあるがままを受け入れるまでの物語なのだ。
 しかし現実世界はまさにその通り、今回の大地震でも痛感したことだけど、自分が何にもしなくても勝手に理不尽に不幸は降り注ぐし、因果応報なんてどこ吹く風、まるでコーエン兄弟の映画のような世界なのだ。


 映画は最初、亭主が連れてきた善良そうなユダヤ教のラビを、悪霊に違いないと勝手に憶測し、一方的にナイフを刺した行動力がありすぎる妻と、ただそのいきさつをオロオロしながら見ているだけの亭主、結局本当に悪霊なのかどうなのか分からずのまま痛がって帰ってしまうラビという昔話から始まる。
 これ、誰もが「前フリ」だと思う。例えばこのラビが本当に悪霊でそのこの夫婦の子孫に災いがふりかかるとか、まごまごし続ける主人公ラリーが最終的にはこの妻のようにガツンと行動力を示すとか…。
 だけどこれは本筋と何にも関係がないのだ。

 なんにも関係ないと言えば、物語中盤ラビがラリーに語って聞かせる、歯医者の物語。あるアメリカ人の患者の歯の裏に何故か彫ってあったヘブライ語の啓示の意味に歯医者が散々悩んだ挙げ句、特に解答が得られず、いつの間にか気にならなくなって普通の生活に戻ったという「だから何?」ってラリーも観客も皆が首を傾げてしまうヤマもオチも意味もない話。

 この無関係のエピソードが示す教訓は、「あまり気にしないであるがままを受け入れて行こうぜ」という、本作のテーマに通じるもの。だから冒頭のエピソードも本編とあまり関係なく、観客もいつの間にか映画本編の展開を見ているだけでいつの間にか忘れてしまっている人が多いと思う。


 ラリーは敬虔なユダヤ教徒であり大学講師を営んでいる「まじめな男」『プレシャス』の主人公もびっくりするほど、これでもかってくらい理不尽な不幸不運が彼には訪れるが、それに対して徹底徹尾最初から最後まで何もしない。
 例えば、アジア系の生徒から賄賂を渡されても受け取らず、その親から名誉毀損で訴えると言われてもビビるだけで行動せず、娘サラ(ジェシカ・マクマナス)から居候中の無職の兄アーサー(リチャード・カインド)をなんとかしてくれと言われても何もせず、妻から一方的に離婚を突きつけられても同意書に名前も書かないし、かといってよりを戻そうと努力することもなく、妻の不倫相手のブ男サイ(フレッド・メラメッド)の提案で家を追い出され一人モーテルで文句も言わず生活し、隣人と庭の境界線でトラブルになっても特に動かず、交通事故を起こしても特にそれがその後の展開に関係はなく、頼んでいない高額のレコードの請求をされるが払いもしなければ返品もしないし、無職の兄は賭博と男娼を買った罪で警察に捕まるけど呆れるだけでやっぱり何もしないし…、隣のエロい人妻とマリファナ吸って浮気!---と思えば夢だし、兄の国外逃亡を手伝って命を狙われた---と思えばやはり夢だし…。たった一つのささやかな願いであった大学への終身雇用の決定も最初から最後まで保留のまま。

 結局2時間ほどの本作でラリーがやったことは、大学でつまらない授業を繰り返し、テレビのアンテナ位置を直し、あとは数人のラビに悩みを相談するだけ。

 そのラビたちの回答もなんだか妙に的はずれな食い合わなさが感じられ、そこにコーエン兄弟らしいオフビートな笑いが生じるのだけれど、作品全体を見渡すとラビたちは意外に本作のテーマに即した事を語っていることに気がつく。
 例えば最初の下っ端のラビは「なんの変哲もない駐車場だって見ようによっては素敵に見える(すべては駐車場なんだ!)」という視点の変換によってやり過ごす術を教えているし、また前述のアメリカ人の歯科医の話をしたラビも同様。また最高位のラビは結局最後まで、うたた寝しているだけっぽいのに「忙しいから」とラリーに会わないけれど、会わないことで、どう足掻いても無理なものは無理ということを教えている。


