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『ハングオーバー!! 史上最悪の二日酔い、国境を越える』は僕らの友達だよ。

ハングオーバー2

 こんばんは。今回も真面目に更新するよ。
 今回は『ハングオーバー! 消えた花ムコと史上最悪の二日酔い』の続編、『ハングオーバー!! 史上最悪の二日酔い、国境を越える』の感想です。

 観に行った映画館はTOHOシネマズ六本木ヒルズ。ここは日本で数少ないR-18バージョンでの公開でして、これはもう絶対R-18で観に行くのが得策ですよ。あとラジオで宇多丸さんがいっていましたが海外製コメディを見る時は外国人と一緒に限るので、ここは外人も多くてオススメです。どんなくだらないことでも爆笑していた。客層はオジサンオバサン外人サンが多め。割と混んでいました。


概要:製作・監督・脚本は前作と同様『デュー・デート ~出産まであと5日!史上最悪のアメリカ横断~』のトッド・フィリップス。音楽は『RED/レッド』『バーレスク』のクリストフ・ベック。
 2年前にラスベガスで散々な体験をしたフィル(ブラッドリー・クーパー)、ダグ(ジャスティン・バーサ)、ステュ(エド・ヘルムズ)の悪友3人だが、このたび歯科医のステュが晴れて結婚することに。しかも結婚式の舞台は、花嫁の両親の出身地、タイ。前回の二の舞だけは避けたいステュは、問題児アラン(ザック・ガリフィナーキス)の招待に二の足を踏むが、義兄ダグに懇願され渋々了承するハメに。こうして異国の地タイへと降り立った4人。花嫁のまじめな弟テディ(メイソン・リー)も交えて、大人しく結婚式を迎えるはずだった。ところがその夜、一行は軽くビールを口にしただけのはずが、翌朝目覚めてみると、またしてもひどい二日酔いで昨夜の記憶が飛んでしまっていた。自分たちのいる場所も分からないばかりか、アランの頭は丸坊主で花婿ステュの顔にはド派手なタトゥー、おまけにテディは行方不明。そして、なぜかベストを着たサルが。結婚式が明日に迫る中、大混乱のフィルたちは、何はともあれテディの捜索へと繰り出すのだが…。
("allcinema online"より抜粋)


 何が笑えるかって、それは上質なコメディ映画でも古典落語でも吉本新喜劇でも下世話なテレビバラエティでもなく、一番仲の良い友人たちと騒ぐことだろう。ビール片手に「あのときああだった」とか「あいつのオッパイが云々」とか内輪ネタで盛り上がることができれば、例え十代ではなくとも箸が転んでも笑える状況となる。
 『ハングオーバー!』の続編となる本作は、そんな内輪ネタの楽しさをなんとか映画で再現できないかと奮闘しているように見える。


(1)『冷たい雨に撃て、約束の銃弾を』などのジョニー・トー作品や、ロバート・ダウニー・Jr.の『シャーロック・ホームズ』、この前の『X-MEN:ファースト・ジェネレーション』、またはあまり成功はしていなかったが『シュアリー・サムデイ』、あとは『セックス・アンド・ザ・シティ』やら女子会ブームやら、最近、異性厳禁の同性だけでキャッキャとバカ騒ぎするものが流行っている。いわゆる"ホモソーシャル"というやつだ。

 本作にはやたらとフレーム内に主要登場人物(主にアラン、ステュ、フィルの三人+α)が揃って写るショットが多い、彼らが初登場するショットもフィルのアップからぐっとカメラが引くと3人一緒だし、ラストショットも「狼軍団」全員集合ショットだ。彼らは男だらけのチーム、最近の言葉を借りれば、ホモソーシャルの最もポピュラーな形としての「チーム男子」だ。

 同性同士キャッキャすることの何が楽しいって、本作の終盤でステュが「僕には暗黒面がある」と言っているが、いいこちゃんぶらずに腹を割って暗黒面をさらけ出せるからであろう。
 人は皆、汚くてバカで浅はかでズルくてエロい、でもそんな恥ずかしいこと他人には見せられない。本作のステュのように、一生懸命隠して生活している。だから気の合う仲間と酔っぱらった時くらいは、普段欺瞞臭く隠蔽されている"暗黒面"をさらすのはとても楽しいのだ。後にどんな後悔が待っていようと。


(2)ただし、そんな「暗黒面」をさらけ出すことは既にパート1でやっている。では本作は前作と何が違うのか

 三人の友情を築くことはとりあえず前作でやっておいた。だから続編である本作は、友情の芽生えを描く必要がないぶんその友情をによってより腹を割って暗黒面を見せていく必要がある。何故ならコメディやホラーやアクションのパート2は、基本的にパート1よりずっとド派手でなくてはならないからだ。『イップマン 葉問』『アイアンマン2』などはきちんとそのルールに従っていた。
 で、本作もその「パート2の伝統」に倣っている。「暗黒面」がドス黒いのだ。

 例えば前回のラスベガスに対し、今回の舞台はタイのバンコク、あの旅行に行くとどんな堅物でもハメを外してしまうと言われる魔都だ。劇中「バンコクにとらわれるな」というセリフが何度か出てくるが、呑気で明るい反面、犯罪の温床という計り知れない"暗黒面"を持つこの街では、前回のラスベガス以上にひどいことが起きないはずはない。
 前回歯科医なのに歯をなくしていたステュは、今回顔面に巨大なタトゥーを刻んでしまうし、前回は美人ストリッパーと一晩を共にしたが、今回はニューハーフにオカマを掘られる。
 アランの社会性の無さはもはや怖さすら感じるレベルだし、気取り屋のフィルだって銃で撃たれる。
 パワーアップしたといえば彼ら3人に加えて、彼らと争ったチャイナマフィア(多分)のMr.チャウ(ケン・チョン)が仲間に加わり、「暗黒面」の悪ノリはより暴走。悪役として登場した前回はファニーすぎてあまり笑えなかったのですが、仲間として登場すると相当クレイジーで頼もしい(?)言動で彼らの珍道中をよりハードでディープで真っ黒なギャグに晒してくる。

