かろうじてインターネット

「少年ジャンプ」と水木しげると映画とおもちゃと特撮を愛します。

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
  1. --/--/--(--) --:--:--|
  2. スポンサー広告

『リトル・ランボーズ』は自己肯定映画だよ。

リトルランボーズ

 今回は『リトル・ランボーズ』の感想です。
 観に行った映画館はシネクイント。ちょこちょこいらっしゃいましたが、そこまで混んでいる感じはなく。若い女性客が多め。可愛らしい感じですし、渋谷パルコのオシャレな雰囲気が、この映画にあっているのかな。
 

概要:監督・脚本は『銀河ヒッチハイク・ガイド』のガース・ジェニングス。
 1982年のイギリス。郊外の町に暮らす少年ウィル(ビル・ミルナー)は、父親のいない家庭に育った小学5年生。家族が戒律の厳しい教会に属しているため、テレビや映画はおろか、ほとんどすべての娯楽を禁じられる窮屈な日々。それでも持ち前の豊かな想像力で健気に生きていくウィル。そんなある日、ひょんなことから学校きっての悪ガキ、リー・カーター(ウィル・ポールター)と知り合う。そして、彼の自宅で生まれて初めての映画『ランボー』を観て、強い衝撃を受ける。すっかりランボーに夢中のウィルは、リーが兄ローレンス(エド・ウェストウィック)のビデオカメラで作ろうとしていた自主映画に参加、自ら“ランボーの息子”になりきって主演するのだが…。
"allcinema online"より抜粋)


 今回はまず不満を書きますね。
 例えば物語の本筋があまり『ランボー』と関係なく、題材に『ランボー』を扱う意味が希薄じゃないかっていう問題。敢えて意味をつけるのならば『ランボー』の持つ孤独感が彼らの共感を呼び、その男らしさが彼らに無き父性を感じさせたからとも読めるが。

 あと主人公たちの映画製作にディディエ(ジュール・シトリュク)など、どんどん知らない人が入り込んできて手におえなくなるって問題と、ウィルやリーの家族の問題が同時にあって、で、その二つの問題がすこし乖離したところにありながら同列に進行してしまったため、更生が複雑化し、今、物語がどういう葛藤と向き合っているのか途中よく分からなくなってしまった点とか。

 あとあとこれが一番ガッカリなんだけど、最初の『ランボーの息子』を撮影しているシーンで、アクロバティックな撮影をして危険な目にあっているというギャグをCGを使ってまで表現するんだけど、80年代の子供が作った「手作り映画」ってなら、あの映像ギャグはとてもいらないと思いました。もっと原始的で等身大の嘘くさくない撮影方法でなければ、彼らが撮った映画も嘘くさくなって、その映画が流れるラストシーンに少し傷がついてしまった気がする。

 他にもラストのリーの兄貴ローレンスのくだり、わかりやすく心情を説明しすぎじゃね?とか。あれは、ローレンスがビデオを見ていたとき、ウィルが入ってきたので、隠すようにサッとビデオを止めて、『ランボーの息子』内での彼のリーに対する告白もカカシの缶をかぶったままでよくないか?って。その程度にとどめてくれれば、見ているこちらも想像力が刺激されて感動もひとしおだったと思われる。余計なシーンを省いた分、終盤突然登場した映画館や病院や警官とウィルの関係を描いて欲しかった。


 と、不満を並べましたが、さんざん泣いてしまいました。映画館出て顔隠さなきゃならないほど涙こぼしました。不満点がたくさんある映画だなんて分かっております。でもそんなんどうでもよくなるくらい、この映画が好きなんです。

 何故ならば単純に僕は映画を撮っていたから、そしてこれからも機会があれば撮りたいと思っているからなんだと思います。

 まず本作は映画を初めて作る時の描写がとても面白く表れていることについて、解説。
 例えば二人のあの行き当たりばったりの手探りでモノを創っている感じとか、出来不出来なんか考えず(というか盲目的に傑作と信じて)とにかく空想の中に生きて映画を作るのが楽しくてしょうがなかったあの気持ち、後先のことなんて何も考えなかったから湯水のように湧き出るイメージ(あの聖書やトイレの落書きの素晴らしさ!空飛ぶ犬と悪魔のカカシ!)、そして作っていくことで次第にうまれる障害(特に映画などの集団で作るものの場合メンバーとの対立)、達成感と同時に現れる何にも思い通りにいかない悔しさと無力感(二人の喧嘩は本当に哀しかった)などなど、「当時こうだったよな」っていうあの気持ちをとても上手く丁寧に、かつコミカルにセンスよく描写していて、彼らが映画を撮っている姿をずっと見ていたいという気持ちになる。