 そうこうしているうちに、いや何もしないうちに、ラリーの周囲に起きた様々な不運はなんとなく去っていく。去っていってはいないのも多いけれど、それはそういうものとしてラリーの中で落ち着いてしまう
 ラストシーン、ラリーの息子ダニーの前には地獄からやってきたような巨大な竜巻が目の前まで迫ってきているし、ラリーには冒頭に受けていた人間ドッグの診断結果として「電話口では言えないこと」という電話がかかってくる。しかしそこで突然映画が終わる。

 唐突に始まるエンドクレジットに、観客は「え、あれはなんだったの」と当惑する。しかしそれはただそれだけ、なんでもないのだ。あの意味深な終劇の仕方や、冒頭の変なエピソードは別に論理的なつながり合いなどなくただそれが起こっているだけなのだ。観客がどう頭を使って意味を持たせようが無駄、時間が経てば観客の当惑も忘れ去られていく。
 本作はそのような映画らしくないリアリティを、映画らしいブラックユーモアをふんだんに使ったオフビートででもリズミカルな演出にて作り上げているのだ。


 以上、本作は「ただ時間が経つことで何もせずともそれに慣れてしまう」という、人間の地味ではあるがある意味たくましい処世術をコーエン兄弟らしいオフビートな笑いの連鎖で紡いでいった作品なのではないかと考える。
 こういった未曾有の大災害時に見ていて良かったと思える彼ららしいポジティブシンキングの表れだと思います。

 そんな映画にしづらい題材をここまで見せる作品に描くコーエン兄弟の手腕はさすがである。ひねくれているように見えて相当頑丈な基礎能力を持っていないとできない芸当だと思います。


 ところでこの作品「ユダヤ人」や「ユダヤ教」がかなり重要なキーワードとなっていたはずだけれど、あまりそういうものに詳しくない僕はそれに絡めて作品を鑑賞出来ませんでした。詳しい方、どなたか教えてください。


 けっこう人を選ぶ作品だし、つまらないという人の気持ちもすごくわかります。『アンチクライスト』よりは分かりやすいけれど、『白いリボン』くらい不親切です。そういう覚悟で臨んでください。個人的にはとてもお気に入りの作品でした。

 安藤裕子レベル。

 次回は久々のリクエスト受けていってきましたシリーズ。『マクロスF』の劇場版の2作目にて完結編、『劇場版マクロスF〈フロンティア〉~サヨナラノツバサ~』の感想きらっ!

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  1. 2011/03/15(火) 13:27:47|
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『ソーシャル・ネットワーク』は模型みたいな映画だよ。

ソーシャルネットワーク

 今週の『天装戦隊ゴセイジャー』は対ゴセイナイト続き。ゴセイナイトを第三のくさびにしようとする天使のブラ様でしたが、ゴセイジャー達はゴセイナイトを倒せないので彼はくさびにならない。で、実はそれはたんなるおとりで実は、アラタがゴセイナイトと戦いあっているうちに片手まで傍役達が倒したどう観てももう一人のくさびっぽかった怪人がやっぱりそうだったのだーって話。まわりくどい!!てかハナからバラすなよ!!
 あと山田ルイ13世が、ゴセイジャー達のこと知っていたとか。そもそもなんで隠していたのかよくわからないや。
 あとあとゴセイナイトとの戦いで、口の回りが砂にまみれて頬が打ち身で赤く染まったアラタが、石橋貴明のよくやるホモキャラのメイクみたいでした。

 さて、今回は今年はやくも1位じゃないかと噂されている『ソーシャル・ネットワーク』の感想ですが、果たして皆が皆感想をそこら中で述べられている中、僕が書く必要があるかどうかはありませんが、まぁ観た映画は全部書くというルール上、一応、簡単に書きますね。

 観に行った映画館はTOHOシネマズ六本木ヒルズ。はやく値下げが実践されないかな。
 夜遅くの回に行ったので、そこまで混んではいませんでした。若いカップルと会社帰りのサラリーマンが多め。前過ぎる席に座ってちと後悔。