 そのようなよりハードな展開のなか、特にひどい「暗黒面」を見せるのが今回初登場のステュの義弟テディだ。16にして天才外科医の卵であり、チェリストでもある彼は将来超有望な好青年であるが、"狼軍団"のバカ騒ぎに参加したことで暴走、ヘラヘラ笑いながら指を一本自ら切り落としニコニコ笑うことがエンドクレジットで判明する。そこだけ見たら猟奇的にも見えなくもないこのショット、観客は笑えるのか――少なくとも僕はいちばん笑ってしまった。なぜなら"暗黒面"は行き過ぎると笑えないが、それすら酔いの勢いのせいにしてしまうこのショットによって、倫理感のリミッターが外されてしまったからだ。
 このように本作は前回よりずっと悪ノリして、より「同性だらけの暗黒面」をさらけ出してくる。


(3)続いて観客をも巻き込んだ"身内感"について考えたい。

 冒頭に書いたように"同性だらけの暗黒面"="身内"だ。「こんな酷いことしているのに、俺たちだからわかる、俺たちだけにはわかる」という内輪の感覚だ。

 今回目立つのが、スラプスティックコメディの続編における定石――繰り返しの笑いだ。
 フィルの電話で始まり、何がなんだかアランが旅に参加し、酒を呑んだ瞬間時間と記憶が吹っ飛ぶ。ステュの顔は変形しており、メンバーの一人が行方不明。部屋には謎の動物など昨晩の狂乱の痕が…。そのあとも前作同様のことが繰り返され、その度にいちいち前回の騒動を思い出し震え上がるステュとフィル。

 『男はつらいよ』シリーズのオープニングの喧嘩みたいなもので、きちんとパート1も通して見ている観客は確実に笑える定石ギャグだ。ここのような繰り返しギャグにより観客との関係性の強化が行なわれる。「『パート1』を見ている俺だけにこいつらの面白さがわかる」と観客に感じさせ、より"うちわ感"を高めるのだ。
(ただまあ『ハングオーバー!』は既に敷かれたレールに従うのではなく、もっとパンキッシュな笑いを追求して欲しく、きちんと定石踏まえてきたのは少し残念っちゃ残念。定石をぶち壊してこそ『ハングオーバー!』のギャグだろうに)
 

 また登場人物たちのキャラクターデザインにも"身内感"がある。
 最近のコメディの傾向として、ベン・スティラーにせよジャック・ブラックにせよ、ひと昔前の人気コメディアン(マイク・マイヤーズやローワン・アトキンソン、エディ・マーフィなど)に比べ、より一般人っぽくなっている傾向がある。ステュ役なんて『ロスト・アイズ』の犯人くらい見た目に印象がない。
 また若者ではないのもポイント。この手の悪ノリコメディは『アニマルハウス』にせよ『ウェインズ・ワールド』にせよ『ジャッカス』にせよ主役が若いというのがお決まりだったが、本作の主人公たちはアラフォーのオジサンたち。
 面白い見た目の若者がバカやるより、普通のオジサンがバカやる方が観客にとって意外性も共感性も高い。

 このようにして『ハングオーバー! 消えた花ムコと史上最悪の二日酔い』は観客をも巻き込んで"身内感"を高めているのだ。


 以上、『ハングオーバー!!』は様々な手法をもってして、観客に登場人物たちを仲間と思わせて盛り上げている。映画が進んでいくに連れ、観客は彼らの親友となり、悪くてハチャメチャで、でもとびきり楽しい旅に出ることが出来る。この旅はアランならずともクセになる。また一緒に行きたいものだ。


(4)不満点はいくつかあって、まず一番の不満は「パート1」に比べてミステリー要素・ストーリー性やテーマとなる友情要素が少ない。友情が崩れるピンチなど欲しかった。
 フィルの容姿をじるギャグがないのは前回に引き続き不満。せっかくのイケメンなのに、イケメンならばカッコ悪く崩れていくのがセオリーじゃね?

 あと、ステュの新しい奥さん役のジェイミー・チャンがすっげー可愛かったです。

 次回作は、あるとしたら、今回のように「パート1」の繰り返しではなく、全部をめちゃくちゃに破壊するストーリーを作りたいそうです。是非、テディとミスター・チャウを入れてお願いしたいです。
 
 Rioレベル。

 次回は何が何だかやたら流行っているそうです。『ムカデ人間』の感想。

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  1. 2011/07/28(木) 22:41:14|
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『127時間』はトレンディな孤独だよ。

127

 えー。スーパーやる気でませんでした。
 ちゃんとやりますね。今回はダニー・ボイル監督の最新作、アカデミー賞候補にもなりました『127時間』の感想。見たのもうずいぶん前です…すいません。
 観に行った映画館はTOHOシネマズ府中。最近、夜にここで自転車漕いで行ってレイトショー割引で観るのが好きです。TOHOシネマズは渋谷に続き、新宿にも進出するそうですね。すげー勢い。例の値下げやらなんやら日本の映画館を征服するんじゃないだろうか。
 客層は一人客のおじさんがちょこちょこ、学生風の若者が数人。


概要:2010年のアメリカ映画。監督・脚本は『トレインスポッティング』や『28日後…』『スラムドッグ$ミリオネア』のダニー・ボイル。音楽はA・R・ラフマーン。原作はアーロン・ラルストン。
 ある日、27歳の青年アーロン(ジェームズ・フランコ)は一人でロッククライミングを楽しむため、庭のように慣れ親しんだブルー・ジョン・キャニオンへと向かった。美しい景観の中で様々な遊びに興じて大自然を満喫するアーロン。ところが、ふとしたアクシデントから、大きな落石に右腕を挟まれ、谷底で身動きがとれなくなってしまう。そこは誰も寄りつかない荒野の真ん中。おまけに彼は行き先を誰にも告げずに出てきてしまった。絶望的な状況と自覚しながらも冷静さを失わず、ここから抜け出す方法を懸命に模索するアーロン。しかし無情にも時間ばかりが過ぎていき、彼の強靱な体力と精神力もいよいよ限界を迎えようとしていた。
("allcinema online"より抜粋)


