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『コクリコ坂から』で「まるで安っぽいメロドラマさ」と言っているよ。

コクリコ

 今回は待望のスタジオジブリの新作映画『コクリコ坂から』の感想です。
 久々の"この映画を好きな人は読んでも怒っちゃダメだよ"シリーズです。

 観に行った映画館はTOHOシネマズ六本木ヒルズ。客層は若い人が多めでした。女性が多かったかな。子供や家族連れも。

 
概要:2011年の日本映画。1980年に「なかよし」に連載された高橋千鶴と佐山哲郎による同名コミックを、宮崎駿と丹羽圭子の脚本、鈴木俊夫プロデュース、『ゲド戦記』の宮崎吾郎監督でアニメ映画化。制作はスタジオジブリ。
 1963年、横浜。港の見える丘に建つ古い洋館“コクリコ荘”。ここに暮らす16歳の少女、松崎海(声:長沢まさみ)は、大学教授の母(声:竹下恵子)に代わってこの下宿屋を切り盛りするしっかり者。あわただしい朝でも、船乗りの父に教わった信号旗(安全な航行を祈る)をあげることは欠かさない。そんな海が通う高校では、歴史ある文化部部室の建物、通称“カルチェラタン”の取り壊しを巡って学生たちによる反対運動が起こっていた。ひょんなことから彼らの騒動に巻き込まれた海は、反対メンバーの一人、風間俊(声:岡田准一)と出会い、2人は次第に惹かれ合っていくのだが…。
("allcinema online"より抜粋)


 この映画ってすげー流行っているし、雰囲気だけはなんとか宮崎駿的になっているから、好きって人が多いと思うんですよ。
 もちろん好きなら好きでそれは立派なことだし、受け手のその感覚を否定する気はさらさらございませんが、僕はどうしても好きになれない。
 映画はコマーシャルアートだからお金をもうけたいという気持ちは正義だろうし、一方で芸術なわけだからそういう気持ちを表したくないというのももちろん正しい。『超・電王』シリーズみたいに「すでに完成したマーケットでラクしてお金儲けたいんです、お願いだからこれ見てオモチャもたくさん買ってください」って感情を恥ずかしげもなく丸出しにしている方がどうかしているわけで、この映画の態度は決してとがめられない。
 ただなんか可愛げがない。なんだか最近のジブリ作品のコマーシャリズム(食事シーンではビール瓶のラベルは全部こちらを向いているよ!)を「良さげな雰囲気」によってカモフラージュしようとしている感じ、『崖の上のポニョ』にも『借りぐらしのアリエッティ』にも感じたことなのですが、本作はそれがどうも目に付く。しかもそのカモフラージュがあんまり上手くなくてところどころで商魂が見え隠れしてしまい、その「良さげな雰囲気」がものすごい欺瞞くさく見えてしまう。

 ――なんてことを感じてしまうあなたは多分性根が腐っているんですよ!(という今回のスタイル)


 ちなみに『ゲド戦記』ってみんなが言うほど嫌いでもなくて、確かにあれを名作とは言えないけれど、「親父の七光り上等だよ、精一杯利用してすげーの作ってやる」っていう初期衝動は感じた。ただまあ作品なんてのは、たとえどんなに人の道に外れた作り方をしようが、いい作品はいいし、どんなに清廉潔白で立派な正義感と人道主義で作られた作品だろうがダメなものはダメという結果が全ての世界において、作る際の意気込みなんてどうだっていいんだけど――まあ嫌いになれないんです『ゲド戦記』。で、そんな吾郎さんの新作が『コクリコ坂から』。多分前作以上に意地悪な目で「あんなにコケておいてまだやるのかよ」とか「監督世襲制まだ続くのかよ」みたいに見られた作品だと思うんです。(吾郎監督の世間的な評判の悪さを逆手に取った鈴木俊夫氏のコマーシャルはちょっと感心してしまいました)

 で、今回は意地悪な目で見てしまえば多分『ゴッドファーザー』も『アラビアのロレンス』も『アパートの鍵貸します』だって駄作になるんだぜって論旨。


(1)まず誰もがつっ込むのがまだ続いていた謎のスタジオジブリ監督世襲制
 映画監督って世襲制なんですって。確かに今村昌平の息子もコッポラの息子も娘も、最近は今村昌平や深作欣二の息子も二世映画監督ですが、けっこうみんな頑張っているじゃないですか!
 むしろどこの馬の骨かわからない輩より、あの巨匠宮崎駿が手塩に育てた御子息の撮った作品の方が安心に決まっているじゃないですか!!

 もし吾郎監督を、鈴木敏夫が宮崎駿的な記号を乱用したいがための形だけの傀儡監督というのなら、多分あなたの見方が狂ってるんですよ!!

 まぁ他の映画が散々宣伝のための監督世襲制をやっていて、前回のなにも知らないド素人がいきなり世界規模のアニメ監督をやるというぶっ飛びっぷりならともかく、もう監督2作目ですし、その世襲制をジブリがやっちゃダメって理屈はありませんので、そこは攻めないでもいいと思います。


(2)えええ!?誰ですか、宮崎駿的な絵や記号なのに動きが妙にギクシャクしていたりノッペリしていたり、ただ歩くだけのシーンが本当にただ歩いているだけだったり、ジブリ作品のトレードマークとなっている食事がまるで美味しくなさそうというか、全員が判で押したようなただ口に運ぶだけの機械的な作業になっている――というか食事シーンを入れること自体が機械的な作業でしかなかったのだろう――なんて愚かなことを邪推している三下は!?

 ここ、こと海に関しては、高校生なのに頑張って家族を支えるという強い決心があったからこそ、その緊張故にああいった機械的な動きになっていて、本作でいちばん美味しそうに見える食事のシーンは肉屋のコロッケだと感じたのですが、あそこで心を許している俊とふいにコロッケを食べたことで初めてその緊張を解いて、ようやく"食事"が出来た――とも読めなくはないです。
 が、それにしても、どうしても他のジブリ作品、宮崎駿や高畑勲の作り出すアニメーションに比べると、その他のキャラクターの動きと動きから読み取れる感情が薄っぺらい。
 世間的に評価されている日常生活の細かい表現に関しても、小津安二郎みたいに日々のルーチンワークのなかにちょっとした感情のほつれが見えたら良かったんだけれども…。

 ええっと…細かいことは気にしないでわかりやすい表現を目指したのではないでしょうか!!