 同じようにモノを作ることをテーマにした映画『SR サイタマノラッパー』は、主人公がアラサーで全て失ってもラップだけは残っていたってのが良かったけれども、今作の主人公は将来性があふれるチビッコである。で、この映画が、更に素晴らしいのはこの二人の主人公は成長していくに連れて、こういう映画は二度と撮れないんだろうなってところ。その切なさと懐かしさがとても愛くるしくていいのだと思う。

 両者とも父親が不在で家族関係が円満というわけでは決してなく、ただ彼らは10歳程度の子供だからその不満をなんとかするような手段も思考も言語も持ち得ていないし、偶然手元に8ミリビデオカメラがあったって理由だけで、映画を撮る事でその鬱憤をぶつけている。
 つまり彼らに重要なのは「映画作品」という目的ではなく、不満をぶつけていく「映画撮影」という行為なのではないかと。
 で、観客は、その思いのたけを子供らしい手法(万引き、爆竹、手に書いたカチンコ)で無意識ながらも散々ぶつけた撮影シーンを見たあと、その素材を使った数分の短編『ランボーの息子』を最後に鑑賞する。
 アラーキーが言っていたけど「お母さんが赤ん坊を撮った写真には決して勝てない」と、何故ならばその写真には計り知れない愛情が詰まっているから。
 本作のラストで流れる短編『ランボーの息子』は、そのようにハチャメチャな一方で彼らのメッセージが無造作にぶちこまれているために、あんなにいとおしくキラキラ輝いている。

 彼らがそうやって映画を撮れるのは一度限り、彼らの二作目は例えあったにせよああは輝いていないだろう。そういう「処女作」(というにはあまりに稚拙でデタラメな作品だが)の持つ魅力とマジックがきちんと描けているのが素晴らしいと思いました。そしてその初々しさが切なくて愛おしくなりました。


 あと良かった点として、冒頭二人が出会って映画を撮るにいたるまでのテンポの良さがとても素晴らしい。宗教、「校長の拷問」、荷台つき自転車、腕時計、アーチェリーなどが伏線として上手く効果をあげている。
 最初はちょっとハナについてた映像のギミックが効いた可愛らしさが中盤とても好きになりました。上級生たちの娯楽室の80年代風ちょいダサダンスとか最高でした。さすが『銀河ヒッチハイク・ガイド』の監督。
 あと主役二人がカワイイ。リー役のウィル・ポールターくんは次回『ナルニア国物語/第3章:アスラン王と魔法の島』の主役の一人ですよ。

 ダメな映画について書くのは簡単だけどいい映画について書くのは難しいですね。まるで自分のしてきたことの意味を与えられたようで、映画を作っていて良かった、映画を好きでいつづけて良かったと思いました。

 評価はね、もう完全にアイドル尽きてきたよ…小林涼子レベル。

 次回は『牙狼〈GARO〉~RED REQUIEM~』の感想だがおーっ!


ランボー [Blu-ray]ランボー [Blu-ray]
(2009/02/04)
シルヴェスター・スタローン、リチャード・クレンナ 他

商品詳細を見る

銀河ヒッチハイク・ガイド [Blu-ray]銀河ヒッチハイク・ガイド [Blu-ray]
(2010/12/22)
サム・ロックウェル、モス・デフ 他

商品詳細を見る

テーマ:映画館で観た映画 - ジャンル:映画

  1. 2010/11/21(日) 02:25:20|
  2. 映画ラ行
  3. | トラックバック:6
  4. | コメント:0

『ルイーサ』で陽気に孤独にひたろうよ。

ルイーサ

 やだ、「少年ジャンプ」の感想サボる発言してから、モチベーション上がらないじゃない。
 しかも誰かしら「やめないで!」ってコメントくれるかなと思ったら、誰もコメントくれないじゃない!
 今週は『天装戦隊ゴセイジャー』をまだみてないので、また今度。

 てなわけで今回は『ルイーサ』の感想です。

 観に行った映画館はユーロスペース。ファーストデイだったので混んでいました。映画が映画なだけに50代以上と思われる女性が多め。中年以降の方々は、映画館の座席、後方通路側を好む傾向があるそうで、前方真ん中が好きな僕とは相性がいいです。

 
概要:2010年のアルゼンチン/スペイン作品。監督はゴンサロ・カルサーダという新人。脚本はロシオ・アスアガという人、素人参加の脚本コンクールで優勝した作品らしいです。
 60歳のルイーサ(レオノール・マンソ)はブエノスアイレスに暮らす孤独な女性。夫と娘とは遥か昔に死別しており、今では一緒に暮らす猫のティノが唯一の友。墓地の事務と女優の世話係という2つの仕事を掛け持ちし、規則正しい生活を送る日々。そんなある日、愛するティノが死んでしまう。おまけに、2つの仕事も同時に失う最悪の事態に。ティノの埋葬費用さえも払えず途方に暮れる。しかし、なんとか埋葬費を捻出しようと、馴れない地下鉄でたくましく行動を開始するルイーサだったが…。
"allcinema online"より抜粋)