 僕の尊敬する市川崑監督はかつて「他人はどんなに近くにいる人でもやっぱり他人、完全に分かり合えるなんてことはなく、人は本来的にみな孤独な生き物である。でもだからこそ自分の孤独を見つめ、他者の孤独を認め、精一杯認めあっていくべきだ」なんてことを言っていたが、それが出来たとき、孤独はその人の個性となる。それは高度なコミュニケーション論だ。

 『127時間』の主人公アーロンは自分が孤独であるなんて微塵も思っちゃいない。「一人サイコー!」なんて言ってるけど孤独を感じてはいない。本作は市川崑が言うように、そんな現代人が、やがて"孤独"が"個性"となり他者とのコミュニケーションとはどのようなものかを知っていく物語だったと思う。


(1)現代は「孤独」をひた隠しにしている。
 例えば照明はそこら中を明るく照らし自己を見つめるチャンスの暗闇を与えないし、パソコンをつけてインターネットに接続すれば世界中と繋がることも出来る。常時持ち歩くことがもはや義務化されてもいる携帯電話でいつも誰かと繋がっている安心感も得られている。
 だから我々は「自分は孤独ではない」と錯覚する。
 『ルイーサ』の主人公はルーチンワークを何十年も繰り返し、猫を溺愛することで孤独から目を逸らしていたし、『乱暴と待機』の主人公たちは憎み合うという関係を維持することで孤独を拒否していた。

 『127時間』のアーロンはもうちょっと致命的だ。孤独であるなんてまったく思ってはいない。
 なぜなら彼は自分の表層的な部分しか見ず、奥底など見つめていないからだ。彼にとって「自分」とは「他者にどう見られているか、どう見て欲しいか」でしかなく、そのため見た目を何よりも気にする。
 趣味のアウトドア(これもおそらく"かっこよく思われる趣味")に行くときは、4WDで出発し、マウンテンバイクに跨がり、オシャレなスポーツウェアに身を包み、i-Podとハイテクウォッチとカメラとビデオカメラとその他もろもろのアウトドアグッズを持ち歩き、なんでも自分一人で解決してきた"クールでクレバーでクレイジーなオレ"を演出している。
 だからモテるし友達も多いのだが、結局見透かされて軽薄なやつ、薄っぺらいやつ、心無いやつと思われがちである。
 それでもアーロンは孤独を感じない。それは孤独を見えなくさせる現代の波に乗って生きているからだ。


(2)孤独を感じないアーロンは他者をどう考えているか。
 彼は常にビデオカメラを持ち歩き、自分撮りで、勝手に作り上げた「不特定多数の何者か」という調子のいい「他者」と話し合っている。多分ネットにアップするか何かするのだろう。我々が掲示板やTwitterなどで書き込みするときに意識する「不特定多数の何者か」――「2ちゃんねる」的に言えば「名無しさん」と同様の存在だ。
 彼の脳内にいる「他者」は基本的にそういった「名無しさん」である(『ソーシャル・ネットワーク』でも描かれた数値化された「たくさんの友達」とも似ている)。

 本作の冒頭に大観衆でごったがえすサッカースタジアムや、満員電車から大量に人間が出てくる駅のホームのショットが撮されるが、それこそアーロンの感じている"他者"の絵である。一人一人の人間ではなく、たくさんの人の一つの塊。
 だから彼は冒頭にすれ違った自転車の集団の塊の中の一人と目があった時に違和感を感じたのだ。あの塊はみな同じ方向を見ているべきで一人だけ違う方向を見るのはおかしいのだ。

 なぜそのようにしか他者が見えないのかと言うと、やはり彼が自身の孤独を見ていないからだ。自身の孤独を感じずして他者の孤独など解るはずなく、他者に興味も抱くことは困難だ。それ故に他者は常に「不特定多数の何者かの塊」であり、「他者といる」という行為は携帯電話やインターネットと同様の自身の孤独を見えなくするためのツールと成り下がってしまっているのだ。


(3)ダニー・ボイルという監督について考えてたい。90年代に青春を生きた映画ファンは『トレインスポッティング』の衝撃が一番印象的だろうか。
 『シャロウ・グレイブ』『普通じゃない』『ザ・ビーチ』『サンシャイン2057』『28日後…』『スラムドッグ$ミリオネア』もそうだったが、ポップカルチャーやサブカルチャーに満ち溢れた現代や、ゴミ溜めのようなスラム街や都市部からは見捨てられたあきれ果てるほどのド田舎といった原始時代や神話時代が遠い昔の無関係な出来事になってしまった現代のカルチャーの中に、それでもひっそりと存在しつづける人間の本来的な野獣性や神性を描き続けてきた。

 『127時間』のアーロンは谷底にハマり、右腕を岩に挟まれるというどん底のなかで、人生のうちのたった127時間初めて自身の孤独を見つめるチャンスを得る。

 それでも最初はビデオカメラや写真を使ってなんとか孤独をごまかす。まるでテレビのバラエティー番組のような一人語りを自分撮りして、"クールでクレバーでクレイジーなオレ"を演出し、演出もそれにあわせて今時のポピュラーミュージックとクラブのVJのごときモンタージュ手法で「カッコ良く」彼の孤独との闘争を撮す。そしてそうする度に孤独をごまかす度に自分が孤独であること、その行為の軽薄さに気づく。『ソーシャル・ネットワーク』の主人公がネットを通して孤独を見つめたように、彼もサブカルチャーを通じて孤独に気がついたのだ。