(3)ええ!?記号的表現と言えば昭和30年代の安易な記号的表現の羅列も鼻につくし、原作の昭和50年代を昭和30年代にした意味も感じられないなんて失礼すぎやしませんか!?

 インタビューで吾郎監督は「あの時代も良かったことばかりではなく暗いこともたくさんあった」とおっしゃっていて、それで朝鮮戦争を引き合いに出してくるのですが、それもあんまりストーリーやテーマに絡みあっていないし、結局、すっごい雑な懐古趣味にしか思えない。その顕著な例として、「上を向いて歩こう」なんてキャッチコピーがなされているけれど、ただ安直にその時代の最もメジャーで最もその時代の良さを喚起させるだけの歌だから採用しちゃったんじゃないのかなーなんて。
 その意識が最も表れているのが古くなったカルチェラタンを取り壊すか否かの論争。これを守ろうとする俊たちはただここが素敵だからという理由で守れば良かったものの「古くなったから壊すというなら君たちの頭こそ打ち砕け! 古いものを壊すことは過去の記憶を捨てることと同じじゃないのか!?」、「新しいものばかりに飛びついて歴史を顧みない君たちに未来などあるか!!」ってもっともらしい理由をつけて守ろうとします。
 これ、僕の個人的な考えですが、"古いもの"ってその価値は時代によって変わっていきますよね。例えば春画は江戸時代から明治時代にかけて二束三文で売り買いなされていた。むろん美術品としてなど扱われていなかった。しかし外国人がその価値を認めたとたん急激にその価値が上昇し、美術品として重宝されるようになった。
 同じように"古いものを守る"という行為の意味は、俊の言う"過去の記憶を守る"ということには繋がらず、むしろ"その頭を打ち砕いて"新しい価値を見いだすことに意味があるんじゃないのかなって。
 俊の言う懐古趣味はすごく表層的に感じてしまいました。

 同じ懐古なら、例えば同じ時代のしかも学生運動を扱った『マイ・バック・ページ』みたいに、まったく無意味に終わってしまった時代やその頃の歌などに現代的な意味を付与させてストーリーに絡ませたら良かったのですが。

 ――なんて言っている輩がいるんですって!!
 そもそもみんな長島とか東京オリンピックとか『上を向いて歩こう』とか大好きじゃないですか!サービス満点じゃないですか!
 『SPACE BATTLESHIP ヤマト』の山崎貴監督(※)『ALWAYS 三丁目の夕日』も、無責任に「あの時代は良かったのだ!」ばかり言っていた『これでいいのだ!! 映画☆赤塚不二夫』も大好きじゃないですか!超いい時代で超ノスタルジックじゃないですか!!

(※)『クレヨンしんちゃん アッパレ!戦国代合戦』の実写化を『BALLAD 名もなき恋の歌』とする偉大なセンスの御大の新作は『泣いた赤鬼』をアニメ化した『FRIENDS もののけ島のナキ』という作品だそうです。このセンス、君にはわかるよね?


(4)うっそ!そんなひねくれた見方があるなんて、むしろ感心すらしてしまったのですが、ストーリーが無さ過ぎる、主人公の海が何もやっていないし、何も失ってなければ何も得てないなんて言うドサンピンがいるんですって。
 せっかく実の兄との近親愛なんて障壁を用意したのに、海は「どうすればいいの?」というだけで何もしようとしない。でも終盤で「血が繋がっていてもいい、風間さんのこと好き」って思えて、映画的にはそれでいいはずなのに、突然海の前に現れた母親が「あなたたちは本当の兄妹じゃないから大丈夫」と教えてくれて、更にもう一回今度は風間くんのパパの親友が「君たちは本当の兄妹じゃないから大丈夫」と何故かもう一回念押ししてきて、万事解決。
 せっかくの決断が、本当は兄妹じゃないという情報でストーリー的に意味なくなっているし、結局主人公は何もしないまま大人に都合のいいものだけ与えられて甘やかされているだけになっている

 でもさ、近親愛なんて超キモイじゃないですか、エロマンガみたいじゃないですか。そんなのどこぞのロリコンアニメ監督が許しても、国民的アニメ会社のジブリが作れるはずないし、ましてやあんまり倫理的にぶっ飛んだことやって日テレで放送できないんじゃ元も子もないじゃないですか!!

 あともう一つのメインストーリーの、取り壊されそうになっていたカルチェラタンの件も特になにもしないで周囲の人がスムースに問題解決に導いてくれる。
 海は「カルチェラタン汚いから清掃したら?」ってアイデアを提示しただけで勝手に仲間が集まりみんなで清掃。それでも壊されそうになったので理事長に会いにいくということになり何がなんだか海も同行、したらばそこの社長は多忙でなかなか会えないと言われたのに、特に努力もせず待っていただけで会ってくれて、主人公見て「君のお父さんは何をやっている人だね?」「船長をやっていました」「…そうか…よし、明日その館を見に行こう」という意味不明の流れで急遽明日の予定をキャンセル、横浜のカルチェラタンに脚を運んでくれて「よし、取り壊しは中止!」と言ってくれましたとさ。それで「いい大人っているんだな」だってさ!

 基本的に子供が困っていたらこちらが何もしなくとも周りの大人たちが全部解決してくれるなんて素晴らしいじゃないですか!まるでお父さんが超有名アニメ監督という理由で美術館の館長や世界中で公開されるアニメを監督させて貰えている誰かさんみたいじゃないですか!!