 人は本来的に孤独なのであろうが、そんな恐ろしいこと直視していたら身がもたない。だから人は『乱暴と待機』の主人公たちのように、一生懸命他者とコミュニケーションをはかって孤独を見つめない作業をするのだが、やはり死ぬ時は一人、どうしても孤独なのだ。

 主人公ルイーサは愛する家族を失ってからずっと決まった行動を機械のようにとり、猫のティノを溺愛することで孤独の感情を殺していた。
 ずーっと30年以上決まり決まった仕事しかしていないという説明は作中別に語られていないし、出勤風景も冒頭の一度しか描かれないが、ルイーサの行動に沿うようにやたらと時間通りにやってくるバス、機械的なルイーサの動きなどの気の効いた演出で、30年決まりきった行動しかとっていないことが、容易に想像できるようになっている。

 しかしながらある日突然彼女はたった半日でティノも二つの仕事も一切失ってしまう。
 地下鉄の乗り方すら知らなかったり、乞食のやる事を真似してみたり、世間知らずにもほどがあるだろうというツッコミどころはございましたが、そこらへんはLSD映像のようなエキゾチックでサイケデリックな演出効果がうまく活かされあまり違和感なくストーリーにのめり込める。家族が亡くなってから見ないようにし続けていた「孤独」に強制的に目を向けさせられることになる。

 だからルイーサは、少しでも気をまぎらわすべく、猫のティノを火葬するために300ペソ(日本円にして28000円くらいだそうです)を貯めようとする。彼女にとってティノの遺体は「孤独をまぎらわせる最後の他者」であったのだ。

 30年間勤め続けた墓地の経営者と決裂をし、乞食で身体障害者の老人オラシオ(ジャン・ピエール・レゲラス)と心を通わせたりと、右往左往しながら初めて自分の「孤独」を見つめ、また他者の優しさに触れることで彼らの「孤独」を尊重することができたルイーサは、ようやくティノの遺体と別れることができ、憑き物が落ちたように「結局死ぬ時はバラバラね」と呟く。

 そして他者だけ見つめ続け他者のために生きてきた人生にようやく終止符を打ち、新たな仲間に囲まれた「孤独」へとようやく一人立ちする。それは「孤独」から生まれた「個」であった。地下鉄にすっかり慣れたルイーサがラテンの路上演奏者たちに挨拶するラストがとても粋。

 このように本作は生涯を他者のために費やしてきた中年女性が自分の「孤独」を見つめ、独り立ちにいたるまでを描いた物語である。
 「私は(これからの人生)どうしたらいい?」
 「知らないよ、でも手助けはする」
 といった親切な管理人ホセ(マルセロ・セレ)のある種冷たく、しかしながら彼女の「孤独」=「個」を尊重するやりとりが印象的。

 暗くなりがちな物語をコメディタッチにしているのは、情熱的なラテン音楽と、ネアカでたくましいキャラクターたち。日本じゃなかなかこういうコメディにはならないだろうなあ。


 ちなみにルイーサの夫と娘の死因は、1970年代にアルゼンチンにて猛威をふるった「死の部隊」と呼ばれる保守派軍事政権の市民弾圧によるものだそうです。そういう暗くやるせない過去を知ると、ルイーサが、いつまでも過去を忘れ去ることができず、孤独に向き合わず、30年間心を閉ざし続けた原因がより臨場感を持って感じられますね。
 同じアルゼンチン映画『瞳の奥の秘密』でも、暴行殺人事件の犯人が公安に保護されたりしたのは、犯人がこの部隊に所属していたとか、そういう理由があるそうです。アルゼンチン映画を見る時に必須知識なのですね。


 不満点は予告編というか日本での宣伝の仕方。あの宣伝が言うような感動やカタルシスなどはない作品だし、変にミスリードするから、どのような映画か見方誤ってしまいあやうく楽しめないところであった。