概要:"facebook"誕生の裏話を書いたベン・メズリックのノンフィクションを基に『セブン』『ファイトクラブ』のデヴィッド・フィンチャーが監督し映画化。脚本はアーロン・ソーキン。
 2003年の秋。ハーバード大学の学生にして天才プログラマー、マーク・ザッカーバーグ(ジェシー・アイゼンバーグ)は、恋人エリカ(ルーニー・マーラ)にフラれた腹いせに、学内のデータベースをハッキングして、女子学生たちの顔写真を使った人気投票サイトを作ってしまう。そんな彼の技術に目を付けたエリート学生で双子のウィンクルボス兄弟(アーミー・ハマー)が、学内交流を目的としたサイトへの協力を持ちかける。しかしマークは、親友のエドゥアルド(アンドリュー・ガーフィールド)を誘って、ハーバードの学生を対象としたソーシャル・ネットワークのサイトを立ち上げる。するとそれは瞬く間に登録者を増やし、急速に拡大していくのだったが…。
"allcinema online"より抜粋)


 "social network"を無理に訳すと「社会的な情報網」とでも言い表せようか、情報化された人と人の繋がりである。

 人は「情報」とされるとき、とても即物的なものになる。そして他者が手に余る時、人は人をモノ化して扱う。『ロストパラダイス・イン・トーキョー』でも語られたことだが、あれは障がい者の兄の面倒を見るのが大変という点で、弟が兄をモノ化しようとしていたが、この映画で語られる「手に負えなさ」はもっと身近な問題。
 インターネットや携帯電話の普及でここ10年程度で「友達」の概念が変わりつつある。その一つの例が「友達」の量の多さの変化である。「友達」の数の増加が歯止めが利かなくなり、手に負えなくなった我々は”social network”を生み出した。この映画はそんな物語だった。


 この映画は「即物的」な描写にあふれている。例えば作品のクールでペーソスの効いた雰囲気。理詰めで構成されて、誰にも視点の重みが行ってない無機質な感じ。また印象的なのはウィンクルボス兄弟のボートシーン、最近写真集なども出て人気の模型っぽく見える技法(ティルトシフトレンズという特殊なレンズを使う「逆ティルト撮影」という技法)で撮られ、有機性が失せている。またCGでわざわざ同じ顔にしたウィンクルボス兄弟の人間味のなさ、また意味よりもリズムを重視したマークたちの会話。女の子をその見た目だけで品評しまくるサイトに始まる他者の物質化。表面でしか事件をとらえようとしない裁判。
 そして感情を隠して、その「イヤなヤツ」という表層的な態度で内面を隠すマーク。

 更に映画冒頭でのマークとエリカとの会話はよく聞くとIQ、学歴、成績、所属クラブ…と人の価値をなんらかの価値基準に当てはめ、まるで商品のようにデータ化しようとする作業のようである。マークの才能であり悲劇でもあるのは、恋人に「ボストン大学なら仕方ない」という人情味など皆無の「評価」をくだし、それについて悪気がないことである。人を何かしらの物差しで測り「情報処理(=モノ化)」しようとしている。

 日本だとmixiの定着で影がうすい"face book"だけれど、総じてSNSは友達の簡易リストの役割がある。2000年前後からの携帯電話やインターネットの普及は我々の「友達」に対する価値観を量・質ともに一変させた。それは友達のモノ化。そこに人情の機微をデータ化する機能はない。実は本作にいわゆる悪人は出てこない。みんな灰色の人間であり、いいところもあれば悪いところもある。高飛車なウィンクルボス兄弟が真面目にボートでトレーニングしていたり、学校の理事長に軽くあしらわれるシーンなど印象的だが、ステレオタイプなキャラクターなど存在しない。しかしながらSNSは「友達」をステレオタイプに情報処理する。
 そしてマークも、増えすぎた「友達」を整理するために、友達をどんどんモノ化していき、たった一人の友達エドゥアルドすらもモノとして扱うことで、"facebook"を生み出した。

 そしてマークもまた周囲の「友達」にデータ処理される。「意地悪」「皮肉屋」「天ノ邪鬼」と(「天才」「裏切り者」「危ない奴」「億万長者」といった彼を評価する「マークの簡単な情報」をシンプルでカッコ良くまとめた日本版のポスターはすごく的を得ている)。