 それはとてつもない――毎朝頭上を飛ぶカラスが恋しくなるほどの孤独であった。何故自分は自転車集団の塊のうちの一人と目があって違和感を覚えたのか、どうして恋人にフラれたのか、どうして母親の留守電に返事を返さなかったのか、孤独な彼は自問と後悔を繰り返し、両親やかつての恋人が自分の孤独を知っていて、かつそれを認めてくれたことに気づく。

 彼が右腕切断という恐ろしい行為に踏み切れたのも「他者が恋しいから」であった。もし他者がいれば、もし他者が自分の孤独を認めてくれたのならば、右腕の骨を折り肉を切り神経を引きちぎる行為も恐くない。そう思えたから彼は右腕を切断できたのではないだろうか。
 そしてついに外に出たとき彼は携帯電話もビデオカメラも手放していた。恥も外聞もなく(なにせ右腕もないのだ)必死に自分の孤独を訴えた。それはカッコ悪いし惨めな姿だが、それまでのまるで安っぽいアニメキャラのようなハリボテの"クールでクレバーでクレイジー"なアーロンよりずっとエネルギッシュな人間くさい姿であり、そんな彼を見つけた見知らぬ一家は彼の孤独を受け止めてくれた。そうして、ようやく人間らしいコミュニケーションが成立したのだ。
 だからこの試練の後、彼は他者をようやく愛することができ、結婚をし、行き先を告げて旅に出るようになったのだ。


(4)まとめ。
 『127時間』でダニー・ボイルは現代カルチャーで目隠しされている人間の本来的な孤独を描いている。その自己の内にある孤独を認めることは、他者の孤独を認めることであり、その時、その孤独は他者を尊重する「個」となる。それこそが人間らしい人間を尊重したコミュニケーションであると本作を見て感じた。


 ダニー・ボイル作品のなかでもなかなかの傑作だと思います。生命力に溢れるエネルギッシュな映画なので、夏バテなどに是非。

 松井珠理奈レベル。

 次回は話題作ですがもう話題は去りましたね『SUPER 8/スーパーエイト』の感想。

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  1. 2011/07/13(水) 03:42:53|
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『パイレーツ・オブ・カリビアン/生命の泉』は楽しそうで羨ましいよ。

パイレーツ

 今回は『パイレーツ・オブ・カリビアン』の第4作目『パイレーツ・オブ・カリビアン/生命(いのち)の泉』の感想です。
 ちなみに『パイレーツ・オブ・カリビアン』シリーズ、あんまり思い入れがございません。ジャック・スパロウは嫌いじゃないんだけれど。

 観に行った映画館はTOHOシネマズ六本木ヒルズ。公開して間もなかったのでそこそこ混んでいました。カップルと子供連れの外国のお客さんが多め。いちばん大きなスクリーンで見たのですが、あそこは3Dを上映するにはスクリーンが大きすぎて、かなり薄暗くなってしまうので、3D鑑賞には向きませんね。


概要:2011年のアメリカ映画。ディズニーリゾートのアトラクション『カリブの海賊』をモチーフにしたアドベンチャー映画第4弾。監督は『シカゴ』『SAYURI』『NINE』のロブ・マーシャル。製作はジェリー・ブラッカイマー、脚本はテッド・エリオットとテリー・ロッシオ、音楽はハンス・ジマー。
 相棒ギブス(ケヴィン・R・マクナリー)を救うべくロンドンに降り立ったジャック・スパロウ(ジョニー・デップ)。彼はそこで、かつて愛した女海賊アンジェリカ(ペネロペ・クルス)と思わぬ再会を果たす。彼女は父親である最恐の海賊“黒ひげ”(イアン・マクシェーン)のために、永遠の生命をもたらすという“生命(いのち)の泉”を目指そうとしていた。ただ一人、泉の場所を知るジャックは、そんなアンジェリカと黒ひげの泉探しの旅に無理やり協力させられるハメに。しかし、泉を目指していたのは彼らだけではなかった。ライバル心を燃やすスペインとイギリスの両海軍も泉の発見を巡り、激しい争いを繰り広げていた。しかも英国海軍を率いるのは、なんと英国王に忠誠を誓い、海軍将校となったジャックの宿敵、バルボッサ(ジェフリー・ラッシュ)だった。そんな中、黒ひげは泉の謎を解く鍵といわれる人魚の捕獲に乗り出す。一方、黒ひげの船に囚われの身となっていた若き宣教師のフィリップ(サム・クラフリン)は、人魚のシレーナ(アストリッド・ベルジュ=フリスベ)と出会い、決して叶うはずのない恋に落ちてしまうのだが…。
("allcinema online"より抜粋)


 『機動戦士ガンダム』の脚本などで知られる星山博之氏は、物語に重要なのは"日常性"であると言って、大宇宙に放り投げられ巨大ロボットで戦争する少年たちの心情をリアルに描写した(ロボットアニメにはヒーロー然とした主人公がほとんどで、これが当時は新鮮だった)。
また初期のモダンを追求するあまりフワフワ浮いていってしまいそうな市川崑作品をきちんと地に抑えつけていたのは和田夏十の描く"日常性"を重視した脚本だった。

 この"日常性"というやつは、登場人物の生活感や生活感情の描写をさし、特にファンタジーやSFなど現実味の薄い作品に特に重要であり、これを抑えておかないと物語はまさに空絵事、物語や登場人物に共感できないままフワフワとどこかへ飛んでいってしまう。

 で、結論から言って本作『パイレーツ・オブ・カリビアン/生命の泉』を僕はあまり楽しめなかった。その原因として、本作に"日常性"が欠如していることが考えられる。今回はそこを解説していきたい。


(1)まず、本作がハリウッド大作映画のストーリー運びの黄金パターンをきちんと踏襲していることを確認したい。
 ――まず
「a.物語の設定説明」
 最初につかみどころのない海賊ジャック・スパロウと、「生命の泉」にたどり着きたいという物語の欲求、その欲求のために立ちふさがる障壁・葛藤が描かれ、観客に作品がどういうものかを簡潔に伝える。