 孤独から目をそらす様々な装置に溢れていて、自分が孤独ではないと思いがちな現代日本にうってつけの映画だと思います。
 比嘉愛未レベル。

 次回は『ドアーズ/まぼろしの世界』の感想をかくもりすん。

テーマ:映画館で観た映画 - ジャンル:映画

  1. 2010/11/10(水) 20:11:20|
  2. 映画ラ行
  3. | トラックバック:4
  4. | コメント:0

『乱暴と待機』はハートウォーミングな吐き気がこみ上げてくるよ。

乱暴と待機

 今回は『乱暴と待機』の感想です。
 観に行った映画館はテアトル新宿。水曜日の安い日、仕事終わりに行ったので、ほぼ満席でした。若い女性が多め。


概要:戯曲家で小説家でもある『腑抜けども、悲しみの愛を見せろ』の本谷有希子が書いた原作を映画化。監督・脚本・編集は『パビリオン山椒魚』『パンドラの匣』の冨永昌敬。音楽は大谷能生。
 木造の平屋建てが並ぶ市営住宅。そこに暮らす一組の奇妙な男女。黒ぶちメガネにスウェット上下の奈々瀬(美波)は、いつも他人の機嫌を気にして愛想笑いを浮かべてはオドオド生きるめんどくさい女。兄でもない同居の男・英則(浅野忠信)をなぜか“お兄ちゃん”と呼んでいた。一方、その英則は、天井裏に潜んでは奈々瀬を覗き見る行為を繰り返していた。そんなある日、近所に番上(山田孝之)と妊娠中の妻、あずさ(小池栄子)が引っ越してくる。なんとあずさは奈々瀬の高校時代の同級生。しかも、奈々瀬に対して特別の嫌悪と憎しみを抱いていた。そんな番上夫妻の出現で、奈々瀬と英則の異様な関係が少しずつ明らかとなっていくとともに、その関係に微妙な変化が生じ始め…。
("allcinema online"より抜粋)


 この映画を見終わったあと何とも知れぬ奇妙な感覚におそわれた。心が暖まるようで、毒を飲まされたような気持ち悪さ。あったかく優しいゲロ。その理由について考えていきたい。


 爆笑問題の太田光が「忘れられるくらいなら、嫌われたり憎まれたりでもいいから注目されていたい」と言っていたが、子供が、好きな女の子を嫌いと言ってみたり、ブス呼ばわりしたり、はたまた大人になっても好きな人ほど憎かったり。「好意」「憎意」はそう遠いものでもないようである。本作は「恋愛」と「肉体」の関係と対比し、現代社会が今後生み出して行くかもしれない「憎しみ」でつながる男女関係を、異様でいびつでありながら、でもどこか共感できるようなものとして、ファンタジックに描いている。


 山田孝之演じる番上と小池栄子演じるあずさの夫妻は「恋愛」で繋がっている。小池栄子が妊娠しているということで、その「恋愛」は強固となっている。

 一方で番上と美波演じる奈々瀬は「肉体」で繋がっている(あずさは妊婦中のため山田孝之とセックスができない)。
 そして、うすぼんやりとした理由なのにも関わらず、「画期的な復讐方法」を与えられるのを待つ奈々瀬と、復讐者英則(浅野忠信)が「憎しみ」で繋がっている。

 では「憎しみ」で繋がる人間関係とは如何なるものか。
 奈々瀬は「人に嫌われるのが最も恐ろしい」と言い、目の前で人が刺されたり、妊婦が破水しているのに、それよりもまず自分が許されるために「ごめんね、ごめんね」としか言わないような「自分の事しか考えていない女」である。
 一方で英則も、自分がどう見られているか人の目が気になり、見透かされることを恐れるあまり、音楽に夢中になっているフリをして無表情・無関心を装い、それが逆に異様に見えてしまっている。
 両者とも、孤独を恐れるあまり、自意識が過剰になり、他者に恐怖を感じてしまっている。
 だから英則は「覗き見」をすることで、その場に自分がいなくても、彼の自意識が作用することによって動いている世界を確認してみたり(彼が覗き見る世界に彼の意識が充満しているのは、覗かれる側である奈々瀬が覗き見を知ってそれを演出しているにすぎないのだが、英則本人はそれを知らない)、奈々瀬は覗き見されることで他者に常に注目されることを確認している。このようにして孤独の絶望からかろうじて身を守っている。

 このように、誰しもが感じるであろう孤独の寂しさを人一倍感じやすい二人は、なんだかよくわからない理由で英則が奈々瀬を憎み軟禁し、奈々瀬がその復讐を待つという、憎み憎まれるという関係を無理矢理作り繋がり続けようとする。
 いまいち実感しにくい「愛」や「優しさ」、老いがくればやがて消え失せてしまいかねない「肉欲」に比べて、「憎しみ」といったネガティブな関係は実感しやすく、また色褪せにくいから、それが「絆」なのだとすると、その絆はとても強い。「お兄ちゃん、(復讐の方法)思いついた?」「いやまだだ、明日こそはきっと思いつく」といった寝る前の無意味な言葉のやりとりでその関係を確認しあうことでさらに繋がりを補強している。
 このように、「憎しみ」による人間関係は強く、「孤独」を感じさせない。


 冒頭、あずさが二人を見て嘔吐するが、「恋愛」や「肉欲」などの、「孤独の充足」といった理由以前の建前がある行為で孤独を誤魔化している彼ら夫婦(そして我々観客)にとって、ただ孤独の充足をむさぼるだけのような異常な同棲をしている奈々瀬と英則の関係は、とても「気持ち悪い」のである。見たくないリアルを見せつけてくるようで、『ヌードの夜/愛は惜しみなく奪う』の大竹しのぶ&井上晴美親子のような欲望むき出しサイコパスのような恐怖すら感じさせる。しかしながらそうやってつむがれた関係は強固であり安心である。