 冒頭エリカがマークに言い放った「あなたはサイテーよ」という言葉に対応するように、物語の最後に弁護士が放つ「あなたはそんなに嫌な人ではないわ」という、彼を即物的に扱わないただそれだけの言葉に胸が痛くなった。そう、当たり前のことだが、友達は表面上でのデータではないのだ。
 『スプライス』で語られたように、人はみな寂しい。"facebook"に登録してくれたエリカは、マークの「友達」になってくれたのだろうか? 巨万の富を手に入れたマークが鳴らすラストのクリック音の寂しい響きに僕は涙してしまった。


 以上、本作は古典的な大筋でありながら、21世紀以降変化してしまった「友達」の概念を、SNSを題材にクールに切り取った作品であると思う。

 若手曲者役者たちがとてもいい。『ゾンビランド』でおなじみジェシー・アイゼンバーグくんもいいですが、いちばん観客側の視点、天才でも金持ちでもない凡人のため孤立していくエドゥアルド役を演じたアンドリュー・ガーフィールドが素晴らしい。新スパイダーマン楽しみにしています。あとウィンクルボス兄弟やその腰巾着みたいな彼もいい味出していました。あと本作を象徴するようなミスター表面だけ人間を演じたジェシー・アイゼンバーグとか。

 まぁおススメしなくても観に行っているであろう。噂に違わぬ良い映画でした。

 佐々木希レベル(それは即物的なかわいらしさ)。

 次回はまたこんな映画を観に行ってましたフランスのアホ映画『デッド・クリフ』の感想。


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(2006/04/08)
本城 直季

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  1. 2011/01/29(土) 00:37:18|
  2. 映画サ行
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『THE JOYUREI -女優霊-』を撮った意味がわからないよ。

女優霊
 ちょいちょい忙しく、感想書いていない映画がたまりまくっています。
 まだ今週のスーパーヒーロータイム観ていないよ。

 そんな中、こんなしょーもない映画は観ている暇があった、ええリメイクいつの間にしていたの? でおなじみ『THE JOYUREI -女優霊-』の感想。

 観に行った映画館は俺たちのシアターN渋谷。オリジナル版『女優霊』と2本立てで1500円と大変おとくで気の利いた興行をされております。今年もよろしくお願いいたします。
 客層は5~6人のスキモノ達。おじさんの一人客ばかりでした。オリジナル版にはこの手のJホラーにつきものの怖がりたがりの若者が何組がいたのですが(あまりの恐怖におしゃべり止めてあんぐりしていました)、こちらのリメイク版で帰ってしまっていました。若人よ、それも懸命だ。


概要:95年の中田秀夫による『女優霊』を英語リメイク。ハリウッドリメイクとは言っても監督は『メイド・イン・ホンコン』『ドリアン ドリアン』のフルーツ・チャン。
 映画監督のマーカス(レシャード・ストリック)は、突如襲い来る幻覚に悩まされながらも、それを映画作りのヒントにしていた。そんなマーカスに人生最後のチャンスとも言える新作のオファーが舞い込んで来た。幻覚や恋人の病態で悩んでいた彼はスランプに陥っており、今回の監督オファーは映画界のメインストリームに返り咲く為にも失敗できない大チャンスなのだ。早速、マーカスはスタッフと共に撮影の舞台であるドラキュラを生んだトランシルバニア高原に飛び、古びた撮影スタジオに乗り込んだ。しかし撮影が始まると映るはずのない女性の人影やなぞの機材故障に悩まされることに。この小さなトラブルは日増しに多くなっていき…。
("goo 映画"より抜粋)


 今回はいちいち不満点をあげていったらキリがないし、感想書くなら同じオリジナル版『女優霊』の感想を書いた方がずっと生産的だし、あまりにどうでもいい映画だったため観たそばからどんどん内容を忘れていってたりして、そんな諸々の理由からいつもとは違うアプローチで本作を考えてみたいと思います。

 そもそもこの映画を、スキモノの集うシアターN渋谷に見に行く人はある程度の映画慣れしている人が多いと思われ、その中でこれに傑作を予感して見に行く人はあまりいないであろう。怖さを期待している人すらあまりいないのではないか?

