かろうじてインターネット

「少年ジャンプ」と水木しげると映画とおもちゃと特撮を愛します。

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『台北の朝、僕は恋をする』は等身大フィルム・ノワールだよ。

台北の朝

 今週の『海賊戦隊ゴーカイジャー』『特捜戦隊デカレンジャー』のゲストが登場する話。
 うわーい。ジャスミンだー。木下あゆ美さんはジャスミンの衣装がいちばん輝きますね。
 ほぼドギーの主役回って感じで、ドギーの声を演じる稲田徹さんはいまだにドギーの役が大のお気に入りだそうで、twitter上では稲田さんのアカウントなのかそれともドギー・クルーガーのアカウントなのかよくわからないことになっております。twitter上ではあまたの特撮ヒーローや悪役を率いて、震災に苦しむ子供達を励ます為にエールをおくっているようで、涙が出ます。
 バンは髪を切れ。キャラが変わっていないようで安心しました。また登場してくださいね。
 あと、クライマックスの『デカレンジャー』のテーマ曲が流れたのはぶるっときました。『デカレンジャー』は作品も主題歌も全スーパー戦隊でいちばん思いれがある気がします。
 

 今回は『台北の朝、僕は恋をする』という台湾の恋愛コメディの感想。何故この映画を観に行ったかというと、ヒロインの女の子が可愛かったから。 

 観に行った映画館は新宿武蔵野館。地震から一週間経っていたのですが、やはりまだ暗い状況。映画館も空いておりました。6人ほど。まぁ映画自体地味ってのもあるのでしょうが。おじさんの一人客が多かったです。


概要:監督・脚本はアーヴィン・チェンというエドワード・ヤンの弟子やっていた人。音楽はシュ・ウェンという人。そんななか製作総指揮は大物ヴィム・ヴェンダース。第60回ベルリン国際映画祭で最優秀アジア映画賞を受賞。
 台北に暮らす青年カイ(ジャック・ヤオ)は、恋人がパリに留学してしまい傷心の日々。パリへの旅費を稼ぐべく両親の店を手伝いながら、夜は近所の本屋で立ち読みをしてフランス語の勉強を続けていた。いつしか、本屋のかわいい女子店員スージー(アンバー・クォ)ともすっかり顔なじみに。そんなある日、パリの彼女から電話で突然の別れを告げられるカオ。驚いた彼は、すぐに会わなければと、顔見知りの不動産屋に借金を頼み込み、交換条件として、怪しげな小包の運搬を頼まれるのだが…。
("allcinema online"より抜粋)


 90年代にウォン・カーウァイの映画を見た人は皆口を揃えて、日本と似たような国の香港でこんなにロマンチックな映画が作れるのかなんて言っていた。しかしウォン・カーウァイ映画は(エリック・コットやチェン・ユーシュンでもいいが)なんだかとても野暮ったい(いい意味で)。白ブリーフとオヤジシャツの男がじめじめとした湿気のなかで屋台のソバをすするイメージ。なのにそれが何故かロマンチックだった。

 この映画もやたらと生活臭がしてまるでロマンチックとは思えない題材なのに、妙にロマンチックでキュートな出来になっている


 我が国ではロマンチックと醤油臭い生活臭は相反するものとされがちだけれども、それがどうも間違いの元らしい。地に足がついた生活をきちんと描いてこそロマンスというのは生まれるのかもしれない。今回はそこらへんを検証してみたいなと。


 主人公カイは恋人のいるフランスに憧れフランス語を勉強するが、フランス語の「ボンジュール」が奏でる"いかにも"な雰囲気は、湿気でじめじめとした大気と、油の臭いが充満する台北においてとても不格好だ。

 本作は古きよきフィルム・ノワールを意識した作りとなっており、犯罪映画の側面があるが、それがことごとく間の抜けたものとなっている。(そこらへん『リオの男』『カトマンズの男』『まぼろしの市街戦』『陽だまりの庭で』などで有名なフィリップ・ド・ブロカっぽいユーモアセンスも感じました。)
 例えばギャングたちは不動産屋の副業で間の抜けたオレンジのスーツを着させられてるし、本作の最も非日常的なツールであるところの拳銃は結局オモチャだったし、彼らが狙う"重要なブツ"は何ともズッコケる代物、せっかく重要人物を拉致誘拐しても何が何だか結局仲良く雀卓を囲んで水餃子をつつきながら恋の悩みを聞いてあげちゃう始末。
 また主人公二人を追う刑事はハンフリー・ボガードのように仕事を恋より優先できなく彼の元を去った恋人に未練たらたら。
 肝心のカイとスージー、主人公二人の逃走劇も間が抜けている。刑事に追われながらの地下鉄の駅の中に入り込んだものの、駅の中は走ったら危険だから刑事共々速歩き。逃走中ダンスしている集団に紛れ込んだはいいものの、そのダンスはなんとも素っ頓狂な盆踊り。
 またBGMはフィルム・ノワールには定番のジャズだけれども、それもなんだかヌルくて平和。

 そもそもモノクロが基本のフィルム・ノワール的なものを意識している割には、本作はビビッドな原色に彩られている。

 このように本作は映画のようにドラマチックにはいかない間の抜けた日常を強調して描いている。(*)