 以上、生活の目的や価値観を見失いがちで、コミュニケーションツールの発達による淡白なコミュニケーションの大量消費が逆に人間の本来的な孤独を直視せざるを得ないような現代社会において、強固に結ばれた関係ほど安心できるものはない。それが例え気持ち悪くとも。だからこの映画を見た時に、ぼくは暖かいながらも吐き気を催すような奇妙な感じにおそわれたのではないだろうか。


 他に良かった点として、ギャグが最近の邦画でありがちな単発系のギャグではなく、ストーリーの展開で笑わせてくれていること。映画的なコメディをこうやってきちんと語れる監督は最近の日本映画界にはそうはいないと思う。
 浅野、山田、小池の3人がかなり芸達者であることは承知しておりましたが、美波ちゃんがかなり頑張っていて好感もてました。なにあのエロさ。
 

 不満点は、相対性理論と大谷能生が描いた主題歌『乱暴と待機』、曲自体はキュートで知的で下品でとても好きなのですが、せっかく単純な恋愛関係ではない珍妙な関係を描けたのに、あの曲を雰囲気で聴いちゃうとラブストーリーっぽく思えてしまうこと。
 単純な恋愛劇と読むと、英則が完全に感情移入を拒むキャラクターのために、何故奈々瀬が英則に恋をしているのかがよくわからなくなる。
 主題歌は、観客に必要以上の情報を与えて、想像力を遮る危険性があるし、しかもそれでいて歌詞の内容を吟味しないで感覚で聴いちゃうから、けっこう危険だと思うんだ。
 不満点って言うより見る際の注意点ですね。


 冨永昌敬監督は何かと面白いテーマを引っ張ってきて、今後も注目の監督ですね。あっさり見る分には楽しいのですが、がっつり見ようとするとけっこう難解なので、原作も読むのをおススメいたします。

 歌手とかやってるMEGちゃんレベル。

 次回は、話題作ですね。ネット上でも評判です。『ソフィアの夜明け』の感想を書きたいと思います。


「乱暴と待機」「乱暴と待機」
(2010/09/29)
相対性理論と大谷能生大谷能生 feat.やくしまるえつこ

商品詳細を見る

乱暴と待機 (MF文庫ダ・ヴィンチ)乱暴と待機 (MF文庫ダ・ヴィンチ)
(2010/08/25)
本谷有希子

商品詳細を見る

テーマ:映画館で観た映画 - ジャンル:映画

  1. 2010/11/06(土) 14:48:32|
  2. 映画ラ行
  3. | トラックバック:3
  4. | コメント:4

『REDLINE』は90年代サブカル博物館だよ。

redline

 今回は、このブログで取り扱う映画も100本目。うわーい。話題のアニメーション作品『REDLINE』の感想です。

 観に行った映画館は吉祥寺バウスシアター。客層は若い男性、中学生くらいもいたかな、ちらほら。月曜日のメンズデーでしたがまるで混んでいませんでした。


概要:監督は『PARTY7』のアニメパートや『アニマトリックス』に参加した小池健。原作・脚本・キャラクターデザインを石井克人が行なっているため石井克人色が強い作風に。アニメーション制作はマッドハウス。
 はるか未来。抜群のドライビング・テクニックで草レースではほとんど負けなしのレーサー、JP(声:木村拓哉)。しかし、武器使用も認められている勝負の世界で、あくまで速さだけで戦い続けるJPのバカ正直な姿は、ともすれば揶揄の対象ともなっていた。そんな彼の憧れは、天才女性ドライバーのソノシー(声:蒼井優)。いつか彼女を振り向かせたいと願いながらも、見た目に似合わぬシャイな純情ぶりで、ただ走りのみで己をアピールすることしかできずにいた。そんな中、宇宙最速を決める5年に一度の祭典<REDLINE>の予選に出場したJPだったが、相棒のメカニックフリスビー(浅野忠信)の裏切りもあり本戦出場を逃してしまう。ところが、今回の開催地が悪名高い“ロボワールド”に決まったことから、出場を辞退する者が現われ、代わりにファン投票で選ばれたJPに千載一遇のチャンスが巡ってくるのだが…。
("allcinema online"より抜粋)


 60年代、70年代、80年代と10年おきに時代を区切りその時代の文化の特色を語る議論にどれだけ意味があるかは分からないけれど、文化史を整理し客観視するのにとても便利だったりするから、個人的にはこの考え方は大好きだったりする。
 で、今作の主演を果たすキムタクも浅野忠信も90年代の人だと思う。もちろん今もそして今後も大活躍していくのであろうが、さらに時代が過ぎて彼らを思い出すとき、やはり90年代を思い出すことが多いだろう。石井克人って映画監督(本作では監督ではないけれど)もそうだ。

 本作のノリは90年代にもてはやされたイケイケのノリであり、予告編を見て「ああ、まだこんなことやっていたんだ…」って懐かしくなったりもした。石井克人が意図的なのか不本意なのかは知らないけれど、この映画を見ていてちょっと懐かしくなったのはこの映画がまだ「90年代」をやっていたから(もしくは意図的に復活させたから)だ。