「b.葛藤」
 「生命の泉」までへの障壁がジャックたちの前に立ちはだかる。例えば美しくも恐ろしい人喰い人魚たち、最強の海賊黒ひげ、宿敵バルバロッサ率いるイギリス海軍、同じく生命の泉を狙うスペイン海軍――様々な障壁がストーリーの進行をスムースには進めようとしない。

「c.結末」
 様々な葛藤の末、何が起こり、ジャック・スパロウは何を得たか、そして何を失ったか。(具体例はネタバレになるため割愛します)

 以上のように『パイレーツ・オブ・カリビアン/生命の泉』はハリウッド大作映画の黄金パターンのストーリー運びをしている。


(2)では、『パイレーツ・オブ・カリビアン/生命の泉』のどこが"日常性の欠如"なのか。
 問題は特に上記「a.物語の設定説明」にあると思われる。

 『アンストッパブル』『完全なる報復』『アンノウン』も同様のハリウッド黄金パターンのストーリー運びである。しかしこれらの作品の主人公には、観客の"日常性"とどこかでリンクしている"日常性"があった。共感できる生活臭たっぷりの一般人がヒーローになったり、そこらへんのオジサンが恐ろしき復讐者や暗殺者になったりした。だから観客はぶっ飛んだ物語にも入り込め共感ができたのだ。
 しかし本作には我々の生活と通じている"日常性"が欠けている。それゆえにいまいち共感しづらく、物語にのめり込みづらいのだ。

 例えば、「生命の泉」に行きたいという"物語の欲求"は主人公であるジャック・スパロウの日常性とは乖離している。彼は永遠の命など欲してなく、その欲求と個人の欲求が一致しているのは女海賊アンジェリカないし黒ひげなのだ。
 また前シリーズまでは観客の日常性と地続きの日常性を持つオーランド・ブルームが物語の視点を担うキャラクターとして登場していたが、本作は視点キャラクターが不在、もしくは観客の日常性とはかけ離れトリッキーで何を考えているかわからないジャック・スパロウ自身、もしくは物語の本筋にまるで関わってこない宣教師フィリップが視点を担うため、観客が物語に入り込む余地を塞いでしまっている。
 またジャック・スパロウの目的も不明瞭だ。アンジェリカを愛しているのか否か。黒ひげを殺したいのか穏便にすませたいのか。生命の泉を知っているのか否か。そのミステリアスさが彼の魅力だが、それゆえに"日常性"は無く、作品の弱点ともなってしまっている。

 これらの初期設定の点により、それ以降の「b.葛藤」ないし「c.結末」がいくらエキサイティングし、スクリーンには雄大な風景描写や激しく楽しいアクションや迫力の3D映像が広がろうとも、観客はいまいち作品内にのめり込むことができず、漫然と対岸の楽しげな花火を眺めるがごとき感覚におそわれてしまうのだ。

(※1)ついでにいうと悪役黒ひげも共感しづらいキャラクターであり、だったらいっそのことゴジラとか『ノー・カントリー』のシガーくらい圧倒的に不気味で最強で感情移入ができないキャラクターにすれば良かったけど、大して強そうにも見えず、そこらへんも不満点。

(※2)共感という点では本作の影の主役、黒ひげに執拗で泥臭い復讐をするバルボッサはとてもカッコ良く共感もしやすいキャラクターであった。彼が視点に立てば良かったかも。


(3)では本作がそれでも人気の理由は何であろうか。
 答えはおそらく「キャラ萌え」にある。
 例えば僕のように前シリーズに思い入れがない観客は、本作だけみてもキャラクターの魅力に興味が持続しづらいのだが、前シリーズからのファンにはたまらないだろう。
 だってもう終わったかと思った『パイレーツ・オブ・カリビアン』シリーズが復活し、あのジャック・スパロウたちにまた会えるのだから。そしてそういったジャック・スパロウを知っている観客たちにとっては、説明くさい視点キャラクターなど不要だし、それゆえに"日常性"も煩わしくすら思えるかもしれない。

 逆に悪く言えば、ディズニーらしいキャラクタービジネスモデルの典型的な映画とでもいうべきか、キャラクター人気におんぶにだっこしているだけにも見えるのだ。


 以上、『パイレーツ・オブ・カリビアン/生命の泉』は、なんとなく面白そうだし、ワクワクもするけれど、こちらに迫ってくるテーマや問題提起などはなく、ただ向こう岸で楽しげにドンパチやっているのを対岸で眺めているだけ、そんな印象の作品に僕はなってしまったのだと思う。


(4)良かった点ももちろんあります。
 ディズニーランドの「カリブの海賊」が持つとことん楽しげな雰囲気はよく再現されていてやっぱりワクワクするし、恐ろしい人魚の描写もとてもナイス。あと先述したけれどバルボッサの人間くさい極悪っぷりもとても好きです。


 そんなわけで、前シリーズのファンにはもちろんオススメです。別にファンじゃなければ、つまらなさがもっと凄まじい『これでいいのだ!! 映画☆赤塚不二夫』をオススメします。

 道端ジェシカレベル。

 次回はようやく観に行きました。周防正行監督の新作『ダンシング・チャップリン』の感想だい。

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  1. 2011/06/02(木) 14:57:25|
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『ブラック・スワン』は終始バレエしか描いていないよ。

blackswan
 ごめんなさい。『名探偵コナン 沈黙の15分』の感想を書くと言って、いまだに見ていません。その間に4本も見てしまったので、先にそちらを消化します。

 てなわけで今回は久々の話題作『ブラック・スワン』の感想。
 観に行った映画館はTOHOシネマズ六本木ヒルズ。この手の映画はここは混み合いますね。オバさんが多めでしたが、バレエ映画として観に行ってるのかな。で、若者はエログロ目当てで観に行ってるのかと。