 (*)それゆえ、あまりに真剣味がなさすぎてツッコミどころも多い。例えばギャングに追われてるなら、撒いている間にとりあえず目的地までタクシー拾っていくか、ボスに何度も電話かけて指示を仰げば済む話だが、そんなことはしない。しかしそれは「ヌルい日常」というテーマにそったマジックリアリズム(作中でのリアリティの線引きの位置が幾分現実から離れている演出のこと)がかかっているゆえの演出のために、本作中では不自然になってはいないと感じた。


 本作のもう一つの方向性として示唆されるのが登場人物たちが見ているチープなテレビドラマだ。その中では大声で運命的な愛の告白をし、街中で銃撃戦をし、女性が身を呈して銃撃を受け恋人の腕の中で愛をつぶやき死んでいく。
 それを見て登場人物たちは「ありえねー」とグフグフ笑う。パリやニューヨークならまだしも台北の街でこれはあまりに不格好である。

 一方でこの映画は、人は一人も死なないし、麻薬も拳銃も大金も絡んでこない。逮捕された者は一人いたけどせいぜい窃盗と恐喝、たいしたものではない。徴兵に行く前にドラマチックな告白をしたかったコンビニ店員のカオ(ポール・チャン)は最後まで恋する桃子に告白できずじまいだし、肝心の主人公二人だって告白もキスもしない、というか恋しているのかどうかすらちょっと怪しい。
 劇中劇のテレビドラマと違ってあまりに身の丈にあった展開しか起きない。

 しかしだからこそ、ラストシーンの主人公二人の、ドラマチックではない地味で身の丈にあった再会と恋の芽生えが、ロマンチックに思えるのだろう。それは観客にとっても等身大の恋であるから。
 なにしろ本作の原題は”Aure Voir TAPEI"”Aure Voir"というなんとも背伸びした言葉で形容されるのは、等身大の街台北なのだ。


 以上、人は生活するそれぞれの環境の身の丈にあったドラマしか紡ぎ出せない。しかしながら背伸びしないその地味で間抜けな日常の中で、我々は地味なロマンスを感じ、しょぼいスリルを感じ、それにきちんと満足している。
 本作『台北の朝、僕は恋をする』はそのような等身大の「フィルム・ノワール」を描き、等身大で日常的な今をロマンチックに感じさせてくれる作品だと思う。


 あとまあそれ目当てというのもあったのですが、主演の女の子アンバー・クォさんが無類の可愛さでした。ビビアン・スーみたいに日本にもやってこないだろうか。

 大地震により日常を失ってしまいかけている今だからこそ、見るとより胸キュンしそうな映画です。おすすめ。

 貫地谷しほりレベル。

 次回は『シリアスマン』に続いてまたコーエン兄弟の作品でございます。話題作『トゥルー・グリット』の感想。

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  1. 2011/03/25(金) 01:33:33|
  2. 映画タ行
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『トスカーナの贋作』を鑑賞すると映画を鑑賞する体験ができる映画だよ。

トスカーナの贋作

 『海賊戦隊ゴーカイジャー』面白いですね。もう2回観てしまった。
 個人的にはスーパー戦隊史上もっとも何ともいえない変身ポースのグリーンが気になります。OPで一人だけ走っているし、ファイナルウェーブの時はバットみたいにサーベル振り回しているし、西部劇みたいに転がしたドラムに合わせて身体をくるくる転がしながら2丁拳銃撃つし。
 ロボ戦も楽しいです。上位種の戦闘員とか巨大化するし。
 アカレッドとマジレッドの出演には大興奮しました。久々に、実に一年ぶりくらいにスーパー戦隊が楽しみでございます。
 デカレンジャーたちのデザインはスーパー戦隊でもトップクラスのカッコ良さですね。デザインではデカレンジャーとバイオマンが好きです。


 今回はどうしても名前が覚えられないアッバス・キアロスタミ監督の新作『トスカーナの贋作』の感想です。
 観に行った映画館はユーロスペース。初日だったのですがそこまで混んでいない様子。客層はご年配の方が多めでしたが、若い人も多め。総じて一人客が多かったです。


概要:『友だちのうちはどこ?』『そして人生は続く』『桜桃の味』などのイランの巨匠アッバス・キアロスタミの監督・脚本作品。この監督にとって海外ロケ、海外の俳優での監督作品はかなり異例。
 イタリア、南トスカーナ地方の小さな村。ここで、本物と贋作についての新刊を発表した英国の作家ジェームズ(ウィリアム・シメル)の講演が行われた。その講演を聞きに来ていたギャラリーの女主人(ジュリエット・ビノシュ)はメモを残し息子(アドリアン・モア)と共に退席する。やがて、女のギャラリーにジェームズが現われ、2人は彼女の案内で近くの名所を散策するべくドライブに繰り出す。車中では本物と贋作を巡る議論が熱を帯びていく。その後、カフェで一服する2人は、店主(ジャンナ・ジャンケッティ)に夫婦と誤解されたのを機に、ゲームを楽しむように長年連れ添った夫婦を演じ始めるのだが…。
("allcinema online"より抜粋)


 キアロスタミ作品の魅力はあらすじを一行で書けてしまうようなシンプルな物語性と、「そこに深遠なるテーマがあるのでは」と様々な解釈の余地を提供して、色々と深読みさせる喚起力みたいなところにあるのではないかと僕は思う。
 キアロスタミの作品に限らず優れた映画(をはじめとする創作物)というのは様々な解釈の余地を提供する。観客は多かれ少なかれ与えられた作品という素材に様々な解釈という味付けをすることで、その作品を名作たらしめる。