 90年代が終わって10年以上経ち、あの時代が少しづつであるが、ようやく客観化されつつある気がする。80年代がそうであったように、過去として客観化されることではじめて再評価される。最近は小沢健二やスチャダラパーなどシブヤ系音楽の再ブームがあったり、よく知らないけれど当時のファッション(アウトドアやアメカジの復権)もリバイバルしているそうな。
 そんな昨今において、こういう90年代を彷彿させるような映画が作られるのも、ノスタルジイを求める働きなのかもしれない。

 では90年代とはどのような時代で何故客観化しづらいのか
 80年代以前の文化に比べて客観化しにくいのは、90年代(そしてそれ以降)は過去の文化のサンプリングがその大きな持ち味になっているからであり、例えばタランティーノ映画やヒップホップ音楽がその代表だ。
 また戦後50年経ち、文化の流れが多少緩やかになったってのもあると思う。文化の流れが緩やかだった江戸時代において、1750年代と1760年代って当時の人たちにとって文化の違いってそこまでなかったんじゃないかなって思う。まあ当時の人は違ったのかもしれないけれど。
 まあそれらの理由で90年代は客観化しづらく、なかなか古びないのだろうけれど、95年くらいのファッションや映画を見ると想像するよりえらく古くて驚いたりもする。

 で、本作『REDLINE』が如何に「90年代」しているかの話。
 本作の「90年代」は主に90年代後半のいわゆる「サブカル文化」が強く表れている。
 主演声優がキムタクと浅野忠信なのは前述の通り、アンダーワールドを彷彿とさせるポジティブなんだけどどこか虚無的なBGM、『カウボーイ・ビバップ』のような「クール」で「ホット」で「クレイジー」なアメリカンノリ、和製アニメが「ジャパニメーション」ともてはやされていた時代の緑茶や日本刀、漢字などの外人から見たニッポンイメージ、永井豪作品『ルパン三世』『巨人の星』などのレトロアニメへのリスペクト。あとアメコミ風デザインも『SPAWN』などのアメコミが流行した90年代風と言えば90年代風(これはこじつけくさいか)。このように本作には90年代スタイルがしっかりとある。

 で、ぼくが本作に感銘を受けたところはそこであり、いまいち客観化しづらかった「90年代」(の、特にサブカル文化)を、意図的にせよそうでないにせよ、整理しノスタルジイ文化として演出に組み込んだところである。
 『新世紀エヴァンゲリオン』以降、暗かったりきなくさかったりした雰囲気をぶち壊す、例えば同じガイナックス作品の『フリクリ』(石井克人監督のベストアニメらしい、これは00年の作品なので厳密には90年代ではない)などが持っていた、疾走感のアンチ90年代アニメ的なスタイルもまた90年代アニメ風であり、その疾走感が今作を盛り上げている。


 以上、本作は90年代のサブカル文化を客観化・整理し「90年代サブカル博物館」として成立しているのではないだろうか。90年代版『ALWAYS -三丁目の夕日-』的な楽しみ方を出来る方にオススメ。


 不満点は、わざわざロボワールドでREDLINEレースやる意味なくね? あまりに危なすぎね? 「やらないでくれ」と訴えているのに勝手に乗り込まれてお祭り騒ぎされるロボワールドも悪とはいえ可哀想すぎね?
 あとジャンク屋のもぐらオヤジ(声:青野武)が言っていた、怪物エンジンを載せると車体がもたないって話はどこに行ったの?
 軽く見れて楽しいけれどあまりに軽すぎて印象に残りづらいのも残念。雰囲気だけでなくストーリーにもテーマ性に一つ貫いたものが欲しかったかな。結局石井克人って、自分の考えたキャラクターを見せたいだけで、ストーリーは二の次なんだろうなぁ…。ストーリーはあってもなくてもどうでもいいレベル。カッコだけって感じ。
 あとJPとソノシーの恋愛話はあまりに突飛すぎて、ついていけませんでした。

 他に良かった点として、良くも悪くも色気があまりない容姿のせいで僕も気がつかなかったけれども、蒼井優の低く大人っぽい声が、セクシーキャラクターのソノシーにきちんとあっていて、にわかファンとして彼女の新たな一面が見れて嬉しかったです。言い過ぎかもしれないけれど、峰不二子の声を彼女にやって欲しいとか思ってしまった。
 ただ90年代イズムを描くのであれば、やはりキムタク、浅野忠信に並ぶ90年代サブカルアイドルがヒロインの声を当てて欲しかった。90年代最大のサブカルアイドルは綾波レイだと思うので林原めぐみとか。

 真木よう子レベル

 次回はリクエストをいただいたので見て参りました『劇場版 機動戦士ガンダム00 -A wakening of the Trailblazer-』の感想を狙い撃つぜ!!