 あと風間俊輔くんが声をあてていた水沼史郎(例によって客寄せパンダ――ゲフンゲフン、超人気タレント大集合の声優陣の中で彼がいちばん名演技をしていましたが、岡田純一君が声を当てている役の名前が風間俊、その風間俊の親友の声を当てているのが風間俊介って紛らわしいですね)が「海はいるだけで運気が上昇する」みたいなこと言ってたから何も行動しなくてもいい理屈がきちんとあるんですよ!
 コーエン兄弟だって『シリアスマン』で妻が浮気しても訴えられそうになっても弟が逮捕されそうになってもしまいにはハリケーンが襲ってきても何にもしない主人公の映画撮ってアカデミー賞にノミネートされたじゃないですか!


(5)以上、もちろん僕はそんなこと思っていないですが、みんなの意地悪な視線で見ると、表面的なものしか見えてこないペラッペラの映画であって――それでもその内面を頑張って覗こうとすれば「レトロでいい雰囲気でしょ?こういうの好きなんでしょ?」っていう観客をナメてかかっている様子がどうしても見えてしまう作品でした。


 不満点は最後、海と俊が船着き場まで急いで行くシーンでいきなり渋滞になって車を降りて走っていったけど、従来のジブリならそこは車で行くべきだろと。無駄にドリフトかけまくって、物理法則無視して壁とか走っちゃって。もっとうまく記号的表現使っていかないと!

 良かった点は――ああああ、もう良かった点しかないのですが――さすがというか、カルチェラタンの雰囲気はとても良かったです。ステンドグラスとかムカデの這う感じとか、とても美しい。まぁ雰囲気作りはとても上手なんです、この映画。
 あと、先述したけれど、実の兄妹でもそれでも好きって、倫理観を飛び越えて感情の発露に従おうとする展開は映画としてとても全うだとおもいます。ただその後の展開で台無しになっちゃうんだけれど…。
 主題歌も美しくて好きです。
 あと不評が多い長澤まさみの声はなんか好きです。


 多分、悪くはない映画だと思うのです。『ゲド戦記』より立派な作品で、この作品に感動したって人の気持ちもわからなくはないんです。でも『ゲド戦記』の方がずっと魂はこもっていたと思う。どうしても小手先で作られているようにしか思えなくて、好きにはなれない。

 あと『借りぐらしのアリエッティ』の時も書いたけれど、「なんでその絵なの?それじゃ宮崎駿作品と比較されてダメ出しされるに決まってるじゃん」って問題なのですが、ディズニーみたいにその宮崎駿的なデザインセンスを踏襲することで、宮崎駿無き後もジブリを存続させていくための布石を打っているならば、そんなの本当に表面的なことしか描けず、いずれ観客も映画館に足を運ばなくなるのは目に見えているわけで、こんな目先の金のことしか考えない保守的なことしていないで、『ルパン三世 カリオストロの城』『風の谷のナウシカ』『紅の豚』などで見えた、宮崎駿の世に対する挑発的な精神こそ踏襲しないととは思うのですが…まあ宮崎駿自身がジブリの存続にそんなに興味なさそうだし、その時点で厳しいのかな。

 あとセリフで「まるで安っぽいメロドラマだ」って、あたかも自分は違うよって言っているのにゾッとしました。

 今回は長くなりすぎましたね。そして念を押しますが、決して怒らないでください。

 美空ひばり樋口一葉レベル(思うところがあり変えてみました)。

 次回はシリーズ最終作ですよ。前作『ハリー・ポッターと死の秘宝 PART1』はあまり好きではありませんでしたがそのリベンジなるか、『ハリー・ポッターと死の秘宝 PART2』の感想です。

テーマ:映画館で観た映画 - ジャンル:映画

  1. 2011/08/13(土) 20:01:11|
  2. 映画カ行
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『蜂蜜』は"ハチとユフスの神隠し"だよ。

bal

 今回はセミフ・カプランオール"ユフス三部作"の三作目『蜂蜜』の感想です。というとなんだかよくわかりませんが、実を言うと僕も他の2作品は見ておりませんのでチンプンカンプンです。

 観に行った映画館は銀座テアトルシネマ。水曜日1000円の日でそこそこ混んでいました。日中はご老体だらけですが、夜の回はサラリーマンやOLが多めです。


概要:2010年のトルコ映画。監督・脚本は『卵』『ミルク』のセミフ・カプランオール。本作でベルリン国際映画祭・金熊賞を受賞。
 6歳のユスフ(ボラ・アルタシュ)は、手つかずの森林に囲まれた山岳で両親と共に暮らしている。幼いユスフにとって、森は神秘に満ちたおとぎの国で、養蜂家の父(エルダル・ベシクチオール)と森で過ごす時間が大好きだった。ある朝、ユスフは夢をみる。大好きな父にだけこっそりと夢をささやき、夢を分かち合う。ある日、森の蜂たちが忽然と姿を消し、父は蜂を探しに森深くに入っていく。その日を境にユスフの口から言葉が失われてしまう……。数日経っても父は帰ってこない。ユスフに心配をかけまいと毅然と振る舞っていた母(トゥリン・オゼン)も、日を追うごとに哀しみに暮れていく。そんな母を、ユスフは大嫌いだったミルクを飲んで励まそうとする。そしてユスフは、1人幻想的な森の奥へ入っていく……。
"goo映画"より抜粋)


(1)"神隠し"というと、実に日本的な表現だけれど、こんな近代文明溢れた東京の町でも確かに山や森には何か神秘的で奇妙な気配がある。それはかつて山神だったり天狗だったり狸や狐だったりと呼ばれるわけだけど、そういったところはしめ縄が張られあの世とこの世の境界線とされていた。
 そのような不気味で神聖な場所に紛れ込んで帰ってこなくなった人がいたとして、それを"神隠し"と言った我々の先祖の感覚はとても的を得たものだったと思う。

 本作で印象的なシーンの一つとして、森に蜂蜜を取りにいって突然発作で倒れた父のために主人公ユフスが水を汲みにいくと河の向こう岸には逆光により神々しく堂々と立つカモシカの姿がある。ユフスはそのカモシカに見とれてしまう。
 『もののけ姫』におけるシシガミの登場シーンを彷彿とさせるが、まるで父親をカモシカが象徴する神秘的な「自然」が呑みこもうとしているかのようである。