 シアターN渋谷が無かったならばビデオスルーになっていたであろう本作をわざわざ映画館で見る人が、何に期待するかと言えば、リメイク大好きアメリカ人が如何にジャパニーズホラーのもはやクラシック『女優霊』を料理するか?という点ではないだろうか。
 そこんとこきちんと分かっているのであろう、両作品を見比べやすいようにシアターN渋谷はオリジナル版『女優霊』と同時上映にしている。


 フルーツ・チャンも別に悪い監督ではないとは思うのですが、2本並べて比較してどっちが優れた作品かなんて明らかであり、ここで「オリジナル版の何もしてこない幽霊がただ高笑いしているのが怖かったのに…」とか「なんで神に救われてるんだよ!」みたいなツッコミを素直に真面目に入れてたら、ただでさえこのブログに時間取られているのに、いつまでたっても歯も磨けやしないし、お風呂にだって入れやしない。

 で、今回はこの二作品を比較することで見えてきた、大きな不満点だけ書きたいと思います。

 総じて今回はその死や恐怖のスケールがあまりにショボいことについて書こうかなと。

 両者を比べて気になった最も顕著な違いは、前述したようにオリジナル版はただそこにいるだけの高笑いする白い女の存在が怖かったことに対し、リメイク版の幽霊が与える恐怖はやたら攻撃的でありハエを使ってグロテスクに殺していく
 この違いに関して、オリジナル版は「心理的」、リメイク版は「物理的」な恐怖を描いていると推測できる。
 もちろんこれはよく言われていたことで、日本とアメリカのホラーを見比べたら、前者、例えばお岩さんやお菊さん、定子に代表されるようなホラースターたちはその存在がそこにいるだけで登場人物は死にいたり(「呪い」による死)、後者、例えば狼男やドラキュラ、ジェイソンはその存在が直接暴力をふるうことで登場人物は死にいたるといったケースが多い。直接暴力をふるわれることはなくとも『オーメン』のように、なんらかのオカルティックな力によっての殺人だとしても、その力によって首を切られたり、高所から突き落とされたりと、結果的には物理的な殺され方をする。
 この相違はちょっと面白く、ハリウッド的な「直接の暴力による死」というのは「個人の肉体的な死」でありそれ以上ではないが、「その存在に出会うだけでいたる死」というのは「個人の死」以上の「死」を描いている。例えばそれはその者の関係者の死であったり、肉体だけではない魂の部分にまで干渉してくる「死」であったり。
 例えばリメイク版で、女優霊にハエを使役されたりして殺された幾人もの映画製作スタッフたちは死んだあと化けて出たりはしない。しかしオリジナル版の中盤で落下して死んだ子役の少女は終盤幽霊(?)と化して再登場し残されたものを引っ張ろうとするし、最後に女優霊に引きずられていった柳ユーレイの魂が真っ当な成仏を得たとはどうしても思えない。

 またオリジナル版の女優霊は正義とか悪とかそういう認識を超越した絶対的な呪いの主体として存在し、それが取り返しのつかない恐怖を生み出しているが、リメイク版は単なる悪霊であり、「正義」的なものと対立構造になっている。
 リメイク版の結末の、どうも拍子抜けしてしまう、スティーヴン・キング的な「聖人」の登場と彼女による突然の解決はやはり描かれる「死」に対する恐怖のスケールの小ささを物語っている。

 例えば多くのいにしえからのモンスターホラーやスプラッタホラー、当ブログで扱ったところでいうと『ハロウィン2』なんかだと、その軽くスケールの小さい死も一つの味というかもはやユーモアにすら転化されていて、これはとても好きなのですが、こと『女優霊』の名を冠した作品におけるこの軽い死はただただチープなだけで何の面白味もない。