概要:2010年のアメリカ映画。監督は『π』『レクイエム・フォー・ドリーム』『レスラー』のダーレン・アロノフスキー。音楽はクリント・マンセル。
 ニューヨークのバレエ・カンパニーに所属するニナ(ナタリー・ポートマン)は、元ダンサーの母親(バーバラ・ハーシー)の期待を一身に背負い、バレエに全てを捧げて厳しいレッスンに励む日々。そんな彼女に、バレエ人生最大のチャンスが訪れる。長年バレエ団の象徴的存在だったプリマ・バレリーナ、ベス(ウィノナ・ライダー)の引退を受け、新作の『白鳥の湖』のプリマにニナが抜擢されたのだ。しかし、白鳥の湖では純真な白鳥役と同時に、奔放で邪悪な黒鳥役も演じなければならない。優等生タイプのニナにとって、魔性の黒鳥を踊れるかが大きな試練として立ちはだかる。対照的に、官能的にして大胆不敵な踊りで、芸術監督のルロイ(ヴァンサン・カッセル)に理想的な黒鳥と言わしめた新人ダンサーのリリー(ミラ・クニス)。彼女の台頭によって、不安と焦りが極限まで高まってしまうニナだったが…。
("allcinema online"より抜粋)


 歌舞伎や落語などはそもそも庶民の間で生まれた下世話でパンキッシュな文化だったはずだけど、いつの間にやら「古典芸能」というお墨付きをいただいちゃってから、最近は格式のある立派で融通の効かないものになってしまいがちである。まあそれはそれで味のあるいいものなんだろうけれど、それゆえに現代性を失ってしまい「退屈」に陥ってしまう危険性は高い。なので新作を作っていこうという動きには大賛成だし、刺激的な働きなんだと思う。

 『エンジェル・ウォーズ』が地味でシンプルな話を様々なオタク的演出で盛り上げまくったように、本作『ブラック・スワン』は同じ古典芸能であるクラシックバレエを、ホラーやサスペンス的な演出を駆使し、如何に現代に生々しく『白鳥の湖』が上演された当時のように再現するかに腐心した作品であり、それによって伝えられるのは驚異的に磨きぬかれた身体によって表現される可視的な身体を超えた魂の表現であると思う。


(1)バレエ映画としての『ブラック・スワン』について考えたい。
 クラシックバレエにはまるで詳しくないのでいろいろ間違いもあるかもしれないが、これも"古典芸能"の一種。歌舞伎や落語と違うのはそれらが庶民からうまれたサブカルチャーなのに対し、こちらは貴族文化として発展したメインカルチャーであるという点。ただし『白鳥の湖』をベースにした本作がそうであるように、まあ案外下世話なことを言っていたり官能を追求していたりするのは落語や歌舞伎と通じるものがあるけれど。
 で、『ブラック・スワン』の劇中でトムとジェリーがニナに言う「バレエって退屈だろ?」と言うのは、先述した「古典芸能」特有の格式のある立派で融通の効かないものになってしまいがちな点にある。
 ニナはそれを必死に否定するのだが、ニナ自身が「格式高い古典芸能」の呪縛に取り憑かれ、バレエを色気のない退屈なものにしている原因でもある。
 本作で白鳥を演じるニナは、かつてスターになる夢を挫折した母親の妄念とでもいうべき教育によって"完璧に彫刻された美しさ"を持つ。
 マッチ棒のような手足についたブラッシュアップされた筋肉(バレエファンから言われるとまだまだ筋肉が足りないそうですが)と、オードリー・ヘプバーンを想起させる美しい小顔(エラの張り方も似ている)。
 しかしながら振付師ルロイに「白鳥だけなら素晴らしい」と言われたように、人間の内面にある生々しい欲望の象徴である"黒鳥"を演じるには、肩肘を張りすぎて色気が足りないのだ。
 それは彼女が母親によって完璧な「型」にはめ込まれたバレエしか演じられないからだ。

 そして"完璧に作り込まれた彼女"を撮す映像はシャープに研ぎ澄まされてゴツゴツザラザラした印象を受ける。息づかいや大気の動きを表現する不穏なサウンドエフェクトも乾いて即物的だ。


(2)続いて本作の「内面」と「外面」の関係をバレエを踏まえて考えてみたい。
 バレエというのは「垂直の舞踏」であると聞いたことがある。バレエといえば"つま先立ち"、つま先から頭の先までピンと張り詰めて上へ上へと目指すベクトルを持つ(これは「摺り足」が基本で横へ横へというベクトルを持つ日本舞踊と対称的である)。
 垂直に高く高く上がっていく動作は美しいが、他の垂直線(他者)と混じり合うことはなく延々と平行線をたどる。

 「黒鳥」を演じるために自身の内に秘める「欲望」と向き合うようになるニナだが、"垂直"のベクトルを持つ彼女に他者性はない。ただひたすら自分と戦うだけだ。
 ニナにとって母親は自分の中の欲望を閉じ込めた箱の鍵を守る存在にすぎないし、才能と色気と自分に似た容姿を持つリリーはバレエ漫画でよくあるようなライバルではなく自分の中にいる欲望をあらわすキャラクターとされてしまう。彼女にとって他者は他者でなく自己を構成する一部なのだ(※1)
 またニナはルロイに恋をしているようだが、そこに少女的なロマンスはなく「ヤリたいか否か」といった一人称性を脱していない。
 このように彼女の"黒鳥"への役作りは他者と混じり合う事がないゆえに、自己の内へ内へと向かっていく。


 そして、内なる変化は外面を変化させる。
 母親によって型に押し込められていたことにより精神も肉体もリンクするかのごとく美しいが堅くるしいものになっていたように、ストイックなまでに自己の内の欲望を見つめすぎたニナの肉体はその精神と呼応するようにある"変化"をはじめる。それはしやかで官能的、欲望にまみれた肉感的な瞳を持つ一羽の"黒鳥"であった。

 以上のような身の内にある、欲望にまみれた背徳性を葛藤の末に認めて、ニナは欲望にまみれた黒鳥となり、見事な舞を披露する。(※2)