(2)本作は『ブンミおじさんの森』同様に朗らかな闇に溢れる森のショットから始まるが、むしろ映画全体が森の様相をしていると言ってもよい。
 トルコ映画といえば赤い土と乾いた砂埃のイメージだが、本作はジメッとした森が舞台である。都会育ち都会暮らしの僕などはちょっと観光地気分でうっとりしてしまうほどの大きな針葉樹に囲まれた山小屋が主人公の住む家だ。
 またセリフもほとんどなければ、音楽など皆無の本作において、BGMは虫や鳥の声と河のせせらぎと雨や雷の音だ。
 このように本作は薄暗くジメッとした空気感が本作全体を覆いまるで映画全体が森のようなのだ


(3)本作は基本的に子供が主人公のため子供の視点で描かれる。カメラの位置も大体子供の目の高さだし、大人の難しい話や山村の外のことは子供が解る範囲でしか伝わらない。母親が悲しんでいるのはユフスがお手伝いもしないし牛乳を飲もうともしないからだし、何よりの目標はきちんと教科書を音読してかっこいいバッヂをもらうことである。
 ただし彼は吃音持ちのため、基本的に話す能力に欠けている。

 子供であるうえに言葉すら持てないユフスは現実世界に対して哀しいほど無力である。だがそれ故に現実に対して自分なりの付き合い方を持つ。


(4)ちょっと脱線してトルコ国民の99%が信望する宗教イスラームと自然の関わりを考えたい。
 同じ旧約聖書が聖典の元ネタとしてあるキリスト教と違い、イスラームにおいて自然は神の前に人と同列の存在であり、キリスト教のように神の姿をした人間がエラいということはない。更にイスラームで「自然」を表す語は「タビーア」というそうだが、その語源を辿ると「ピュシス(physis)」というギリシャ語にたどり着く。この語は、「成長」「性質」「パワー」「火・水・土・風」という万物を内包する自然の構成要素を意味するが、その「万物」には神も含まれるそうだ。
 また例えば『マイティ・ソー』のようなキリスト教伝来以前の神々が自然を象徴することが多い一方で(ソーは雷を象徴する神である)、それらの神々を排斥しようとしたキリスト教は『アンチクライスト』『赤ずきん』のごとく自然を"魔のもの"とみなしたことは、逆から読むとその自然が神性を保っている(それ故に自然を"魔のもの"として離しておきたい)ことを証明していると思う。

 以上のような万物を総括する働きを持つ「自然」だからこそユフスは父親が死んだと知らされたき、森へと走ったのだ。父親は"神隠し"にあった――自然に飲み込まれたに違いない、だから森へ行けばまた会えるはずと。それは現実に対してあまりに無力なユフスの彼なりの"付き合い方"であったのだろう。
 ユフスが森の中に入りまるで森と同化したような最後のシーンの安らかな顔には何やら母親に抱かれている赤ん坊のような温かさすら感じた。


 以上『蜂蜜』は、おそらく万国共通の"自然の持つ神秘的な雰囲気"を身近な子供視線で描き出した作品であると思う。


 セリフをほぼ信用せず、淡々とした作品で眠気を誘われるかもしれませんが、なかなか映画読解力が上がる素敵な作品だったと思います。

 井川遥レベル。

 次回はお待たせいたしました、ゴロちゃんの新作『コクリコ坂から』の感想です。

テーマ:映画館で観た映画 - ジャンル:映画

  1. 2011/08/12(金) 03:28:46|
  2. 映画ハ行
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『BIUTIFUL ビューティフル』はカミサマ不在の宗教映画だよ。

biutiful

 今回は、ブヒャー!"BIUTIFUL"だってバカじゃねーの!?お前の偏差値カブトムシ程度なんじゃねーの!?でおなじみ『BIUTIFUL ビューティフル』の感想です。

 観に行った映画館は信頼のブランドTOHOシネマズシャンテ。火曜会員1300円の日に加えて最近のvitで予約すると100円引きというキャンペーンの合わせ技で1200円で見ることが出来ました。わーい。
 公開してけっこう経っていたのでわりと空いていました。会社帰りのOLやサラリーマンが多め。


概要:2010年のスペイン・メキシコ映画。製作・監督・原案・脚本は『アモーレ・ペレス』『21g』『バベル』のアレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ。音楽はグスターボ・サンタオラヤ。
 スペイン、バルセロナ。この大都会の片隅で、移民や不法滞在者を相手に、時には違法なことにも手を染めて日々の糧を得ている男、ウスバル(ハビエル・バルデム)。麻薬に溺れ荒んだ生活を送る妻マランブラ(マリセル・アルバレス)と別れ、愛する2人の子どもたちを男手ひとつで懸命に育てていた。ところがある日、彼は末期ガンと診断され、余命はわずか2ヵ月と告げられる。死の恐怖にも増して、何よりも遺される子どもたちの今後が、苦しみとして重くのしかかってくるウスバルだったが…。
("allcinema online"より抜粋)


 "宗教"とはそのほとんどが本質的なテーマとして「死」をどのように扱うかということについて考えている。何が恐ろしいって人は死ぬことが何より恐ろしいからだ。

 死から逃れるために生命活動は本能的に気持ちいいものなのだろう。セックスも食事も排泄も睡眠も気持ちいいものだ。
 ところで水木しげる先生曰く「死」の瞬間も気持ちいいらしい。貧血で倒れたことがある人は分かると思うけれど、苦しみからふわっと解放されるあの感覚が死の瞬間となるとより増すわけで、気持ちよくないはずはないと推測する。
 その「快感」は生命活動の苦しみから解放されたことによる快感なのだろうか、それとも死の瞬間に自身の生命を最大級に感じることで得られる最終最後の生命活動の快感なのだろうか。


(1)まずこの作品が"海”"砂漠"を描いていることについて考えたい。
 世界は「死」に溢れている。この世は死体だらけの世界だ。地球の表面の7割を覆う海は生物の死骸のスープだ。この世界は死が普通で生はむしろ異常だといってたのは『新世紀エヴァンゲリオン』だっただろうか。
 『BIUTIFUL ビューティフル』の主人公ウスバルはそのような"海"を恐れている。死のスープが奏でる波の音は死の誘いだからだ。