 本作『トスカーナの贋作』は、ひどくメタ的な表現になってしまうが、そのような「映画鑑賞体験」を描いた映画であり、その結果映画を鑑賞する行為に見直しを与える作品なのではないかと考える。


 主人公の一人ジェームズはその著書で「本来的な本物」など存在しないという。全てが偽物であり、例えばダヴィンチの『モナリザ』はそのモデルになった女性(ジョコンド夫人というそうです)のコピーにすぎないし、その女性にしたって親のDNAのコピーにすぎない。万物は贋作であり、それを「本物」たらしめるのは周囲の評価なり、自身の感想だったりする。例えば中盤に登場する喧嘩しているように見える中年の男女はよく見ると男性が携帯電話で話しているだけであった。ジェームズが勝手に「喧嘩している」という価値を与えてみていただけなのだ。また、作中に登場する『トスカーナのモナリザ』と呼ばれる絵。何百年と贋作とは気づかれずに賞賛を受けており、ようやく贋作だと知れたのは100年ほど前。しかしそのあまりの出来の良さから「本物より美しい贋作」として今も愛でられている。

 この例をもうちょっと深く突っ込んで考えると、作品を名作たらしめる原因の一つとして「鑑賞者のエゴイズム」というのが多いにあるということがわかる。今まで名作と信じて愛してきたものが偽物とわかったところでそれまでのそれに対する愛を否定はしたくない。否定してしまえば自身の今まですら否定することになってしまう。
 同様に、映画や小説を鑑賞する際に特によくあることだが、その作品にごく個人的な自身を強く投影した結果によって、はじめてその作品に感動できる。そしてそのエゴイスティックな行為こそ「解釈」である。


 で、『トスカーナの贋作』であるが、この作品は様々な「解釈」の余地を意図的に用意してくる。

 例えば小津安二郎に影響を受けたキアロスタミ映画らしい正面からの構図や、シンプルきわまりない編集、また劇中一切音楽が流れないことなどのごく基本的な映像描写により、観客の感情移入のベクトルを余計に操作しないで作中にすんなり入り込ませようとする。

 また本作にはこれ見よがしに用意された謎がいくつかある。
 例えば序盤でジェームズがビノシュの妹マリーに書いたサインのメッセージを読んでビノシュが怒った理由とか、突然喫茶店で女主人がビノシュに何を耳打ちしたのかとか、ジェームズが感動したという旅先で見つけた母と子の言動とは何だったのかとか。
 しかしそれらの謎は解明されない。多分解明する気もないし、下手したら答えなど用意していないのかもしれない。その解答用紙の空欄に答えを書き込むのは観客の仕事なのだ。観客が自由に自己を投影させた答えを書いていいのだ。

 また南欧の歴史ある風景と午後の日差しは、様々な思いを連想させるのにうってつけだというのも付け加えておく。

 このようにして、何も語らない映像に観客は自由に思いをはべらす。
 すると物語は「進化」をはじめるのだ。関係など何もなかった作家とビノシュが、夫婦と間違えられたことをきっかけに、「偽物」の夫婦を演じ、いつの間にか次第に「本物の夫婦」へとなっていくのだ。すなわち「贋作」が、観客によって意味や価値を付随させられて、「本物」へとなっていくのである。

 実はこれは我々が他の映画を見る時も無意識的に行っている行為である。
 映画とは、『女優霊』で語られたように、そもそもが現実の偽物。映画に感動を求めようとも「私は偽物に感動しているのだ」という後ろめたさすらある。
 その「偽物」を「本物」へと近づけさせようとしたのが『アバター』でジェームズ・キャメロンがやろうとした行為だし、その「偽物」の「偽物臭を薄める」という行為はあの映画の3D映像とストーリーでいくらか成功していたと思う。

 が、この映画は違う。本作はむしろ映画だけではなく万物が偽物であるという否定行為からはじまり、結果映画をはじめとする全ての創作物の相対的な価値を高めているのだ。
 『アバター』とはまた別の形で映画鑑賞という後ろめたい行為をニヒルに肯定しているのではないかと思う。


 このように『トスカーナの贋作』は、映画鑑賞をする者の体験を映画化し、偽物に意味や価値を付随していくことで本物へとしていく行為を再現していき、映画鑑賞という後ろめたい行為の肯定を行っているのではないかと考えられる。


 ちと難解だし、決して楽しい映画ではありませんが、映画好きを自称する方なら見て様々な深読みをするのが楽しい映画だと思います。この映画が語るように見た人の数だけ違った名作の形が現れる作品だと思います。

 谷村美月レベル。

 次回はおそらくなのですがイーストウッドの新作『ヒアアフター』の感想を書くと思います。違う映画になったらごめんなさい。まだ観ていないのです。

テーマ:映画館で観た映画 - ジャンル:映画

  1. 2011/02/21(月) 01:38:14|
  2. 映画タ行
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『冷たい熱帯魚』は恐怖のアダルトビデオだよ。

冷たい熱帯魚

 映画感想の本数もかなり増えてきたので、あいうえお順にしてみましたが、「索引」みたいのきちんと作った方がいいですよね。過去に何の感想を書いたか分からなくなっちゃうので。