(※1)本作をホラー映画と捉える向きもあるが、このような本作の一人称を抜け出ないナルシスティックなホラー性もバレエ的なのだ。主観的な恐怖が客観すら覆うのは楳図かずお作品のようだと、ライムスター宇多丸氏もおっしゃってました。

(※2)この変化は実際にお嬢様女優としてひと皮剥けられなかったナタリー・ポートマンがこのような映画に体当たりで挑戦するという実際のキャリアとリンクして実に見応えがある。アロノフスキーの前作『レスラー』がミッキー・ロークのキャリアとリンクしていたのと同様だ。



(3)最後に本作が描いたある種の「感動」について考えたい。
 上記で語った"肉体と精神のリンク"に反するように、キリスト教的な考えでは即物的な身体は、有機的な精神と分け隔てられたものとして捉えられている。
 しかしながらバレエによってダンサーや振付師たちがその肉体で目指すものは身体性を超越した精神の表現である。ここにキリスト教国家で発展したバレエという文化の矛盾点がある。

 そして『白鳥の湖』が古典ではなかったとき(『白鳥の湖』がチャイコフスキーによって作曲され演じられたのは1877年)、観客たちがその舞台に感じたのは、何だったのかが、本作の終盤で少し伝わるかもしれない。

 前半と比べ妄想とも現実ともとれるようなファジーな映像と、肉感的な生々しいサウンドエフェクトで表現されるその演舞は刺激的で官能的で美しく気持ちがいい。それは、当時のバレエで感じられていたと思われる、魂とは区別されていたはずの身体が極限まで磨き抜かれたときに表現できる魂の震えであったと思う。

 バレエファンからは作りが甘いと言われてもいるそうですし、バレエの魅力がまるで語られていないという意見も多いそうですが、バレエに対する我々門外漢の抱く不気味な雰囲気はうまく描かれていて、本作の効果でバレエのチケットが売れているんだとか。なによりのことだと思う。


 以上、『ブラック・スワン』はバレエならではの古典性を逆手にとり、一方でバレエ特有の身体性を活かすことで、世にも怪奇で世にも美しい『白鳥の湖』を奏で、その語り尽くされた古典芸能を現代の世に蘇らしていると感じた。


 本作を非難する声の一つに「作りが単純すぎて先がよめる」というのがあるそうですが、シンプルすぎる作りゆえに、ここまでパワーを持たせられたのかとも思います。

 まあオススメしなくても皆さん見に行ってらっしゃることでしょう。
 あ、ナタリー・ポートマンのあんなシーンやこんなシーンがいろいろと話題になっていますが、個人的にいちばんエロく感じたのはパンツ一丁になるシーンでした。
 新垣結衣レベル。

 次回は、ごめんなさい、ついつい見にいってしまいました『これでいいのだ!! 映画★赤塚不二夫』の感想なのだ。タリラリラン。

テーマ:映画館で観た映画 - ジャンル:映画

  1. 2011/05/26(木) 11:21:32|
  2. 映画ハ行
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『昼間から呑む』で頭ハイサワーだよ。

昼間

 今回は『昼間から呑む』という韓国のインディーズ映画です。

 観に行った映画館はシネマート新宿。ここは作品の規模に対して映画館が大きいから好きです。1日1回の上映ということで少し混んでました。一人客の中年男性が多めでした。


概要:2009年の韓国映画。監督・脚本・撮影・編集・音楽はノ・ヨンソク。これがデビュー作。
 酒の席で彼女にフラれたヒョクチン(ソン・サムドン)を慰める3人の友人たち。彼らはその場の勢いで、明日みんなで傷心旅行に繰り出そうと盛り上がる。翌日、待ち合わせの場所にヒョクチンが来てみると、残りの3人は全員ドタキャン。仕方なく見知らぬ雪景色の田舎町を彷徨い、主人が友人の知り合いだというペンションへと向かうヒョクチンだったが…。
("allcinema online"より抜粋)


 僕自身は、嫌なことがあったときあまりお酒に頼る人ではないのですが、まあお酒に走りたい人の気持ちはよくわかる。感覚を麻痺させてくれるし、実際二十歳のとき、当時相当入れ込んでいた女の子にこっぴどくフられ、慣れないお酒で頭をバカにしようとしていたこともある。

 『昼間から呑む』はそんな"人とアルコールの関係"を「旅」に置き換えて描いたロードムービーだ。


(1)ところで『神々と男たち』は生活と宗教の密接な関わりについてを描いた映画であった。人はあまり真面目に現実と向き合っていると気がふれてしまう。そのため現実をファジーに見せるフィルターの役割を与えられているのが宗教であった。
 また『エンジェル・ウォーズ』の空想世界も目を背けたくなるような厳しすぎる現実を誤魔化すための装置であった。
 そう言えば冒頭の話に戻るが、失恋に苦しんでいた僕は、現実から逃げるためアメリカに留学するとか言っていた。

 そう考えたら"宗教"や"空想"や"傷心旅行"は"酒"のようなものである。あまりにシビアでつらい現実をぼやかしてくれるお手軽アイテムだ。
 そして酒がそうであるように、もちろん現実逃避は必ずしもいいことばかりではない。リスクも多い。


(2)少し話は飛ぶが『昼間から呑む』はまるでよくある呑み会の席のような映画である。
 付き合いで参加せざるを得なくなりいざ行ってみたら浮いていて、場に溶け込むこともできず、かといってひと足先に帰ることもできず、「まあカワイコちゃんもいるし」ってな具合にずるずると二次会、三次会と参加していくうちに、記憶は曖昧になり、散々失態をこなして「もう二度と酒なんか」なんて思うけど、どこかでまた思考を麻痺させたい願望があって結局同じことを繰り返してしまう。
 本作はそのような「呑み会あるある」を、同様に現実逃避ツールである「旅」に置き換えている。