 一方で本作においてこの世界で生きることは「砂漠」に例えられている。
 本作が描くスペインの町は寒々しく埃っぽく汚れきって、社会問題も環境問題も数えきれないほど渦巻いており、見ているだけで疲れてしまう息苦しさがある。
 ウスバルは死を宣告されたことで『生きる』の志村喬のごとく自分が生きた証を残そうと奮闘するが、そんな一朝一夕じゃ移民問題も格差社会も別れた妻マランブラの躁鬱病もワーキングプア問題も解決するはずがない。
 結局この物語で彼は誰一人として救うことができない。物語序盤で示された本作の葛藤に何一つ打ち勝つことはできない。黒人女性イへ(ディアリァトゥ・ダフ)にもお金や住む場所を提供したことで逆に彼女を縛り付け、主人の待つエクアドルに帰りたいという希望をなし崩しにしてしまっているし、もっと悲惨なのは彼が斡旋した中国人労働者たちの労働環境が少しでもよくなるようにと買ってきた暖房装置が起こした悲劇だ。
 ウスバルは死を前にもがき苦しむだけだ。それこそまさに"砂漠"のようである。


(2)続いて本作において"死"はどのような意味をもつのか、もう一度考えたい。
 本作は『シックス・センス』のごときホラーサスペンス要素がある。前知識無しに見たのでけっこう困惑してしまったのであるが、ウスバルは『ヒアアフター』のように死者の声が聞こえる。
 遺されたものは死者に対して劇的な思い出と別れを求めるが、死者たちが遺す言葉は大体しょうもない。『怪談新耳袋』ようなおぞましい姿になって盗んだ時計の話などをする。
 ウスバルの会ったこともない父親はかつてスペインを脱走してメキシコに向かうがようやく到着した2週後に若くして死んでしまった。父親のみすぼらしい腐った遺体を見つめるウスバルは父が生前何を遺せたか、自分が何を遺せるかを考える。父親は本物かどうか怪しいダイヤモンドの指輪を遺したくらいだった。
 そしてウスバルも父親や幽霊たちと同様に何にもできない。人並みに子供を育てることすらできない。ここにおいて彼は何も遺せず、誰にもほとんど記憶されず、みすぼらしく醜く死んでいくだけなのである。なぜならこの世の中で"死"はむしろ普通なのだから、映画のような特別でドラマチックなことなど起きやしないのだ。

 このように、本作において、一見、"死"はなんでもない無情なものなのだ。


(3)続いて、そのような無情な世界のなか、ウスバルは残されたわずかな時間をどう扱ったか、物語の結論について考えたい。
 彼は荒れ果てたバルセロナの街に一矢報うことすら出来ず、ただ死んでいくだけだだが、冒頭と結末で示されるように、ウスバルは本作に登場する他の霊と違い、素直にあの世へと旅立つ
 自分の父親が彼にしてあげられなかったこと――すなわち子供たちに父親がいたという思い出をあげること――それは何よりも、本物のダイヤモンドよりも美しいものだった。それ以上に自分が生きた証というものはない。娘との対話でそれに気がついたウスバルは、全てを包み込む"死のスープの海"へと晴れ晴れとした表情で向かうのだ。

 "なんでもない無情な死の世界"において、もしウスバルのように生きた証明、生きた記憶を遺すことができたのならば、やっぱり死は気持ちいいのかもしれない。それは生きる苦しみからの解放であると同時に、自分が生きた証を噛み締める最初で最後の瞬間だからだ。


 アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ監督は毎回キリスト教的な視点を大事にする監督であり、本作は珍しくキリスト教を表面に出してこないなと思ったけれども、「死」をどのように受け取るか、死の恐怖に真っ向から立ち向かう辺り、キリスト教的では何にせよ、宗教的ではありました。

 以上『BIUTIFUL ビューティフル』"死"という未知なるものに対してどういう態度をとるべきか、生きるとはどういうことを真っ正面から描き、死の恐怖を緩和させる宗教映画のような作品であると感じた。


 あまりデートコースには向いていませんが、力強さとパワーがある作品です。
 岡本あずさレベル

 次回は小難しい映画が続きますがセミフ・カプランオールのユフス三部作の最終章『蜂蜜』の感想です。

テーマ:映画館で観た映画 - ジャンル:映画

  1. 2011/08/11(木) 03:09:54|
  2. 映画ハ行
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『EXIT THROUGH THE GIFT SHOP』ではしっかりとお金を儲けるよ。

exit through

 今回はとても流行っているそうです。『EXIT THROUGH THE GIFT SHOP』というドキュメンタリー映画の感想です。

 観に行った映画館は渋谷のシネマライズ。ここは2年に一度くらいこういうドカンとくるヒット作を上映しますね。火曜日1000円の日で公開間もなかったのもあって、けっこう混み合っていました。劇場内に知り合いが二人もいて驚きました。客層は若者が多め。二人連れが多かったかな。


概要:2010年のアメリカ映画。監督はこれが初映画監督作となるストリートアーティストのバンクシー。ナレーションはリス・エヴァンス。
 誰もその素顔を知らないというミステリアスな素性と、社会風刺に富んだグラフィティ・アートを世界各地でゲリラ的に展開する大胆不敵な活動で世界的に注目集める覆面アーティスト、BANKSY(バンクシー)が自ら監督し、ストリート・アート、そしてアート・ビジネスの世界にユニークな切り口で迫る異色のアート・ドキュメンタリー。LA在住のフランス人アマチュア映像作家ティエリー・グエッタは、危険を顧みず警察の取締りにも怯むことなくグラフィティを描き続けるストリート・アーティストたちの活動を追い続け、やがてバンクシーにもカメラを向け始める。ところが、ティエリーに映像のセンスがないと見抜いたバンクシーはそのカメラを奪い取り、逆にティエリーを撮り始める。そして、このごく平凡なティエリーおじさんをある奇想天外なプロジェクトに巻き込んでしまうのだが…。
"allcinema online"より抜粋)