 今回はタ行だよ『冷たい熱帯魚』の感想。
 
 観に行った映画館はテアトル新宿。平日の昼間でも満席で立見が出ていると聞いて、1000円で見れる水曜日の夜に観たかったのもあり、3日前に一度行ってチケットを購入しました。
 てなわけで立見もたくさんの満席。若い人が多めでした。
 まず、ここに向かう途中でよくサイコロを転がして映画を一緒に行っている友人に出くわして、あら偶然と、違う席でしたが一緒に映画を観て、帰ろうと思ったら、なんと主演の吹越満さん、でんでんさん、黒沢あすかさん、梶原ひかりさんが偶然観に来ていたらしく、急遽舞台挨拶&握手会に。ラッキー。吹越さん渋かった、黒沢さんエロかった、梶原さんは可愛くてテレた。でんでんさんは怖かったです…。


概要:94年におきた埼玉愛犬家殺人事件をモチーフに『自殺サークル』『紀子の食卓』『愛のむきだし』の園子温が監督。脚本は『タマフル』リスナーにもおなじみ高橋ヨシキさん。インパクトの強い音楽は『愛のむきだし』や『赤んぼ少女』の原田智英。
 2009年1月14日。小さな熱帯魚屋を経営する社本信行(吹越満)とその妻・妙子(神楽坂恵)は、万引で捕まった娘・美津子(梶原ひかり)を引き取りにスーパーへと向かう。すると、その場に居合わせた店長の知り合いという村田幸雄(でんでん)の取りなしで、美津子は何とか無罪放免に。村田も熱帯魚屋のオーナーだったが、規模は社本の店とは比べものにならないほど大きなものだった。人の良さそうな村田は、美津子を自分の店で預かってもいいと提案、継母である妙子との不仲に頭を痛めていた社本は、その申し出を受入れることに。さらに村田は、高級熱帯魚の繁殖という儲け話にも社本を誘い込む。その口の上手さと押しの強さを前に、いつの間にか村田のペースに呑み込まれてしまう社本だったが…。
("allcinema online"より抜粋)


 本作はまるで下手なアダルトビデオのような、それが与える「性」という生命の本来的な興奮が「複製品」であることを知ってか知らずか享受し、それできちんと「生きている」と勘違いしている我々現代人の目を覚まさせてくれるとんでもない作品だと思う。


 多くのアダルトビデオ作品はどこか嘘くさい。出演者の演技はいい加減だし、現実ではあり得ないセックスが描かれ、そこに写される人間は、『ソーシャル・ネットワーク』で描かれた「データ化された友達」同様に、「生命感」を奪われたただ「男」「女」…など記号的な役割だけのキャラクターと成り果てている。しかしそれでも我々男性はきちんと興奮できる。

 で、この作品『冷たい熱帯魚』もそんなアダルトビデオ的な要素が多くある。

 まず冒頭、乱暴にレンジで温める白米や、インスタント味噌汁、ほか様々な冷凍食品を買い漁る妻・妙子の描写から始まり、それを黙々と食す一見平凡な家庭(かろうじて平凡な過程の体裁を保っている)の社本一家、しかし一切の会話はなく、三者とも目を合わせていない。娘・美津子に至っては男友達から誘いの電話がきたので食事を放って無言で出かける始末。
 残飯は無造作に捨てられ、食器は食器洗い機に投げ込むように入れられる。恐ろしいほどの均一的なテンポで描写されるこれら一連の「普通の家族っぽい描写」は機械的で、薄っぺらく、胡散臭い欺瞞に溢れている。この薄っぺらな嘘くささがアダルトビデオ的。
 食器洗い機の轟音と「どーんどーん」と胃に響くBGMが、観客に「お前らはそれでいいのか? それで生きていると言えるのか?」と問いかけてくるようである。
 主人公・社本は食事したあと嘔吐する。肉体が嘘の食事を拒否してしまっているのだ。


 そして「アダルトビデオ的」と言えばなんといってもでんでん演じる村田とその妻・愛子(黒沢あすか)のキャラクター。ちょっとがさつでマッチョニズムだが気のいい俗っぽいおどけたおじさんと、セクシーで優しくて綺麗なおばさんである彼らは、甘い言葉で社本一家に近づいてくる。

 人生に真っすぐに向かいあうことを面倒くさがっていた社本一家にとって、多少胡散臭い村田も面倒見のいいおじさんなのだと思う。観客だって疑いながらも、ギスギスした空気の中での彼の登場に安心する。

 実際この映画がどんな映画なのか知らずに見た人は中盤の村田の豹変に困惑しただろう。
 妙子の、窮屈な生活から飛び出したいと言わんばかりにはち切れそうにムチムチしていた胸をはだけさすとき、同業者に栄養ドリンクを飲ませたとき、あまりに突然にもう一つの顔を出す(社本が目を背けてきた取り返しのつかないヤバい日常に、強制的に目を向けさせるこの瞬間の演技がすごい)。