 本作の主人公ヒョクチンも彼女にこっぴどくフられ、ヤケになって思考を放棄してしまっている。冒頭の居酒屋のシーンでも友人たちとの会話にまるで参加していない。友人たちはヒョクチンのことを語っているのに、まるで他人事である。自分の殻に閉じこもるのに夢中でコミュニケーションなどする暇はない。
 (※)一方で友人たちもいい。主人公のことを心配しているようで、彼の失恋を肴にバカ騒ぎしたいだけの無責任さ。観客のこの映画に対する信頼感をガシッと掴む。

 そんなわけで、友人たちが勝手に盛り上がり、行きたくもない傷心旅行に行くことになるヒョクチン。行きたくなければそう言えばいいのだが、彼は今思考を放棄中で、流されるように従ってしまう。そして思考を放棄したい者にとって"旅(=酒)"はうってつけだ。

 思考を放棄して昼間から酒をかっくらい現実を見ない主人公は道中散々な目にあいまくる。
 泊まるペンションを間違えてこわい管理人にど突かれたり、いざ帰ろうと思ったらカワイコちゃんに誘われバス停で呑んでいたら一日一本のバスを乗り過ごしたり、突然芸術を語り出す変なオバサンにペースをかき乱された挙げ句突然キレられたり、先ほどのカワイコちゃんと彼女に同行するチンピラに再会したら散々呑まされた挙げ句財布盗まれたり、助けてくれたオジサンには犯されそうになったり…昼間から酒を呑んで自分で思考などしないものだから、周囲に散々いいように食い物にされてしまう。
 それなのに「次こそは次こそはもしかしたらなんかいいこと起きるかも」といった具合に二次会、三次会とズルズル参加してしまう。

 2時間の上映時間のあいだずーっと呑んでいるものだから、観客もいささか酔いが回ってきて映画に対する思考を放棄してしまう。主人公とともにだらだらと流されるままズルズルと旅を続けて、主人公とともに酷い目に会う。

 これだけだと「酒など金輪際一滴も呑むものか」って気になるけれど、そうやって酒(=旅)を続けていくうちに主人公と、彼と一緒に酔っ払った気分になってしまった観客は、"失恋"のことをすっかり忘れてしまっていた。
 その時はまるで世界が崩壊したかに見えた大失恋は、ひどい酒(旅)のあとだとそこまで大した問題ではなくなっていた。


(3)酒も旅もまあロクなものじゃない。金はかかるが手元には何も残らず、毎年毎年何人もの人がそれが原因で亡くなっている。ロクなもんじゃない。
 それでも我々がそれらとの付き合いをやめられないのは、思い込めば思い込むほど酷いものに見えてくる現実を、「そんなに酷いものではないよ、考えすぎだよ」と教えてくれるからだ。
 そしてそれは多分本作をはじめとする「映画」にもそのまま当てはまることなのだろう。
 本文で多様した「思考放棄・現実逃避」なんていうと言葉が悪いけれど、酒と旅と映画が手を添えることで世界はしらふの時より少しだけ楽しく見えるかもしれない。だから人はそれらと縁を切れないのだ。

 本作の寒々しくまるで楽しそうに見えない映像は、酒の演出を経てラストになるにつれ、多少は楽しく感じてくる。

 そしてラストシーンの演出がニクい。酒と旅にはもうこりごりのはずのヒョクチンのはずだが、まだまだ旅は終わらなさそうだ。


(4)初日はマッコリを配っていたそうですが、鑑賞中焼酎片手に見たら主人公とのシンクロ率がハンパなく、面白さも数倍増しになるそうです。
 呑み会いくならそのお金で映画を5本見て、旅行にいくお金があるならば映画を10本見たいあなたにオススメ。

 優木まおみレベル。

 次回なのですが、今年になって1回しかサイコロを転がしていません。そもそも『タマフル』シネマハスラーみたいなことやりたいってな調子で始めた当ブログですから、『ブラック・スワン』やら『ダンシング・チャップリン』やら『八日目の蝉』やら観に行かなければならない作品がたくさんあるなか、アイデンティティを取り戻すべく、転がさせて頂きます。せいや!!


1枠.『ジャッカス3D』…この手のアメリカ製ハチャメチャドキュメンタリーは取り扱っていなかったので。わりと論じ甲斐がありそうな気もします。

2枠.『名探偵コナン 沈黙の15分』…アニメ枠。『豆腐小僧』とどちらにするか悩んだのですが、こちらの方が見なさそうなので。『コナン』と言えば『コナン・ザ・グレート』だよね!? 「身体はシュワちゃん!頭脳は大人!」の決めセリフで有名な。

3枠.『富江 アンリミテッド』…Jホラーは一応抑えておきたいところ。『富江』シリーズ全然見ていないです。

4枠.『ジャスティン・ビーバー ネヴァー・セイ・ネヴァー』…こういう人が流行っているのも知りませんでした。見た人がどんどんハマっていくそうです。なんかおススメされました。まぁこういうのも扱ったことないし。

5枠.『これでいいのだ!!映画赤塚不二夫』…赤塚不二夫先生は大好きなので観に行こうと思っていたんですが、なんか…東映だし…君塚良一だし…男ドブス武居俊樹が堀北真希だし…。

6枠.『少女たちの羅針盤』…なんか評判いいらしいですが、暇がなくて多分観に行かないから。カワイコちゃん出ているので気になりますが。

 さ!!

 まいります!!!

 今回は手元にサイコロがなかったので、こちらのサイトでふってみます。

 ぽちっとな。

 2枠!!

 『名探偵コナン 沈黙の15分』!!
 わー、全然見る気ない映画だー。
 多分、そこまでつまらなくもないよ。
 てなわけで、次回は『コナン』を観に行きます。『コナン』、ほとんど知識ないんですが。時間があったら『赤塚不二夫』も見ますね。

テーマ:映画館で観た映画 - ジャンル:映画

  1. 2011/05/18(水) 23:37:52|
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