(1)ストリートアートとかグラフィティアートというのはてんで詳しくはないけれど、いわゆる大衆芸術や教養芸術などと言われるメインカルチャーに対する"カウンターカルチャー"としての側面も持つ。MBW(ミスター・ブレインウォッシュ)ことティエリー・グエッタは本作で「芸術は洗脳」だと言っていたけれど、どちらかと言えばカウンターカルチャーは洗脳を解く――既存の価値観という洗脳を破壊する役目があると思う。
 それ以前にもっと下世話で重要な要素としてメインカルチャーは映画にせよなんにせよ基本的に商売となり得るし、作り出すのにお金がかかる(例えば小説は高額の出版費・宣伝費が必要だ)が、それに対応するカウンターカルチャーは基本的に必然的に儲かるとしても少額だし、それ故に制作費も極小で済むものも多い。

 本作はそのようなカウンターカルチャーというものがどのように盛り上がり衰退していくか、そしてそれを迎え撃つ新たなカウンターの登場を通し、アートの価値とは一体なんなのかということを、ポップなムードと皮肉な笑いを込めて描いた秀作だと思う。


(2)本作は二部構成に分けられる。
 前半は現代のストリートアートについて。ティエリーが従兄弟の"インベイダー"づてにストリートアートに興味を抱き、大御所バンクシーと出会うまでを描く。
 ここらへんの無邪気なアート制作の楽しさが、ティエリーの幼稚なビデオ撮影と相まってすごく楽しいのだが、ここにて明らかにされるのが、ストリートアートとは単にポーズやファッションなだけではないということ。もちろんそれも重要な要素ではあるのだろうが、それを超えて"社会との積極的で挑発的な関わり合い"の上に作られているものであるということ。
 本作に登場するアーティストたちは犯罪スレスレ(もしくはとっくのとうに犯罪)で、ときに命の危険があるところまで出張り表現をする。その内容は街のラクガキのようなごく個人的な自己表現に始まり、政治的なメッセージまで幅広いが、共通するのは何か大きな流れ(政治、風潮、文化、風習)に一石を投じようとする態度とそこに商売っ気は基本的に皆無であるということ(というか、彼らはそれぞれどうやって食べているんだろうか?)。

 彼らのアートに対するパンキッシュな姿勢を表すように本作の演出(というかティエリーの撮影)は『ゴダール・ソシアリスム』のごとく乱雑なデジカメ映像やテレビ番組のモンタージュと、どこか挑発的なBGMで奏でられ、なかなかファンキーで刺激的。


(3)が、そんなストリートアート界に少し変化が訪れるのが後半だ。我が国でもお馴染み村上隆らの作品と共にバンクシーらストリートアーティストたちの作品が高額で売買されはじめる。
 曲がった電話ボックスは何気ない街角にどかんとイタズラっぽく置かれていたことに意味があったはずなのに、オークション会場を経由し、どこかの大金持ちの家に高尚な芸術作品(それらもかつては挑発的なカウンターカルチャーであったのだろうが)と共に飾られる。

 そして汚い街角の日陰に描かれていた彼らの作品がメインカルチャーになっていく。

 それを体現・象徴するのがティエリーが芸術家に扮したミスター・ブレインウォッシュだ。アートに対してそれまでのような受け手ではなく、バンクシーのように作り手として栄光に授かりたいと考えだした彼は、バンクシーの勧めもあって自分もアート活動を始める。
 何かを表現したいという欲求よりもアーティストというものになりたい欲求が強かった彼は、古着屋経営で鍛えた元来の天才的な商売センスを駆使し、有名になるべくバンクシーらが築いた既存の価値観に前習えし、バンクシーの名前を利用しまくることで成功を収め、最終的にはなんとマドンナのCDジャケットを手がけるほどにまで成長する。
 ここにおいてストリートアートはその作り手たちが挑戦すべき商売っ気たっぷりのメインカルチャーへとなったのだ。


(4)この(2)(3)の流れで描かれていることは大きく以下の二点である。

 まず「繰り返されるアートの攻防」。例えばプレスリーだってビートルズだってルネッサンスだってそもそもはメインカルチャーに対抗するカウンターカルチャーであったはずだが、今やこれ以上ないほどメインストリームのド真ん中を闊歩している。当時相当パンキッシュな作品としての評価を与えられていた『俺たちに明日はない』やダスティン・ホフマンの『卒業』もいまや一見しただけではどこらへんが反体制なのかわかりづらくなってしまっている。
 同様にバンクシーらストリートアートの作品は経済的価値が付与し、MBWのような経済活動を念頭においたアーティストが登場することで、ポップなメインカルチャーへと変貌する。

 もう一点は「アートの価値は商売・宣伝の仕方によって変動する」ということ。
 終盤MBWの個展のシーンで彼の作品がいいのか悪いのか分からなかった人は多いはずだ。僕などはアート通っぽい来場者の「彼は素晴らしい」という意見に「やっぱりこれいいんだ」と思い、逆に「ゴミクズだね」みたいな意見に「やっぱりこれ駄目なんだ」なんて左右されたりした。
 中盤に登場するMBWが編集した映像もバンクシーがバカにするまでは「なんだか難解だけどこれがアートなんだろうな」なんて思ってしまった。
 更にそこにお金が絡むコマーシャルの奮闘が加わればその価値はかなり変動する。なんだかよくわからないものでもオークションで高額で取引されていればなんかいいものの感じがする。
 そうこうしているうちにしまいにはバンクシーの作品ですら「それは本当にいい作品なのか?」と価値観をぐらつかされる。
 バンクシーは自分も巻き込まれた(というより中心にいた)この一連の騒動を、客観化し、MBWを主役に映画化することによりアートの価値と経済や宣伝の癒着という大きな流れを、ユーモアと皮肉たっぷりに描いて、「本当にお前の思っている作品は素晴らしいのか、俺の作品は皆がいいって言うほどいいものなのか?」とアート業界に一石を投じているのだ。