 「おれの考える地球はなぁー、こうゴツゴツしてんだよ」「おれはな、社本、人がいつ死ぬかわかるんだよ、人はいつか死ぬそれだけのことなんだよ」とか「俺とこいつが死んだらお前一人で(死体の解体を)やんなきゃなんないんだぞ」など、村田の言う無茶苦茶な理屈は、たまに現実離れしている。まったく別の次元の住人の発言のようである。彼には他者がいないのだ。だからそんな無茶苦茶な発言ができるし、人を平気で殺したり、妻が他の男と寝ても気にしない(それどころかむしろ推奨すらする)のだ。
 薄っぺらの甘さで人を魅了し、他者をモノのように扱う、まさに本作の持つアダルトビデオ感を象徴する存在である。

 村田の妻・愛子もまたこの狂った世界を象徴する存在だ。本作のアダルトビデオ的世界において「殺し」も「セックス」も他者をモノとして扱う点で同義であり、愛子は他者とセックスするか殺すことで他者をモノとして扱いなんとかこのヤバい日常のなか狂うことなく生き抜いてきたのだ。

 主人公社本は、村田の殺人に付き合っていくうちに今まで目を背けてきた「現実」を強制的に見ることになる。
 終盤社本に語る村田の「今までお前は自分で何かを成し遂げたことなどないんだ、自分の脚でなど立ったことないんだ、俺は自分の脚で立っているよ」という説教は正論である。ただしそれは「アダルトビデオ」の中での正論であり、二本の脚でこの世界に立つには、他者を他者と思わない、痛みなど気にしないアダルトビデオ界の住人になる必要があるのだ。

 社本はやがてアダルトビデオ界の人間となる。村田と同様に人をモノと扱い、最愛の妻や娘を殴り、愛子を抱く。そして人を殺す。

 そして偽物だらけのアダルトビデオ的な世界において「他者と人間らしく生きる」ということがなんだかわからなくなる。もしかしたら人が「生」を実感できるのは逆説的に「死」の瞬間のみなのかもしれない。登場人物たちは死んではじめて生きる実感を感じる。
 社本は最後にナイフを首につきたてて「生きるって痛いんだ」と言う。
 アダルトビデオでは経験できないことだが、本当の「生」のためのセックスは痛いし、その上、臭いし、やたらと気を使うものなのだ。
 そういえばこの映画はアダルトビデオが借りられる年齢、法的に売春してもいい年齢の18歳以上でないと見られない映画であった。

 そして18歳の美津子は、父の死でようやく「生」らしい「生」を知り、高笑いしたのではないだろうか。


 以上、『冷たい熱帯魚』アダルトビデオ的な偽物だらけの世界を描いて、現実社会の恐怖と滑稽さ、そして逆説的に本当に生きるということを描いた素晴らしい作品だと思う。

 他に良かった点として、スピーディーな展開とエグさ、『ヌードの夜/愛は惜しみなく奪う』の大竹しのぶ一家のような、今ここにいる俗な隣人の恐怖とやたらブラックな笑い、役者たちそれぞれの怪演、神楽坂恵のエロスなどがいちいち素晴らしかったと思います。

 日本に限らず、昨今の映画においてトップクラスの比類なき面白さがあったと思います。何故だかすごく生きる勇気を与えられました。もちろん一刻も早く劇場に向かうことをオススメいたします。

 吉高由里子レベル。

 社会派である当インターネットですが、次回は戸塚ヨットスクールの真相を追ったドキュメンタリー『平成ジレンマ』の感想を殴られながら書きたいと思います。

テーマ:映画館で観た映画 - ジャンル:映画

  1. 2011/02/16(水) 15:44:10|
  2. 映画タ行
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『ザ・タウン』はスウィートな犯罪映画だよ。

town

 今回は第二のクリント・イーストウッドではないかともっぱら評判のベン・アフレック監督『ザ・タウン』の感想でございます。

 観に行った映画館はTOHOシネマズ六本木ヒルズ。なんだろ話題性に反して地味だからかあんまり混んでいませんでした。客層は外国人が数人、カップルが数組。


概要:チャック・ホーガンのハメット賞受賞のミステリー『強盗こそ、われらが宿命』を主演・脚本も兼ねるベン・アフレックが映画化。
 全米屈指の強盗多発地区、ボストンのチャールズタウン。この街に生まれ育ったダグ(ベン・アフレック)は、かつては輝かしい将来を夢見ていたものの、今では父親(クリス・クーパー)と同じ道を進み、気心の知れた幼なじみたちを率いて銀行強盗を繰り返す日々。毎回周到な準備で鮮やかに仕事をやり遂げてきた彼らだったが、ある時、やむを得ず一時的に人質を取って逃走を図る。しかし、解放した女性クレア(レベッカ・ホール)が、同じ街の住人だったことから、自分たちの正体に気づかれたかもしれないと不安がよぎる。そこで探りを入れるため、偶然を装い彼女に近づくダグ。しかし、不覚にも恋に落ちてしまう。やがて、FBI捜査官フローリー(ジョン・ハム)の追及がダグへと迫る中、足を洗ってクレアと新たな人生に踏み出したいと考え始めるダグだったが…。
"allcinema online"より抜粋)