スチャダラ外伝スチャダラ外伝
(1994/04/01)
スチャダラパー小沢健二

商品詳細を見る

弐番目のタフガキ弐番目のタフガキ
(2001/09/27)
アンダーワールド

商品詳細を見る

スポーン ウルトラアクションフィギュア スポーン(SPAWN)スポーン ウルトラアクションフィギュア スポーン(SPAWN)
()
不明

商品詳細を見る

フリクリ 第一話「フリクリ」 [DVD]フリクリ 第一話「フリクリ」 [DVD]
(2000/04/26)
水樹洵新谷真弓

商品詳細を見る

テーマ:映画館で観た映画 - ジャンル:映画

  1. 2010/10/24(日) 00:05:02|
  2. 映画ラ行
  3. | トラックバック:4
  4. | コメント:0

『ロストパラダイス・イン・トーキョー』は簡単だけど簡単じゃないよ。

ロストパラダイスイン

 今週の『天装戦隊ゴセイジャー』は、ついに登場した最後の敵組織機械禦鏖(きかいぎょおう)帝国マトリンティスのお披露目と、今後のゴセイジャーの地球で戦うモチベーションについての確認。マトリンティスの親玉は「10(テン)サイのロボゴーグ」、その部下が「エージェントのメタルA(アリス)」だそうな。マトロイドなる怪人を開発し地上に送り込んでくるとか。「禦鏖」って読めるちびっ子がいたら天才だよね。
 今回はそんな新組織との初戦闘なのに、敵を倒したあと、その死体を放っておいて帰ろうとするゴセイジャーの面々がさすがでした。まんまと巨大化されちゃうし。『ゾンビランド』じゃないけれど、怪人を倒したらもう一度頭部をきちんと破壊すればいいんだと思う。


 今回は話題のインディーズ映画『ロストパラダイス・イン・トーキョー』の感想です。
 観に行った映画館はポレポレ東中野。下手したら行ったのBOX東中野以来かもしれません。ポレポレになってから行った記憶がない。
 観客数は土曜レイトショーで多め、意外に中高年の方が多めでした。近所の人が夕食後ふらっと見に来る感じなのかな?


概要:監督は本作が長編デビューとなる白石和彌監督。若松孝二監督の子分だそうです。脚本は高橋泉。
 両親を亡くし、知的障害者である兄・実生(ウダタカキ)と2人暮らしの営業マン幹生(小林且弥)は、自分の性欲を処理できない兄のために、定期的にデリヘル嬢を呼んでいた。そんな中で、秋葉原で地下アイドルとして活動しながら風俗で働くマリン(内田慈)と出会う。そして、いつか自分だけの島を買うことを夢見るマリンとの奇妙な共同生活が始まる。ところが、地下アイドルの取材を続けるドキュメンタリー作家の酒井(米山善吉)によって兄弟の過去が暴かれ、3人の穏やかな関係も崩壊してしまう。
"allcinema online"より抜粋)


 「人物」「生物」という言葉があるように、人はまず「物(モノ)=物質」である。我々は自身を「モノ」とはなかなか認識しようとはしないが、他者はモノと認識しがちである。主人公幹生は会社に「モノ」として扱われている。もちろん「モノ」といっても命ある人間だから、それが身内ならばその幸福を願うのも普通ではある。その時願われる幸福は、まるで愛玩動物に対する愛情のように、一義的なものになりがちだ。

 で、本作は「知的障害者と家族でいることの生々しい困難さと救い」を描くことで、モノ扱いされがちな、他者の幸福を考えるということを描いた作品である。


 『ケンタとジュンとカヨちゃんの国』では「壁」と表現されていた、人の行く道を決め、疎外し、我々を不幸にも幸福にもするものは、本作では「鎖」として表現されている。

 幹生にとって自分が世話をしなければ生きていけない障害者の兄・実生は自身を縛る「鎖」であった。だから彼は逆に兄を家の中に縛りつけることでせめて「半分の人生」を得ていた。
 一方でデリヘル嬢マリンは何にも束縛されない宙ぶらりんの状態で生きていた。彼女は昼間は地下アイドルとして活躍し「棚ぼた狙い」の男性に応援され、夜はデリヘル嬢として肉体的に他者から欲求されることで、なんとか心の隙間を埋めていた。彼女は他者を否応なく信頼し頼らなければ生きてはいけない実生に出会うことで地と自分とをしっかりつなぐ「鎖」を見つける。やがて幹生も自分を束縛する「鎖」でしかなかった兄が人と人とをしっかりと結ぶ「鎖」であったことを知り、彼を家の中に縛りつけることをやめる。