 で、この「スケールがショボい」というのは、それぞれの作品が描く「恐怖の認識」にも通じる。

 オリジナル版は、その恐怖を「人間っぽいが人間ではない何か」を描くことで表現していた。例えば冒頭の紙人形(「人」の「形」ってなんて恐ろしい言葉だろう)、人形めいた幽霊の顔、人間とは違う筋肉を使っているかのような顔全体で笑う女優霊。そして「偽物を作る」といういささか背徳めいた映画製作という行為。
 オリジナル版は「映画」を作ったり見たりする行為全体を背徳的で恐ろしいものとして感じさせるパワーがあった。
 そういったメタ的な「映画」に対する言及は、リメイク版にはもちろん無い。
 リメイク版ではただ、昔にあった一本の映画を見ることそれだけが恐怖であり、映画という行為全体に対する言及などは無い、というか製作者にそのような志や恐怖に対する偏愛など感じられない。
 やはろ描こうとしているもののスケールが小さいのだ。


 以上、文句を言えば死ぬほど書けますが、2作品を並べてしまったことで、そんな意気すらわかなくなるほどの映画でした。一言で言うと、『女優霊』を語るにはあまりに志が低すぎるし、スケールが小さすぎるということ。

 良かった点は、現実にあった惨劇、それをフィクション化した映画、そしてそれのリメイク作品がそれぞれ同じような呪いにかかるという多重構造的な展開が面白かったです。
 あとクルー全体が呪いによって暴徒になって殺しあっていくという設定も良かったです。そこもっと緊迫感と迫力もって描けたら良かったのに。

 他にはチャップリンの娘はあんなんでいいのかとか、エンドクレジットのエレクトロニカの台無しにするようなものもない本作を台無しに出来るような安っぽさはすげえとか。あとイーライ・ロス、出演しないでいいから、お前の出番だろ、とか。

 せめてダメでいい加減な映画なら、開き直って『ジャーロ』のごときユーモアを入れる大人の余裕があったら良かったなって。

 当ブログで扱ってきた映画の中でもトップクラスで見る意味はあまりない映画ですが、新興のホラー表現というだけで軽く見られがちなジャパニーズホラーの中でも最高峰の『女優霊』という映画の素晴らしさを確認するという意味は、見てもいいかもしれません。2作品を見比べるという体験としてはオススメ。
 これ、単品で観たら、比較することが出来ない分もう少しは面白く感じられると思います。

 まゆゆbot(みんなもtwitterでフォローしよう!)レベル。

 次回は話題作じゃないか!『ソーシャル・ネットワーク』の感想。

テーマ:映画館で観た映画 - ジャンル:映画

  1. 2011/01/27(木) 14:21:47|
  2. 映画サ行
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『最後の忠臣蔵』は吉良上野介のこともちょっとは考えてあげてほしいよ。

最後の忠臣蔵

 更新しないでごめんなさい。
 今回はリクエストを受けて観に行ったシリーズ第4弾『最後の忠臣蔵』です。
 ちなみに次のリクエストも先日頂きました。『やぎの冒険』。観に行く暇あるかな?

 観に行った映画館は新宿ピカデリー。公開からしばらく経っているのもあってお客さんの数は少なめ。ご老体が多めでした。夫婦で来ている人が多いみたい。


概要:監督は『北の国から』『ラストソング』の杉田成道。劇場映画は17年ぶり。脚本はベテラン田中陽造。『四十七士の刺客』の池宮彰一郎が原作。
 赤穂浪士の討ち入りから16年。すでに、とうに終わった事件と思われていたが、四十七士の中にあってただ一人、切腹することなく生き延びた男がいた。その男、寺坂吉右衛門(佐藤浩市)は、大石内蔵助(片岡仁左衛門)より生き証人として討ち入りの真実を後世に伝え、浪士の遺族を援助せよとの使命を受けていたのだ。遺族を捜して全国を渡り歩き、ついにその旅も終わりを迎えようとしていた。そんな時、彼は討ち入りの前夜に突如逃亡したかつての友、瀬尾孫左衛門(役所広司)と出会う。固い絆で結ばれていた2人は、主君内蔵助のために命を捧げようと誓い合ったはずだった。そんな吉右衛門の非難にも決して真相を語ろうとしない孫左衛門。しかし彼にもまた、裏切り者の汚名に耐えてでも生き延びなければならないある使命があった。それは、内蔵助の隠し子、可音(桜庭ななみ)を密かに育て上げるというものだった。その可音にも晴れて縁談話が持ち上がり、孫左衛門の使命もいよいよ終わりを迎えようとしていたが…。
"allcinema online"より抜粋)