 この作品、なんだか批評家さんや他のブログなど、なかなか良好な評判ですが、結論からいって僕はこの映画があまり好きにはなれませんでした。

 理由としては2つ。
 まずストーリーテリングの手腕の問題。主に主人公の見せ方について。
 それとテーマが個人的に気にくわない

 という二点。主に前者について考えてみたいと思います。


 まず本作で描きたかった事って「いくら反省しても悪意の連鎖が罪を許してくれない、許すどころかより罪を深くしていく」という「罪は許されるのか」という事と、更にそこを深く考察すると見えてくる「人と罪の乖離」ってところだと思うのです。
 主人公タグ(ベン・アフレック)はいくら普通の生活をしようとしても環境がより深い悪事に強制的に向かわせて、20歳のころアイスホッケーチームで暴力沙汰を起こして以来絶望的な悪事スパイラルにハマっている。
 そんな彼を救えるかもしれないのがよりにもよって銀行強盗の際に誘拐した美人支店長のクレア(レベッカ・ホール)。

 いくら善なる人でも「犯罪を犯さざるを得ない環境」というものがあり、クレアですら自分を誘拐したタグと、不本意だし本人は知るところにないのだが、恋仲になっているという「罪」を犯してしまっている。
 また出ていった母を追いかけなかったという「罪」でタグに恨まれていた父親(クリス・クーパー)も実はタグを傷つけないために真相を黙っていただけの「善なる行い」がその理由にあったことが明かされる。
  エンドクレジットで「チャールズタウンは犯罪率が異常に高い町だが住む人のほとんどが善良である」と出る(そういう割とストレートなメッセージをセリフどころか文章で伝えるセンスはいかがなものかと頭を捻りますが)。「罪」を犯す者が必ずしも悪人というわけではないのだ。それは社会だったり家庭環境だったり、偶発的な要素の連鎖で「罪」を犯してしまうのだ。

 以上のように、本作はその者の意思とは異なり、犯罪を犯さざるを得なくなる環境や状況を描いて、罪を憎んで人を憎まずではないが、「罪と人との乖離」を描いているのではないかと思われる。


 で、まあ本作はそんなテーマで、似たテーマを扱った、例えば『悪人』なんかは、もっと冷やかな視線で「悪事とは善悪の概念とは関係がない単なる行為であり、倫理や社会性のレベルで罪を犯したものが悪人というわけでは必ずしもないが、一方で様々な次元において様々な行為は悪になる」というもっと掘り下げた結論であったので、比較すると少し掘り下げが浅いとは思いますが、まあその不満については後述。
 まずそのテーマなりメッセージなりを組み立てるテクニックがどうも弱い点について以下で解説したいと思います。

 まず前回の『RED/レッド』と同様の不満なのですが、主人公にギャップが少ないのでドラマチックな成長や変化のカタルシスが無い点。タグは結果「いいヤツ」と描かれるキャラクターなわけだから、最初からいいヤツに見えてしまうというのはいかがなものかと。
 「こんな罪を犯す人が、こんな善良な人なんて!」って「人と罪の乖離」のギャップを描くには、例えばまず定型通りの悪人っぽい人物を描いてそこから次第に実はいいところがあるんだよって描いていった方が効果的だと思うのですが、そういった変化はないので、善良な主人公が非道な銀行強盗やるって設定にリアリティがうまれづらいし、もちろん感情移入もしづらい。

 その点、ジェム(ジェレミー・レナー)に関しては、がむしゃらで不器用ながら、「運命に立ち向かう」っていう描写が、ギャップとして悪くはなかったと思いますが。『息もできない』のごとくジェムみたいなキャラクターがクレアと恋して変化して行くって展開なら良かったのですが。


 続いて"物語が導いた結論"について。
 タグは最後ある二人の登場人物を殺しますが、いくら彼らが極悪人とはいえやっぱり殺人は殺人、主人公は許されていいのだろうか。いくら罪と人の乖離を描いていようが社会悪なのは間違いなく、そこら辺は罰されるべきなのではないだろうか。
 あと散々人を殺して手に入れた金を「有効利用」ってなんか嫌じゃね?
 しかもそんな薄汚い金の使用方法が子供たちにスケートリンクをって、なんかどうなんだろ。
 もはや「罪を憎んで人を憎まず」どころか、「罪も人も金もなんでもかんでも憎まない」という甘ったるい結論に思えてしまいここでもリアリティが欠如してしまっている。
 そういう展開なのにリアリティを感じさせるってマジック(ハッタリ)をかけるなら、観客を夢中にさせて細かいツッコミなどいれさせないほどにもっとドラマを上手く盛り上げるべきであり、そこにおいて先述の一面的なキャラクター描写がかなり痛手になっているのだと思う。


 他にも銀行強盗シーンが90年代的な、当時の亜流タランティーノ的なスタイリッシュ銀行強盗みたいな…そういうのはもうよくないだろうかとか、クレアはPTSDにでもなりかねない恐怖体験の後なんで知らない男にひょいひょい付いて行くかなとか、序盤物語が何を語りたいのか分かりづらく推進力がイマイチだったなとか、容疑者と被害者が白昼堂々とデートしているのを知らないとか『完全なる報復』同様に警察が無能すぎやしないかとか、そういう細かい不満点がありますが、最も大きな不満点は、そもそも犯罪を犯すことを育った環境のせいにしてしまうってメッセージの時点で僕はあまり好きではない。もちろん色んな意見はあるだろうけれど、個人的にはそれは単なる甘えだし、差別主義的だとも思う。やはり原因や動機はなんであれ犯罪は犯罪、罪を犯したタグは罰せられるべきだったと思う。