 お荷物であった兄と、バカにしくさっていたデリヘル嬢という意外な方向によって幹生にもたらされたささやかな「楽園」。やがて物語は「楽園」=「幸福」の在処について考え出す。
 後半、実生の失踪で、彼を介護しなければならないという「鎖」から完全に解き放たれた幹生の生活は宙ぶらりんなものであり決して幸福ではなかった。
 人は「モノ」ではないのだ。幸福とはけっして単純で一義的なものではないとこの作品は語る。
 マリンや幹生が、実生にほどこした「幸福」は果たして兄にとって本当の幸福だったのだろうか?
 実生がかつてレイプしかけた少女の父親(奥田瑛二)の怒りはもはや大人になった少女にとってどれだけの意味があったのだろうか?
 「幸福」が一体どこにあるのか、一度はつかみかけたそれを物語はもう一度模索し始める。

 ラストシーン、幹生が仕事をクビになり車にはねられ、なのに暖かくユーモラスなのは、「幸福」とは、単純だったり一義的だったりするものではないんだという当たり前の事を語っているからであり、それを見ている観客も少し幸せな気持ちになる。


 以上、本作は知的障害者を抱える家族(と、知的障害者の性)というナイーブなテーマを扱い、簡単な事なのに簡単にはわからない「他者の幸福」というものを描いていると思う。


 他に良かった点として、知的障害者がいる家族の苦労や生活を丁寧に描いていたところ。次第にいびつな環境に成らざるをえないその家族関係を、デリヘル嬢マリンの目を通すことでどこかユーモラスに描いた点、そして彼らがそれぞれの足りないものを補うことでどん詰まりの人生に希望の光を見せたことなどが良かった理由。知的障害者のオナニーに悩む家族なんて描きにくいものをよく描いたなと思います。

 で、不満点としてはドキュメンタリー作家が終盤再度主人公たちに絡んでくるあたりからのリアリティの無さ。
 何故だか彼らがかつて兄が子供をレイプしたことを嗅ぎ付け、少女の家に謝罪に行く様を撮影することになる。その謝罪の間、幹生たちも被害者の父も何故か彼らに撮影を許しているのがよくわからないし、更には謝罪に何故かデリヘル嬢マリンを連れていくことになる。謝罪される側としては「家族でもなんでもない友達をなんで連れて来てるの?」って感じだし、そこで別に彼女は特別な活躍をするわけでもない、彼女がいる理由がよく分からない。
 で、更に被害者の父親がキレて暴力振るいまくるんだけど、それを撮影しているドキュメンタリー作家にはキレない。あれ「なに撮ってんだよ!?」って感じだろうに、撮影クルーたちの存在は基本無視。最終的に被害者の父親は幹生の脚を包丁で刺すんだけれど、幹生はその後、きちんと病院行った風でもなくびっこをひく程度であまつさえその晩セックスしたりする。あんな深く刺されたら激痛でとても耐えられたもんじゃないと思うんだけど…。更にその後に兄が失踪するんだけど仮にも知的障害者なんだしまず警察に届けない?って。
 それらのリアリティが欠如した描写がそれまで丁寧に描いてきた「知的障害者とその家族の生活」ってのを台無しにしてしまっていると思う。


 でもまあ自主制作映画という括弧をはずしたとて、骨のある考えさせられる作品でした。
 あとこのようなテーマのなかで『ケンタとジュンとカヨちゃんの国』みたいにどんよりとした重く暗い作風に走らず、ユーモアを終始忘れず貫いた作劇のセンスは素敵だと思います。


 大島優子レベル

 次回はようやく観に行けました『シルビアのいる街で』の感想。

テーマ:映画館で観た映画 - ジャンル:映画

  1. 2010/10/04(月) 23:41:49|
  2. 映画ラ行
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0
前のページ 次のページ

FC2カウンター

プロフィール

かろうじてアメリゴ・ベスプッチ

Author:かろうじてアメリゴ・ベスプッチ
 映画のこととか長々と書くブログです。
 たまに映画以外のことも書くよ。
 コメントくれたら嬉しいです。
 更新あんまりできないけれど。
 あと現代人なのでtwitterを始めました。
 chikiuso2800って名前。
 ご意見、ご感想、取り上げてほしい映画のリクエストなどございましたら、コメント欄か上記twitterIDにてお知らせください。

 なお映画の感想コーナーの最後で、実に分かりやすく画期的な映画の評価方法として、その映画のレベルに見合ったアイドルの名前を書いております。

Twitter on FC2

最新記事

最新コメント

最新トラックバック

月別アーカイブ

カテゴリ

映画ア行 (36)
映画カ行 (51)
映画サ行 (35)
映画タ行 (28)
映画ナ行 (8)
映画ハ行 (40)
映画マ行 (17)
映画ヤ行 (4)
映画ラ行 (14)
映画ワ行 (1)
2010年度映画ランキング (3)
少年ジャンプ (47)
特集 (3)
謝罪 (2)
未分類 (0)

検索フォーム

RSSリンクの表示

リンク

このブログをリンクに追加する

ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード

QRコード

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。