 この二点をまとめると、アートと経済や宣伝の密接な関係が導きだされる。アートに一般的な価値を付与しメインストリームを歩かせるには、経済活動・コマーシャル活動が重要である。
 タイトルの『EXIT THROUGH THE GIFT SHOP(お出口はグッズ売り場を通り抜けたところ)』を考えると、大きめの美術館や博物館は必ず出口にお土産コーナーがあるが、それが示すように、いくらアート側が拒否しようとアートと経済・コマーシャル活動は切っても切り離せない関係にあり(グッズが売れないと美術館は赤字らしい)、それは作品の価値すら左右するようになっているのだ。


 以上、『EXIT THROUGH THE GIFT SHOP』は、アートというものの価値がどのように成り立っているのか、そこに経済や政治がいかに関わっていて、我々を「これはいいものだ」と"洗脳"(やっぱりMBWが言うようにアートは洗脳だ)しているか、ということを描き、アートに対してもう一度考えさせられる作品であったと思う。
 噂に違わぬ面白さです。既存の芸術の価値観をぐらつかせ、様々な洞察の手がかりを投げかけるところなど、さすがといった具合。アートに対して懐疑的になる一方で、また非常に興味を抱かせる作品です。過剰宣伝に泳がされ気味な僕のようなアナタにオススメ。

 岸本セシルレベル

 次回はすげー今更です。アレッサンドロ・ゴンザレス・イニャリトゥの新作『BIUTIFUL ビューティフル』の感想。綴りのミスは(原文ママ)ですよ。

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  1. 2011/08/10(水) 13:59:14|
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『鋼の錬金術師 嘆きの丘(ミロス)の聖なる星』は賢者の石を使えばいいよ。

嘆きの丘

 こんばんは。本当に最近更新出来ずにごめんなさい。
 そんなわけであんまり頑張りすぎない程度ですが更新いたします。

 今回は人気アニメの劇場版『鋼の錬金術師 嘆きの丘(ミロス)の聖なる星』の感想です。

 観に行った映画館は新宿ピカデリー。公開から少し経っているし、夜十時からの回だったので空いているかなと思いきや、満席近かったです。レディースデイだからかな? 若い女の子が多めでした。この裏にあった俺たちのさくらやホビー館が無くなり、その跡地に巨大なアニメイトができまして、一方で"乙女ロード"近くに君臨していた池袋テアトルダイヤも無くなりまして、「その手の婦女子はワシがみんな面倒見たる!」てな具合に最近は『鋼の錬金術師』の巨大なアルフォンスの等身大模型やら『戦国BASARA』のパネルやらが展示されていますが、果たして『Dear Girl~Stories~ THE MOVIE』を上映するような劇場になるのかな?
 ちなみに11.5巻はちゃんともらえました。


概要:2011年の日本映画、2010年に完結した荒川弘の同名コミックスを、監督に『コードギアス 反逆のルルーシュ』の村田和也、脚本に『アンダルシア 女神の報復』シリーズの原作や映画『ドラえもん』シリーズの脚本の真保裕一を迎えて映画化。アニメーション制作はボンズ。音楽は岩代太郎。
 国家錬金術師の少年、エドワード・エルリック(声:朴路美)とその弟、アルフォンス(声:釘宮理恵)は、アメストリスの中央刑務所を脱獄した男、メルビン・ボイジャー(声:森川智之)を追って、かつての聖地テーブルシティに辿り着く。エドたちは、メルビンが操る未知の錬成陣に自分たちの身体を取り戻すヒントがあるのでは、と考えていた。だがふたりは、かつて“ミロス”と呼ばれたこの地でレジスタンス活動に身を投じる少女、ジュリア(声:坂本真綾)と出会い、図らずも巨大な陰謀へと巻き込まれていくのだった。
("allcinema online"より抜粋)


 『鋼の錬金術師』はとりあえず二種類のアニメシリーズをなんとなくではありますが見ています。好きになったのはこの映画を見に行こうと相方に言われ、予習で原作漫画を読んでから。というわけでかなり最近の話です。

(1)まず原作の話をしたいのですが、この物語の魅力は「関係」「連続」にあると思う。
 少年漫画らしく敵と味方がしっかりと別れていて、もちろん味方同士ではしっかりと協力し、敵味方に別れれば血を血で洗うような殺し合いをする。こういった"コミュニケーションの代替としての異能者同士の戦い"という構図は『少年ジャンプ』に掃いて捨てるほど連載されているけれど(というか物語の一つの雛型だけれども)、この味方同士の協力とディスコミュニケーションによるバトルを"第一層の「関係」"だとすると、更に"第二層の「関係」"として利害関係の一致による協力体勢や、相容れない敵ではあるが気が合うといったことによる共感、また味方同士でも気が合わないという理由で最後までいがみ合っていたりする点など、味方同士はもちろん敵味方同士での、それぞれの目的を抜きにしたところでのつながりというものがある。
 で"第三層"として、そのようにして培ってきた「関係」によって見られるそれぞれのキャラクターの成長や心境の変化の積み重ねが、物語に比類なくエネルギッシュな推進力を与えていく。これが「連続」の魅力、言い換えればそれぞれの「関係」を積み重ねるごとに目的に対する意識が次第に加速していくのだ。

 この漫画のテーマは「等価交換」"1からは1しか生み出せない、何かを得るには必ず同等の代償が必要である"という意味のこのキーワードによって、その緻密な世界観や思わず夢中になるアクション、倫理、経済、哲学まで語ってしまうところにゾクゾクと魅力を感じるのだが、その「等価交換」のルールに原作の魅力を照らし合わせるならば、そのようにして紡いでいった人と人との繋がりによる錬成陣が、目には見えない強くエネルギッシュな力を生み出しているのがこの作品の魅力だと、僕は捉えている。

 このような相当緻密な計算と豊かな感受性・想像力で作られたのが『鋼の錬金術師』という漫画で、本作はその劇場アニメ作品。
 このような漫画を映画化するのってけっこう難しかったと思うんです。