 以上、『ザ・タウン』は「罪」とそれを犯す「人」とは、一緒に語るべきではないと語るが、主人公の描写不足でそれに説得力が生じず、そもそも個人的にそのメッセージが気にくわなかったせいもあって、どうも満足いきませんでした。

 などなどと、不満を重ねてしまいましたが、まぁ面白いと賞賛している人の気持ちも分からなくはないです。
 そこをフォローしておくと、物語のテンポがよく、キャラクターの行方を追っているだけでハラハラして飽きることはないと思います。
 あと個人的に好きだった俳優ピート・ポスルスウェイトが下衆な年老いた花屋を演じていて、あのキャラクターがジェムと並んで好きです。残念ながらこの作品が遺作となってしまわれたそうです。

 てなわけで、傑作では決してありませんが、けしてつまらない映画ではありません。

 ベッキーレベル。

 次回はこんな甘っちょろい犯罪映画じゃ物足りないというあなたに! 本当の犯罪がここにある。ようやく書けます『冷たい熱帯魚』の感想。

テーマ:映画館で観た映画 - ジャンル:映画

  1. 2011/02/15(火) 00:02:44|
  2. 映画タ行
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『天装戦隊ゴセイジャーVSシンケンジャー エピック ON 銀幕』はうまくいかない合コンだよ。

ゴセイジャーvsシンケンジャー

 風邪で倒れていました…。

 今回の映画は、今年もやるよ『天装戦隊ゴセイジャーVSシンケンジャー エピック ON 銀幕』の感想。割と最近は新作は封切り直後に観に行っているのですが、どうも更新する暇がなくて、公開が終わる頃に更新することになってしまいますね。すいません。

 観に行った映画館新宿バルト9。バルト三国ってなんだっけ? 『新宿バルト三国志』ってヤンキーもののゲームがありそうですね。
 平日の昼間に観に行ったら、まぁまともな大人はいませんよね。お子さんも学校ですよね。殿が悪くなったり、ブレドラン様の登場でキャーキャー言っているお嬢さん達と、一人客のおじさんがたくさんいました。比較的混み合っていたと思います。


概要:その年とその前年のスーパー戦隊が激突する『VSシリーズ』劇場版では第3弾。監督は平成以降のスーパー戦隊作品を多く手がける竹本昇、脚本は『シンケンジャー』も『ゴセイジャー』もTV本編を手がけていない下山健人という人。
 かつてシンケンジャーが倒したはずの外道衆が再び街に現われる。ゴセイジャーとシンケンジャーが協力してこれに立ち向かうが、やがてシンケンレッド志葉丈瑠(松坂桃李)は敵に捕らわれ、“外道シンケンレッド”に変えられてしまう。ピンチに陥るシンケンジャーたち。その時、“ゴセイレッド”アラタ(千葉雄大)の諦めない心がシンケンジャーたちを奮い立たせる。そして、ゴセイジャーの天装術とシンケンジャーのモヂカラを合わせるべく猛特訓を開始する。
"allcinema online"より抜粋)


 この映画が始まる前にもちろん予告編があったのですが、まず5月に上映予定のスーパー戦隊全員集合イベントの映画『ゴーカイジャー ゴセイジャー スーパー戦隊199ヒーロー大決戦』の宣伝。ゴレンジャーからゴーカイジャーまで全35戦隊199人出るそうな(スーツアクターさんどっから集めてくるんだ?)。この手の映画には珍しく80分もあるそうです。
 で、続いて4月に公開予定の仮面ライダーが40周年で全員集合する映画『オーズ・電王・オールライダー レッツゴー仮面ライダー』の宣伝。で最後に今年もやるんですね、歴代プリキュア全員集合映画の第三弾『プリキュアオールスターズDX3 未来へ届け!世界をつなぐ☆虹色の花』の宣伝。

 というわけで、『仮面ライダーディケイド』の頃はけっこうお祭り感があってワクワクしておりましたが、東映、ちょっとしたことですぐ全員集合させすぎてまるで新鮮味がなくなってしまっている。もう次はオールライダー・オールスーパー戦隊・プリキュアオールスターズが計300人くらい全員集合してくれないと新鮮味ないや。

 で、今回扱うこの映画シリーズに関しても、昨年の戦隊と今年の戦隊のクロスオーバーという夢みたいな企画だったハズなのに、単なる恒例行事化していてまるで新鮮味がなくなっている。毎年テンプレートを張り付けたような志低い内容を毎年毎年見るのは特撮好きのルーチンワークでしかないような気もする。
 そんな中、昨年の『侍戦隊シンケンジャーVSゴーオンジャー 銀幕BANG!!』を僕が気に入ったのは、そんなマンネリ化した「VSシリーズ」をもう一度腰を据えなおして真面目に取り組もう、クロスオーバーの面白さをきちんと描こうという意気込みが感じられたからなのです。おおむね好評の『仮面ライダーW FOREVER AtoZ 運命のガイアメモリ』を抜いて、去年の東映特撮作品の中では1位でした。

 で、今年の『ゴセイジャーVSシンケンジャー』なのですが、総じてシンケンジャーファンとしてまた彼らに会えたのは嬉しいのですが、今作の魅力って個人的にそれだけで、『天装戦隊ゴセイジャー エピック ON THE MOVIE』ほどではないにせよ、取って付けたような『VSシリーズ』のお決まりの展開を単純作業的に組み込んでいったといった感じ。すなわち従来の「マンネリVSシリーズ劇場」へと戻ってしまっているのだ。