 前回、批判豪々の『スプライス』にえらく感銘を受けた僕ですが、今回のこの作品、世の中の好評に反して、結論から言って僕はあまり楽しめませんでした。一般論に逆らってみたいだけじゃねえか?と、いよいよ僕の薄っぺらさが露呈してしまいそうですが、今回はごめんなさい。みなさん絶賛の中、不満をつらつら書かさせていただきます。

 この作品、変なところ作り混みすぎて、変なところ描写不足だったりして、つかみ所が見つからないという、そもそも『忠臣蔵』という根本となる物語に僕が一言あるため穿った見方をしがちという、そんなところが不満の原因なのですが、そこを書きたいと思います。


 まず、根本を否定してしまうようで悪いのですが、『忠臣蔵』という物語が僕はどうしても好きではないのです。
 色々なアプローチの仕方で何千回も繰り返し作られてきたこの物語、その多くが美談であると語っているけれど、天の邪鬼の僕には、嫌味を言われて癇癪起こした男のために、その子分たちが47人も集めて老人を集団リンチしにいく物語に思えてしまう。
 で、更に苦手なのはその全員が集団自決するところ。浅野内匠頭の遺恨を継いで復讐したのであれば、その意思を継いだものは生き残るべきであって、それが主君の後を追って死んでしまっては、浅野内匠頭も報われないのではないかと、それって「死ねば感動」みたいな昨今の日本映画が持つチープな病理に通じるものを感じる。

 まあ史実なのだから仕方ないのかもしれませんし、それが近世的な美学なのかもしれませんが、あまり気持ちのいい物語には思えません。

 で、本作はそんな『忠臣蔵』のその後、16年後を描いた物語。

(以下ネタバレ)

 しょっぱなから物語の結末の話を書きますが、最後に主人公の役所広司演じる孫左衛門が役目を終えたからと、先に自決して散っていった同志のあとを追い、切腹するんです。で、それに感動した佐藤浩市演じる吉右衛門が「お主は48人目の赤穂浪士じゃ(AKR48)」みたいなことを言う。
 で、そこにいたるまでの物語を見るに、本作は浅野内匠頭の遺恨を継いだ大石内蔵助の意思がその後如何にして受け継がれていったかって事を描いた作品だと思うのです。

 例えば3人の主人公はそれぞれ、吉右衛門は赤穂浪士の意思を生きて記録すべく、可音(桜庭ななみ)は大石の血を絶やさぬように、孫左衛門はそのような彼女を見守るようにっていう使命を持ち、終盤最も感動させたいシーンなのであろう大石にかつて恩義を受けた者たちが可音の結婚式に集うシーンも、赤穂浪士の意思は生きていることを表現している。

 で、そこに関してはとてもいいと思うんです。「最後みんな死んじゃってどーすんだよ!」といった『忠臣蔵』という物語に感じていた不満を補ってくれている。

 すると「なんで最後孫左衛門切腹しちゃうの?」って疑問がなおさら湧いてくる。それが他殺ならまだ「やはり夢(意思をつぐということ)は儚く散るのか」ってな具合の儚げな哀愁など出て、いいかもって分かるんですが、役所広司自分から進んで意味なく切腹しちゃうんだもの。残された者の苦しみとか彼がいちばん分かっているだろうに、彼に恋していた可音やゆう(安田成美)を置いて自己満足的に切腹してしまう。
 これでこの物語が何やりたいのかまるで分からなくなっちゃうんです。
 結局「意思を継ぐ」って物語を否定してやいないか?
 「死ぬより生きることのほうがつらいような孤独」って分からなくもないのですが、そんなに辛そうでもないしっていうか、回想シーンでの可音との日々とかすごく幸せそうだったし。