 てなわけで今回は大人気アニメの映画化について考えたいと思います。


(2)まず本作のスタイルについて。
 原作『鋼の錬金術師』はかなり完成度が高い漫画で、『劇場版 機動戦士ガンダム00 -A wakening of the Trailblazer-』『劇場版 マクロスF 恋離飛翼~サヨナラノツバサ~』のようにヘタに補完したり後日譚を描いたりすると蛇足になりかねないし、かといって『ドラゴンボール』のアニメ映画みたいに原作のストーリーとはまるで違う番外編時系列でやると、原作の持つ「連続」の面白さを損なうし、それ故に感情移入もかなりしづらくなるしで、そういった従来の人気テレビアニメの映画化の手法ではうまく太刀打ち出来ない。

 で、本作の製作陣は『ハガレン』『ルパン三世 カリオストロの城』を目指したそうです。
 ただ『ルパン三世 カリオストロの城』は一話完結というスタイルがそもそもテレビシリーズであってこその面白さであり『ハガレン』のような作品には向いていないと思う(*)。

(*)『カリオストロの城』は、『クレヨンしんちゃん』『ドラえもん』の劇場版同様に、『ルパン三世』というTVアニメシリーズの一話完結の繰り返しの面白さがあってこそ存在し得る作品だと推測する。『ルパン三世』がそれまで培ってきた"一話完結の幾度とない繰り返し"をギュッと120分弱に凝縮し、そこにスパイスとして、決して成長しないはずの一話完結キャラクターが少しだけ成長を迎えるという映画だけのルール違反(ルパンが過去と決別する、恋をする、しんのすけが泣くとか)があるのが面白いわけで、『ハガレン』の「連続」の面白さに対して、そもそも「断絶」していたものが「連続」することの面白さというべきか、映画版ならではのスペシャル感とかそういう魅力がある。


 まあそんなこんなで本作は、原作でいうところの単行本11巻あたりに無理矢理エピソードを食い込ませ、「連続」の面白さをなんとか保つ「正史」という形をとりながら、一方で『ルパン三世 カリオストロの城』的な一話完結で、その長い原作の面白さを1時間半にギュッと凝縮するという、欲張りな――というとその意気や良しなんですが――中途半端なスタイルに落ち着いたっぽいです。
 このスタイルは同じく「連続」が魅力の一つにある漫画『ONE PIECE』が、単行本零巻なるものを配りまくって大ヒットした『ONE PIECE STRONG WORLD』でやっていまいち上手くはいかなかったと思うのですが――おそらく作り手としてはーー、

(a)一話完結で『ハガレン』の面白さを凝縮したような物語、
それに加えて、かつ
(b)『ハガレン』の原作のディテールアップにつながる補足譚。

 ――を目指したのではと推測できる。


(3)ではこの『鋼の錬金術師 嘆きの丘(ミロス)の聖なる星』はそのような目的のうえ、上記のスタイルを選択した結果どう落ち着いたか。
 残念ながらいろいろと裏目に出てしまった気がする。

 例えばすでに完成している物語に無理矢理エピソードをねじ込むことで、主人公エルリック兄弟は、少なくとも本作のような大事件において、何も成長しないキャラクターになってしまっている(ここで成長させたら原作の物語に矛盾が生じてしまう)。
 また『ハガレン』の面白さを一話完結の一本の映画に凝縮させるということで、人気キャラクターのロイ・マスタング(声:三木眞一郎)やヒロインのウィンリィ(声:高本めぐみ)も登場させる必要があったのは分かるが、ただでさえ敵味方様々な思惑が入り乱れる物語(それこそ『ハガレン』の面白いところで、そういった勢力図が絡み合うという醍醐味も本作は映画内に凝縮しているのだけど)の中でまるで活躍できていなく、ただファンサービスのための登場になってしまっている。一方で本作が正史に組み込まれる物語になるとしたのなら、大惨事に無意味にぼんやり突っ立っているマスタングなどは、原作で描かれたそのキャラクター性をおかしな方向に持っていったことになってしまう。
 そもそも複雑な人間どうしの関係性の面白さを一時間半の映画に凝縮するなんてこと簡単にできるわけもなく、なんやら複雑でスピーディーな構造に困惑してしまいました。

 あと『ハガレン』と言えば"兄弟の絆"の物語であるけれど、エルリック兄弟の合わせ鏡として登場する互いを思うが故に対立してしまうメルビンとジュリアの兄妹は、もうちょいエルリック兄弟との対立構造を浮き彫りにして欲しかったかなと(※)

(※)彼ら兄妹に関しては、今回の論旨からは外れるのだが、やはり不満があり、まず"ずっと戦ってきた敵が終盤実は影武者ということが発覚し、実は裏に本物がもっとひどい悪巧みをしていたのだ…!"っていう展開、どうなの?悪役って主人公と同じくらい重要なキャラクターのはずなのに、それがどこぞの馬の骨が演じていた偽物で――ってなんか拍子抜けしてしまう。


(4)無論うまくいっている点もたくさんあって、例えば舞台となっている小国の箱庭的空間には様々な人種、錬金術やオートメイルを始めとする独特のテクノロジー、狼と人間の合成獣などまで登場し、『ハガレン』緻密で想像力豊かな世界観をうまく凝縮していると思うし、この深い溝の中にある国というロケーションが錬金術によるアクションシーンを立体的かつ見応えのあるものにしている。
 アクションシーンと言えばスチームパンクらしい蒸気機関車の上の戦闘も楽しかったです。


(5)以上、『ハガレン』を映画化するのならば、正史との連続性を持つ形で『ハガレン』という物語の要素を凝縮した一話完結にするというスタイルは一つの手段ではあるのだろうけれど、原作が10年くらい、単行本にして29冊分かけて築いた「連続」の物語を90分強でなんとかしようというのは――「等価交換」ではないんだろうなと。

 まあなんにせよ、エドやアル、マスタング大佐やアームストロング少佐、ウィンリィにまた会えたのは嬉しいです。広大で緻密な世界観、まだ描ける余地(『エピソード0』モノやエルリック兄弟とはあまり関係のない場所での物語など)がある作品だとは思うので、たまにはこういう形で新作を作り続けていただきたいと思います。

 田中みな美アナレベル。

 次回は話題作です。今更なんですが。ストリートアーティストのバンクシーの監督作品『EXIT THROUGH THE GIFT SHOP』の感想です。

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  1. 2011/08/08(月) 14:08:39|
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