 今回は個人的にここ数年でトップクラスに好きなスーパー戦隊『侍戦隊シンケンジャー』と、ここ数年で最もアレな『天装戦隊ゴセイジャー』の共演とあって、どんな化学反応がおきるかまったく予想がつきませんでした。去年の『シンケンジャーVSゴーオンジャー』はあまりにシリアスな戦隊とあまりにコミカルな戦隊の共演というあり得なさがとても良かったと思うのですが、『ゴセイジャー』はシリアス要素もコミカル要素も大して際だっていない戦隊なので、二つの戦隊の性格の取り合わせに関してはあまり感動はございませんでした。

 で、この取り合わせによってどのような化学反応が起きたか…「何も起きなかった」というのが正直な感想です。
 二つの戦隊が一緒に戦ったり修行するだけで、なんだかどうも絡み合っていない。ゴセイジャーたちはゴセイジャーたちで行動し、シンケンジャーたちもまたシンケンジャーでまとまっている。まるでうまくいっていない合コンのように両戦隊はそれぞれで固まっていて、クロスオーバーの魅力も半減してしまっている。
 例えば赤は赤、青は青と一緒に修行するってのもいいけれども、異色な組み合わせもクロスオーバーの魅力だし、そこらへん去年はかなりミックスされていて楽しかったんだけれどなー。
 まぁモネ(ゴセイイエロー/にわきみほ)と千秋(シンケングリーン/鈴木勝吾)の組み合わせとか、異色同士のタッグゴセイナイト(声:小西克幸)と源太(シンケンゴールド/相馬圭祐)とかはワクワクしたのですが。

 二つの戦隊の個性も際立って尊重されていないのも不満。「侍」「天使」というキーワードにお互い、さわり程度に触れる程度で、「侍だからこういう戦い方をする」「天使だからこういう戦い方をする」とか、その二つの葛藤と、そこから生み出される新しい力、みたいのはなかった。
 最大の協力技であるロボットグランドハイパーゴセイグレートも例によって「奇跡の力」で、様々なドラマを乗り越えて…ってな感じではなかったし。でも血祭のブレドラン様がこのロボを見ておっしゃった「なんだあの化け物は」ってセリフは、『バーレスク』においてクリスティーナ・アギレラがシェールにキレて言った「私の話を聞いて!」に並ぶ、ベスト・オブ・「よく言った」・オブ・ジ・イヤーにノミネートされそうです。
 両戦隊を結ぶキーワードの「諦めなければなんとかなる」もなんだか薄っぺらくて説得力がないのが残念。
 

 良かった点はまず『海賊戦隊ゴーカイジャー』の登場。従来のスーパー戦隊らしくはない不敵なキャラクターと「映画だからな」なんてメタ的なセリフが得体の知れなさを感じさせます。

 あと『シンケンジャー』本編で描ききれなかったこと回収。殿が外道に堕ちる可能性があるというのは何度か描かれていましたが、実際に外道に堕ちて鬼のような強さを発揮する外道シンケンレッドの姿とか、あの幕引きはちょっと可哀想すぎる気がしますが骨のシタリ(声:チョー)にきちんと結末を与えたこととか。あぁでも七福神モチーフの外道衆幹部、血祭ドウコク、骨のシタリ、薄皮大夫、腑破十臓、筋殻アクマロ、脂目マンプクときて、この『VSシリーズ』で最後の一人が出るのかと思っていたけれど、結局7人目でませんでしたね。

 あ、『シンケンジャー』本編でやってくれなくて、このVSシリーズでやってくれると信じていたものとしては、女シンケンレッドの薫姫(夏居瑠奈)を入れての7人シンケンジャーを期待していたのですが、姫、一度も変身してくれなかった…。あぁ、1年経ってずいぶん可愛らしくなっておりました、姫。

 望と山田ルイ13世はエンドクレジットだけの登場なんですね。ちょっと扱いが可哀想。


 以上、『シンケンジャー』ファンとしては同窓会的な楽しみはあるものの、それだけで、なんとなく惰性で作っているなーって感想です。『天装戦隊ゴセイジャー エピックON THE ムービー』『ゴースト もういちど抱きしめたい』にも感じたことですが、とりあえず形にしておけば客(というか金)がある程度入るだろう程度の志で作られた作品は見ていてむなしいだけなので、そんなんなら早めに打ち切っちゃって欲しいと思います。

 テンプレートがしっかりしている分、最低限の「つまらなくない」ラインは保てていて、まあシンケンジャーにもまた会えるし、ゴセイジャーの面々もそろそろお別れとなると寂しくなるし、『ゴセイジャー』『シンケンジャー』両方、もしくはどちらかのファンで、そこら辺割り切って楽しめる方なら見て損はないと思います。
 中澤裕子レベル。

 次回はリクエストを受けて観に行って参りましたシリーズ第5弾『ネスト』の感想を書きます。ケヴィン・コスナーの映画をスクリーンで見るのって何年ぶりだろ。『ポストマン』以来じゃないか?

テーマ:映画館で観た映画 - ジャンル:映画

  1. 2011/02/06(日) 21:52:14|
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