 で、これ僕の読解力の問題かもしれないけれど、可音の恋も、浅野内匠頭の意思も、赤穂浪士の意思も、孫左衛門の命も、どれもこれも何も実らせず全て儚げに消えてしまう。それは冒頭に引用される近松門左衛門の『曽根崎心中』のフレーズ〝この世の名残、夜も名残、死にに行く身をたとふれば、あだしが原の道の霜、一足づつに消えて行く、夢の夢こそあはれなれ〟が示すように。そして儚く消え入ったそれら赤穂浪士たちの受け継がれた意思が結集することでただ一つ実らせることができた少女の成長と幸福ってのを書きたかったのかなーとは思います。
 が、それを感じさせるには描写がちょっと下手なのが気になって、どうしてもそれを素直に受け入れにくい。


 例えば、この映画は起承転結の「起」の部分が長すぎて、説明された様々な要素がその後どう障害にぶつかり、どう転がっていくかという、この物語が何をやりたいかわかる部分に到着するまで(可音が大石内蔵助の隠し子と判明するときまで)が長すぎる。
 それに加えて、実のならない木を見て、吉右衛門が「実のならない木か…まるで俺のようだな」とか、セリフがいちいち説明くさいから、ただでさえ設定説明が多い冒頭部分が退屈に思えてしまう。
 説明と言えば感傷的すぎる音楽とかもあまり好きではない。
 『北の国から』ってとても好きなドラマなのですが、やはり杉田成道監督って、映画よりも分かりやすい説明が求められるテレビドラマ向けの人なのかなって思ってしまう。

 逆に肝心なところは説明不足で、例えば大石内蔵助を慕っていた家臣たちが最後に可音のもとにかけつけるシーンで、大石内蔵助がどれだけ立派なことをしたかの描写が、冒頭で吉右衛門が彼の遺言で赤穂浪士の親族にお金を渡して回ったり程度のもので、その偉さがあまり伝わらない。
 「いや、大石内蔵助のやったことはみんな知ってるでしょ?」なんてツッコミが入るかもしれないけれど、大石内蔵助ってもはやほぼ創作上のキャラクターみたいになっていて、彼の描き方は作品によって多種多様である。僕みたいに彼にあまり好印象を持っていない人もいる。そんな宙ぶらりんのキャラクターをほとんど描写せず、その立派さをさも周知の事実のような感じで描くのでまるで説得力がない。

 結婚式に駆けつけるのが孫左衛門を疑っていた吉右衛門や、かつて孫左衛門を襲った家臣三人組だけだったら、そこまでに彼らが大石内蔵助を如何に思っていたかの描写があったから感動出来たんだけど、次から次へとあれよこれよと見も知らぬ家臣達が来るあのシーン、あれじゃいくらなんでも来すぎで嘘くさい。


 このように『最後の忠臣蔵』は描写がいまいち物足りなく、テーマを素直に掴みにくい映画になってしまっているように感じた。そもそも『忠臣蔵』に愛着のない僕のような「故」には冷たく「新」も知らない輩には、前提としての『忠臣蔵』に対する美学が伝わりにくいのだから、その描写をほとんど省いてしまうのは、根本的な説得力が欠けている風に感じる。


 あと、これは単純に読み取れなかったか見落としてしまったのですが、あんなに結婚を拒否してた可音が急に結婚を意識したのは、吉右衛門が何か口添えしたから?


 良かった点もたくさんあります。例えば季節の描写、落ち葉や雪など、日本家屋にあわさったりして、ちょっと記号的な表現すぎるきらいはありますが、まあ美しいものは美しい。
 あと人形浄瑠璃を挿入するセンスとか好きです。

 他の不満点としては大石内蔵助といったら彼を演じた片岡仁左衛門さん、老けすぎやしないか? というかこの映画、全体的に役者さんが老けすぎ。江戸時代ってもっと平均年齢若くないだろうか。


 多分、悪い映画ではないんです。何度も申しあげているように、『忠臣蔵』がそもそも嫌いな僕には、ハナからその美学を一般的なものであると前提して語っていくストーリーテリングゆえに、穿った見方をしてしまったってのもあるんでしょうね。
 『忠臣蔵』が好きな人には、むしろウケがいいのかもしれない。

 加藤ローサレベル。

 次回は、えええ、リメイクなんて作ってたんだーでおなじみの『THE JOYUREI ~女優霊~』の感想。

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  1. 2011/01/24(月) 01:07:35|
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